蚊取り線香
夜瀬 深桜
第1話
今から考えると、あれはかなり昔のこと。
一人の少女と、目が合った。
◇
あれは、俺の高一の夏休み。
俺は自転車で走っていた。どこかへ行く途中だったのか、家へ帰るところだったのか、あるいは目的なんかなかったのか。俺は走っていた。それなりのスピードで、風を切って。
川の、あれは何と言うのだろう。土手、だろうか。その上を通りかかった。川から吹く風を浴びて、束の間の涼しさに浸る。
そして、それは一瞬のこと。
ふと、川の方を見下ろした、その一瞬のこと。
一人の少女と、目が合った。
睨め付けるような鋭い視線。
少女は川に向かって立って、こちらを振り返っていた。
長い黒髪、白のワンピースに、裸足。
最低限のものだけを身に纏って、少女はそこに存在した。圧倒的な存在感と、美しさと共に。
目が離せないような、それでいて直視することも憚られるような、不思議な感覚だった。
俺は、引き寄せられるように少女のもとへと駆け出した。自転車にチェーンをかけることはおろかスタンドを立てることすらせずに、車体をその場に倒したまま。
◇
「話しかけないで」
なんとそれが、少女の第一声だった。
俺が不用意に話しかけてしまったからだけれども。
少女とは言うものの、実際には彼女はそれほど幼いわけではない。年齢は俺と同じくらいだろうか。
だけど、高校生、という肩書きは彼女には似合わない気がする。クラスメイトとか友達みたいな、言ってしまえばごちゃついた人間関係から、切り離されている、っていうか、初めからそれを知らない、っていうか。
どことなく人間らしさが欠けているように感じられる。
でもそれは、この世のものとは思えない、ってことじゃない。妙な現実味が、生活感が、ある。
例えば、そこに置いてある蚊取り線香。火がつけられて、煙を上げている。岩の上で。
ブタのやつとか、携帯用の入れ物みたいなやつとか、何もない。本当にそのままの蚊取り線香が、直接岩の上に置かれて煙を上げている。
なかなか見ることのない光景だ。こういうアンバランスな、非現実的な生活感が、彼女の奇妙な雰囲気を引き立てているのかもしれなかった。
少女が俺を見つめている。
じっと、というよりかは、じとっと。
睨め付けるような、ではなく、普通に睨まれている。
考えなしにここまで来てしまったけど、どうすればいいんだろう。
俺は何がしたかったんだ。
少女とは面識もないし、知らない人間と積極的に交友関係を築こうとするような、社交的なタイプでは、俺はない。
少女に不審に思われている。
危害を加えようとしてるんじゃないってことだけは言わないと。この思考回路がすでに危ないやつのそれだけど。
「こんにちは」
声が上ずった。
「あの」
僕は、と、そう言おうとして、止まった。
俺の名前とか、どこの高校に行ってるのか、とか、少女が知りたいのはそういうことじゃないだろうし。なんならこのタイミングの自己紹介は、かえって怪しいし。
てか、僕、って。取り繕う気満々じゃん。
中途半端に止めてしまったことでより、おかしなことになった。もう何も言えない。
少女が眉をひそめる。数瞬の後、口を開いて、そして、あの一言を発した。
「話しかけないで」
凛とした、静かなのに迫力のある声だった。
言葉が全身に染み込んでいくような、不思議な心地がした。
もういい、帰ろう、今ならまだ、いずれ忘れてもらえるくらいの失敗で済む、そう考える俺も、ちゃんと存在してる。これ以上関わってもいいことはない、大人しく謝って引き返そう、って。
でも、もう少しだけ、その声を聞いてみたいと思ってしまった。あわよくば、もっと友好的な言葉で。
「あの、ごめんなさい」
「関わろうとしないで」
「いや、でも」
「何?」
何も考えていなかった。何も、ない。だけど、ここで黙ったらさっきと同じだ。
「えっと、蚊取り線香、なんで直接置いてんの?」
テンパった末にひねり出した話題だった。
少女は言い返さない。睨み付けても、こない。
蚊取り線香を見つめている。
「いや、ちょっと気になっただけ」
「君には関係ない」
「だよな、ごめん」
気まずい沈黙が流れる。
「しつこく話しかけて悪かった。俺は帰る」
少女との距離感が掴めなくて、なんだかぎこちない文になってしまった。
「それが気になるなら」
帰ろうと背を向けた俺に、少女が言った。
「君が持って来て」
何を?
