18 綻びはじめた絆

リビングの窓を開ける。


朝の冷たい風が夏子の顔や手を冷やす。


冬児が鬼頭を病院送りにしてから季節は冬になっていた。


夏子が冬でも部屋を換気するのには理由がある。

冬児が鬼頭との一件で、不登校となってしまってから部屋の空気をより気にするようになった。

特に朝は1日の始まりである事をより意識しており、新鮮な空気が部屋に幸運をもたらしてくれると信じているのだ。


「冬ちゃんおはよう。

朝ご飯、できているからね。」


完全に塞ぎ込んでいる冬児は姿を見せないが、毎朝冬児の部屋のドアの前で夏子は優しく話しかけている。


「春君、冬ちゃんは1学期からずっと不登校のままよ。

あんなに明るかった子が、あそこまで無気力になるなんて…。」


「ああ。」


新聞を広げている春彦は夏子の視線を遮っている。


「確かに暴力はよくないしすべてを肯定するつもりはないけど、でも冬ちゃんは札付きの不良が暴れ回るのを止めたのよ。

そのまま見過ごしたらそれこそ、あの不良に誰かが殺されたかもしれない。」


「ああ、そうだな。」


春彦はページを捲って言った。


「警察だって冬くんには同情的だったし、あっ、ほら?春君と仲の良いあの若い警察官も冬ちゃんを責めなかったわ。」


「…あぁ。」


「さっきからなんなの?私の話を右から左へ聞き流しているだけじゃない。

今、私は心を閉ざしてしまった大切な息子の話をしているんだよ。

父親なら、もっと冬ちゃんに向き合わなければ駄目でしょ!」


グシャグシャ


春彦が広げて読んでいる新聞を強引に奪い取り睨みつけた。


一瞬だけ春彦は夏子と目を合わせたが、すぐ視線を逸らせて立ち上がった。

無言のままコートを羽織り、ビジネスバッグを手に持った。


「黙ってばかりいないで、なんか言ったらどう?

何度も言うけど自分の息子なのよ。」


「ああ。」


「上の空で聞いて頷くだけ?はぁ、こんな人だと思わなかった。

結婚15年目の今になってわかるなんてね!」


革靴を履いた春彦は何も言わず黙って玄関ドアを開ける。

冬とはいえ、眩しい日差しがヒンヤリした冷気とともに玄関から入り込んだ。


バタン


家を出ていく春彦のふるまいに、胸が破裂するのではないかと思うほどの苛つきでいっぱいになって着ていたエプロンを床に投げつけた。





会社の最寄駅で降りた春彦は、徒歩3分の道のりを嘆きたくなるほど、あっという間に到着した。

職場のオフィスビルの正面入り口に立つ。


スーツの上にコートを羽織った社員達が、なんの疑問を抱くこともなく続々入り口に吸い込まれていく光景を黙って見ている。


こないだまでであれば精励恪勤せいれいかっきんである春彦から率先と挨拶を交わし、同じ部署で働く同僚と仲良くはずだった。


白い息を吐き立ち尽くす春彦は皆が一斉に挨拶を始める光景を目にした時だ。

皆がいつも以上にこうべを垂れている。

高級ブランドのスーツに身を包んだ同僚のなかにを下した直属の上司の姿を発見した。


極度のストレスから春彦は激しい動悸に襲われた。

を告知されたばかりの翌朝で、ショックを拭いさる事ができずにいる。

上司の顔を見ただけで、あの時の淡々とリストラについて説明された情景が脳裏に浮かびあがってしまうのだ。


革靴はオフィスの入り口とは正反対の方向へ向いて走り出した。

駅から職場へ向かうウォーマルなコートを着た人々の塊が一斉に反対方向を歩く春彦へ向かってくる。


やっとこさ群衆から抜け出した春彦だったが特に行く当てもなく、オフィス街を抜けて気づけば商店街を歩いていた。


懐かしいな…。


最後に商店街ここへ来たのはいつだったか。


アーチを潜って歩行者より強引に進入する自動車と前を歩く人に我が物顔でベルを鳴らす自転車が行き交う、細い道を歩きながら思った。


商店街に足を伸ばしたのは、まだ秋奈が生まれたばかりの頃で、同僚が仕事で大きなミスをして酷く落ち込んでいた時だった。


風情ある赤提灯あかちょうちんが目立つ居酒屋を通った時、生真面目な春彦は同僚を飲みに誘って熱く語った記憶が蘇っていた。


おまえは会社にとって必要な人材だぞ。


優秀なおまえのクビを切るなんて事しないさ。もし何かあれば俺が全力で守る。


だから死にたいなんて言うな。これから力を合わせてやっていこうじゃないか。


そう熱く語ったのを今でもハッキリ覚えている。


時は流れ今では春彦が無情にも会社から肩叩きにあってしまった。

皮肉にもリストラを告げたのは当時、落ち込んでいた元同僚で、現在では出世を果たし上司になった男からだった。


全身から一滴残らず血が抜けて、身体が真っ白になったかのようだ。


周囲の人々が振り返るほど、目に見えて体調が悪い春彦は、吐き気を催しながらたまたま発見した枯れ木ばかりの大きな公園のベンチにへたりこむように座った。


虚な目をした春彦の正面にあるフェンスに括りつけられた看板には野球やサッカーをして遊ぶのは禁止、大きな声を出すのも禁止と記されていた。


北風が吹いて寒々とした公園には白い息を吐きながらセントバーナードを連れて散歩をする中年女性と、高校生のカップルがベンチに座り身を寄せながら彼氏のスマホを2人で見ている。


今時珍しく愛社精神を持ち、身を粉にして働いてきた春彦は、なにが原因で自分が肩叩きにあったかを考えはじめたが今更考えたところで後の祭りだ。


人生で初めて無断欠勤した事も不甲斐ない思いだった。

音を立てて枯葉が宙を舞う、寒風吹きすさぶ公園で項垂れている事しか出来なかった。

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