気になる人の名前が変わった件

天野詩

第1話 黒歴史

──佐藤春菜。

それは生まれた季節から名付けられた、柔らかで淡い印象を思わせる私の名前だ。自分で言うのもなんだけど、穏やかな性格の私によく合った名前だ。

私にとって名前とは、自分と他人を区別する番号札のようなもの。他の人がこの意見にどう感じるのかわからないけど、私にとってはそういうこの世に生まれたときに当たり前のように付けられた、なんの特別味もないものだった。

だってほら、変えられないなら、大人しく受け入れるしかないでしょう?ちなみに誤解のないよう言っておくと、私はこの両親が一生懸命考えてくれた名前に不満がある訳ではない。ただ、佐藤とか春菜はどこにでもいそうで、トキメキがないのだ。


では、名前が変わるとき、どんなことを人々は想像するのだろうか?


私は長い方程式が書き込まれた数学のノートが、置いてある教室の机に肘を立てて、そこから見えるまばらに雲が広がる空を眺める。少し視点をずらすと、桜の木が風に吹かれて名残惜しそうに一枚ずつ、あの淡い花びらをどこかの誰かに飛ばす光景が目に入ってきた。それはまるで次に訪れる、決して出会うことの出来ない夏への、小さな大量のラブレターみたいだと切なく思えて溜息が出てくる。


そもそも私が哲学のように難しい問いを立てた理由は、一つ前の席に座る桜井透にあった。

授業中にもかかわらず、そんなことはお構いなしに私はその背中をぼーっと見つめる。

彼の中学校までの名前は青柳透。桜井という苗字は高校に入ってから知ったものだ。

高校生になって初めて教室に入ったとき名前が変わったと知らなかった私は、大抵出席番号のときには彼は先頭に座っていた記憶があったので、とても驚いてしまった。

帰って一番にお母さんにその透君の変化を言うと、どうやら透君のお母さんは今年の彼の高校入学を機に結婚をしたらしい。

幼稚園からの馴幼染である透君の母親は、私のお母さんと仲が良いので私はよく知っている。確か十八歳のときに透君を産み、そのまま結婚をしないで大学の卒業後直ぐに働き始めたのだ。私はその行動力と決断に尊敬の念を抱いている。

透君のお母さんは波瀾万丈の人生を歩んできたとは思えないほど、活気に溢れていてオシャレで綺麗な人だ。きっと今までもそういうお付き合いはあったのだろう。

私はそのことをお昼を食べながら友達に屋上で話した。


「もうやだぁー。私がどれだけ気まずかったかわかる⁉︎」

「あれは傑作だったわ」


菫ちゃんがクスリと上品に笑って言った。

そう、私は入学早々にやらかしたのだ。まだ苗字が青柳だと思っていた私は透君に「席間違えてるよ」と言ってしまったのだ。つまりそれは、リアル『お前の席ねーから』状態である。幸い大きな声ではなかったので、周りからのいじめっ子認定は免れたが、近くにいた菫ちゃんには丸聞こえだった。


「あーあ。ウチも見たかったんだけど」

「あら。イジメを見たいなんて悪趣味ね」

「だぁーかーらー、違うってば!」


私は恥ずかしさを誤魔化すかのように、甘い卵焼きを頬張る。

その時教室にいなかった好奇心の強いなっちゃんは残念がっているけど、目撃者が少なければ少ないほど良い。あの騒がしい教室から隔離され、無音になる気まずい空間はもはや黒歴史である。

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