「蚊取り線香の入れ物、明日」
◇
少女が俺に話しかけたことに、まず驚いた。
でも、もっと驚いたのは、明日もここに来るように、少女が要求したこと。あんなに敵視されていたのに。
そして俺も、大切な夏休みのうちの一日に、自分の意思と関係ない予定が入ってしまったのに、なぜ、こんなにもそれが楽しみに思えるのか。なぜ、それを予定、とまで捉えて、無視することを考えないのか。
俺が話しかけた結果だから? 蚊取り線香のことが気になるから? どうも違う。
不思議でならなかった。
◇
「あんまり可愛くはないね」
だろうな。別に可愛さで選んでないから。
翌日、少女は俺が持って来た、まあなんというのか、皿、かな。それを見て言った。
「でも貰っておく。ありがとう」
「……」
なんだかな。せっかく持って来たのに、可愛くない、か。
でも、ありがとう、とも言われた。少なくとも、話しかけないで、よりは好ましい言葉だ。
少女はさっそく、その皿を使った。線香を乗せるピンみたいなのがセットになってるやつだ。
新しいものを入手できたことを喜ぶ様子も、好みじゃない皿を与えられたことに不満を持つ様子もない。
少女は出会って以来、少しも表情を変えていない。
少しも、ではないか。俺を睨んだとき以外は、だ。
俺がそこから見てとれた感情は、邪魔をするな、というただひとつだけ。
だけどもしも、その端正な顔立ちに笑みが浮かべられたら、その切れ長の目が細められたら、どんなに綺麗だろう。
「うん、いい感じ。もう大丈夫。帰ってもいいよ」
なんて自分勝手な。渡す物を渡したら俺は用なしなのか。純粋に線香を動かせないことを不便に思っていただけで。
「帰らないの?」
こいつ。
どっかの国のお姫様か何かかよ。
お前の考えひとつで人が動くわけじゃないんだよ。
「……」
いや、俺も用はないし、帰るしかないけど。
「ああ、帰るよ。じゃあな」
そこまではよかった。でも、つい、出来心で、こう言ってしまった。
「もう持って来てほしい物はないか?」
腹立ち紛れの、ほとんど当てつけの様な一言だった。
「ああ、えっとね、じゃあ」
おい。あるのかよ。聞いたのも悪かったけど。
俺は明日もここへ来るのか。
「綺麗な花が欲しい」
はいはい。お姫様の仰せの通りに。
◇
「うん、綺麗。なんか思ってたのと違うけど」
たぶん、思ってたの、ってのは花屋で売ってるようなやつだろうな。
対して今、目の前にあるのは、道中摘んで来た、まあ言ってしまえば、雑草だ。
知り合って数日の人間のために自分のお金を使いたくなかった。かといって、親に貰う、ってのもない。高校生にもなって。
そもそも、そうなったらこの状況をどう説明すればいいんだ。この前たまたま出会っただけの女の子に花を買いたいので、お金を出してください? 無理だ。
結果として集まったのは、名前も知らない、紫やら、白やら、黄色やら、の花。
身銭を切るよりずっとマシだと思っていたけど、花を摘むのはなかなかの手間だった。
なにぶんこの気温だ。
念のために、と思って持っておいたペットボトルの水がものの数分でなくなった。
文句を言われるかと思ったけど、どうやらあの花達は、少女のお眼鏡には適ったようだ。
「ありがとう」
相変わらず表情は変わらないけど、喜んではいる、のか。
ただし、そこで少女がとった行動は、川の淵に花を直接置く、だった。
流される流される。
少女は花瓶を持っていなかった。
花を枯らすまいと、水に浸けようとしたらしい。
「大丈夫か?」
「うん」
「……」
数本流された。
「これ使う?」
「うん、ありがとう」
空のペットボトルだ。
花を生けると非常にバランスが悪い。
「うん、もう大丈夫。君は帰る?」
昨日とほぼ同じセリフを発した。
なんだろう、語彙が少ないな。
知っている言葉が少ない、ってことじゃないだろうけど、俺にかける言葉がパターン化されつつある。
「ああ、帰る」
俺は、何か欲しい物はあるか、とは言わない。
そんなパターンを作ってたまるか。
「そう」
ぼてっ。
風に煽られて花が倒れた。
「あ」
すかさず、少女が駆け寄る。
花をボトルから引き抜き、水を汲み直した。
少女の白い肌が、水に濡れて柔らかく輝く。
「日焼けしないの?」
「あんまり黒くならないタイプ」
「へぇ。赤くなる日焼けはほぼ火傷って聞いたことあるけど」
「私は気にしない」
「対策した方がいい」
「君には関係ない」
「でも」
「もしも君が気になるなら」
あ。
「君が明日持って来て。日光対策」
やってしまった。
「日光を遮れるパーカーみたいなのがいい。できれば、暑くない、ひんやりする素材の」
俺が言うか否かに関わらず、これはもうパターン化されてしまっているらしい。
◇
「暑い」
「え」
そんなはずない。ちゃんと、冷感素材、って書いてあるやつを買って来た。
そう。買って来た。さすがに俺とか家族のを着せるわけにはいかないと思って。でも。
「暑い?」
「うん。少なくとも、ひんやりはしてない。普通の布地」
「そっか」
他のパーカーよりちょっと高かったんだけど。
「これ、いくらだった?」
「え?」
「さすがに、人様に服を買わせるのは」
出会って以来初めて、少女が申し訳なさそうな素振りを見せた。
「いや、いいよ。あげるつもりで買ったし」
「さすがに駄目。私の代わりに買い物してくれるのがありがたいから」
そんな一般的な価値観が、こいつにあったのか。
一度、いい、と言ってしまったために、俺としては非常に決まりが悪かったが、個人的には痛い出費だったので大人しく、代金を受け取った。
「ちょっと家が厳しくて、小遣いが少ないからさ」
「へぇ」
少女はすこぶるつまらなそうに相槌を打った。
そりゃそうか。よく知らないやつの、全く知らない家族の話に興味なんてないだろう。
なんだかすごく場違いなことをペラペラと話してしまったようで、急に恥ずかしくなってきた。
「じゃあ、俺は帰る」
「そう」
「明日、何か欲しい物ある?」
惰性というか、半ばそれがルーティーンになっていた。
「そうだね、えっと」
今度は何を言うんだろう。
まあ、少女にある程度の常識があることもわかったし、何を要求されても、もはや平常心でいられるかもしれない。
「えっと、何もない」
「……」
冷静に考えればそれが普通だ。
だけど、俺はなんだか、拍子抜けしたというか、肩透かしを食らった気分だった。
◇
「なんで来たの?」
少女はそんな言葉で、俺を迎えた。
出会った当初のような、俺を拒絶する刺は、そこには存在しない。純粋に、用事のない俺がここに来たことを、不思議に思っているらしい。
「……」
そうだな。なんで、か。
家にいたくなかったから、かな。せっかくの夏休みに、家族と四六時中顔を突き合わせているなんてごめんだ。
こんなことを言っても、彼女は困るだろうな。
だから、伝えるなら。
「なんとなく、かな」
「そう」
今日は本当に用事がない。特段、話すようなこともない。そこに流れる沈黙を、でも俺はもう、気まずいとは感じなかった。
少女は花を眺めている。俺が一昨日、持って来たやつだ。少し萎れているけど、まだ持ちそう。
あれは夜中に倒れはしないんだろうか。そもそも、ずっとここで管理しているのか? 少女が持ち帰っている?
謎だ。
「ねえ」
少女が俺に話しかけた。
「お願いがある」
思えば、数日でずいぶん、話し方が柔らかくなったものだ。
「何?」
「私のペンダントを、取って来てほしい」
「え?」
「さっき、カラスに持って行かれた」
奪い返せと言うのか。
そのお願いの実現は、困難を極めると思うが。
「カラスはどこに行ったんだ」
「そこ」
少女が指を指した方向を見ると、数十メートル先に、一羽のカラスがいた。
「私じゃ捕まえられない。逃げられたらおしまいだと思う」
「たぶん俺も無理だよ」
「じゃあいい。諦める」
「……」
やるよ。やるとも。
俺は足音を忍ばせ、カラスに向かって一歩を踏み出した。
二歩、三歩、着実に近づいている。
四歩、五歩、でもこれ、素手で掴むのか。衛生的に、大丈夫なんだろうか。
六歩、七歩、ペンダントが見える。ご丁寧に首にかかって、というか、絡まってしまっているようだ。
八歩、九歩、あと少し。
カラスがぴょんぴょん、と二歩ほど移動した。距離が開く。
そこからが問題だった。俺が一歩進むごとに、カラスがそうやって離れるのだ。
距離が詰まらない。もう走ってしまおうか。静かに走れば、いけそうな気がする。
俺はカラスに駆け寄った。
そして、あと少しで手が届く、というところで。
バサバサバサバサッ。
カラスは飛び立った。首にそんな物が引っ掛かっていたら、カラスにとってもまずいだろうに。
高く飛び上がり、視界から消えた。
「ごめん。取れなかった」
「ううん、大丈夫。もともと君が来なかったら諦めてたし。ありがとう」
ふと、どうして今日はペンダントを持って来たんだろう、という疑問が浮かんだ。普段は着けていないはず。
いや、余計なことは言うまい。
「じゃあ、俺は帰る」
「うん」
「取り返せなくて、本当にごめん」
「ううん」
「何か明日、持って来る物はあるか?」
「いや、大丈夫。ありがとう」
「そうか、じゃあな」
「うん、また明日」
また明日。
何もないけど、当然のように。
◇
「え、どうしたの、その怪我」
少女は言った。
その怪我、というのは、右腕の擦り傷のことだろう。実際には、どちらかと言うと背中から腰にかけての方が痛い。
何があったかと言うと、まあ転んだだけ。
海に行ったんだ。あの、たまに見掛ける角の取れたガラスの破片と、貝殻が拾いたくて。
その目的自体はすぐに達成できた。
そして、帰ろうとしたとき。砂に足を取られた。上手く踏み込めずに後ろに大きくバランスを崩し、近くにあった岩に腰と背中をしたたかに打ち付け、右腕を擦った。それが昨日のこと。
「なんでもないよ」
わざわざ説明する程のことではないだろう。
「あのさ、よかったら、これ」
「何これ」
「ペンダントの代わり、みたいな」
拾ったガラスに針金を巻き付け、穴を開けた貝殻と一緒に紐を通した、首飾りと呼ぶのも烏滸がましい、何か。
これが俺の技術の限界だ。
昨日、彼女のペンダントを取り返せなかったことが、どうしても気になった。
それなら買えばよかったのかもしれないが、なんだかよくわからない抵抗があった。アクセサリーを買うことに対して。
そして、俺が買ってしまうと、彼女は俺に対して、その代金を支払う可能性がある。俺がもっと上手くやればよかったんだから、それだけは絶対に避けなければいけない。
これなら、原価はかかってない。少女は受け取るはずだ。
「いらなかったら、それでもいい」
「ううん、貰うよ」
少女がさっそく首に掛け、ガラスを空にかざした。
「綺麗だね」
こちらを向く。
そして、ゆっくりと目を細め、ゆっくりと口角を上げた。
「大切にする。ありがとう」
それは、俺が初めて見る、彼女の笑顔だった。
想像よりもずっと綺麗で、ずっとずっと愛らしい、無邪気な笑みだった。
「ああ」
それはそれは、魅力的な。
「じゃあ、俺は帰る」
「そう」
いつもと同じやり取り。
「明日も来る」
「うん」
明日も会える。
「じゃあな」
「さようなら」
俺は振り返りもせず、いつも通りに家路についた。
◇
君へ
私は引っ越します。理由は親の転勤。もうここには来られなくなるし、君にも会えなくなります。
君と過ごせて楽しかった。
ペンダントもありがとう。
お皿は返します。パーカーも。
余ってる蚊取り線香は君にあげます。いらないかもだけど。引っ越し先はもっと都会だから、たぶん蚊もいないし。
最後までこんなわがままに付き合わせてごめんね。
◇
翌日、俺がそこに着いても、少女はいなかった。
代わりに、あの皿と、パーカーと、蚊取り線香がいくつか。
そして、小石で押さえられた、二つ折りの紙。
少女からの手紙だった。
心臓が一つ、大きく鳴る。
引っ越し。親の転勤。
そんな普通の理由で、いなくなってしまうのか。
ここにいれば、俺はそれで大丈夫なんだと、勝手に思っていた。
毎日が退屈で仕方なくても、見たくない現実があったとしても、ここでなら関係ないと、思っていた。
この空間が、少女が、この世界の全てにすら感じられた。
違ったんだ。
ここは、近所の河川敷で、少女は、たまたまそこで出会った、一人の人間。
俺にとっては、少女は非日常そのものだったけれど、彼女自身にとっては、そうじゃない。
日常の一部。
俺が特別だと思った出会いも、世界から見れば、意外性の欠片もない、普通のこと。
俺にとってさえ、いずれは、ありふれた思い出の一つになる。
◇
蚊取り線香に火をつける。煙が空に溶ける。
この空の下のどこかに、少女は暮らしている。
少女は、俺のことなんてすぐに忘れるだろう。
俺も、蚊取り線香を使いきる頃には、きっと忘れる。
そして、時々思い出す。
そんなこともあったな、って。
これは、たったそれだけの、一夏の思い出。
蚊取り線香 夜瀬 深桜 @YoruseMio
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