なんじゃもんじゃ異聞樹譚

ヤマワロ

序章

プロローグ ニアヴは夢見がち

 ……その樹に触れてはなりません。あなたに森の王たる覚悟が、ないのならば……


 その樹は、のたくるようななりだった。幹のふしくれがひしゃげた顔をなして、眼下の生き物をにらみつけていた。


 その生き物は、土色の肌の裸身をさらし、二足で直立していた。体毛は薄く、尾も羽もなかった。しかし頭部の毛は豊かで、それらは人間の特徴を示していた。

 その生き物は、顔の部品の位置も人間同様だった。しかし、髪は草色で、耳はウサギのように長くとがり、鼻はブタのようにそり返っていた。大きな目玉をおさめる眼窩がんかは上部が厚く、ギョロ目にひさしをかけていた。

 その生き物は、ほおがえぐれるようにコケて、四肢ししがしなびたようにすじ張っていた。それは、そのふくれた腹が、栄養不良のゆえんであろうことを連想させるものであった。


 その生き物は、力なくひざだちにくずおれた。救いを乞うように、眼前の樹へと震える手をさしのべ、そして――


「やあ、ニアヴ!」


 その明朗めいろうな響きに妖鬼はかき消え、奇樹きじゅは単なる雑木ぞうきへと姿を変えた。


 雑木ぞうき膝丈ひざたけほどの低木ていぼくで、娘がひとりうずくまって見つめていた。ニアヴと呼びかけられた娘は、背中越しに立つ声のぬしへ、ふり返らぬまま言葉だけ返した。


「ねえ、オシアン。この樹、まるで苦悶くもんする人間のようだわ……」


 ニアヴの長くまばゆい金髪は、葉っぱをかたどった髪どめとともに、微動だにもしない。


 オシアンと呼ばれた青年は、褐色かっしょくめいたミディアムの金髪をさらりと風に揺らした。ボタンどめのえりなしシャツに、重ね着したジャケットも揺れ、長ズボンをつるサスペンダーをのぞかせた。


 オシアンは、飾りけのない短ぐつを鳴らし、芝居がかった調子で答えた。


「ふーん、人面樹マンドラゴラかな? 引きぬいたらコトだぞ……」


 そのあとのひと呼吸の間は、オシアンを不安にさせるものだった。


 しかして娘は、すっくと立って、クルリとふり向いた――大きなえりのブラウスに重ね着した、そでなしのワンピース。そのすそが、ベルトですぼめたくびれから、フワリとはためいた。

 亜麻色あまいろの金髪は、光を残したなびいて、ニアヴの顔もまばゆくほころんでいた。


「この世には、樹にまつわるたくさんの物語があるわ!」


 ニアヴは言いながら、両の手のひらをひと鳴らしして合わせた。夢みる瞳を薄目がちに、身ぶり手ぶりで話を続けた。


聖域エデンになる木の実には、天与てんよの力が宿るのです。それは時に叡智えいちを、時に不老不死をもたらしました」


 ニアヴの両手が、虚空にみのる幻想の実を包みこんだ。話は続く。


「古い巨樹きょじゅには、妖精が住まうのです。それをある人は美しい乙女の姿と言い、ある人は醜怪しゅうかいな悪魔と言いました」


 ニアヴは、右上に憧憬しょうけいのまなざしを、左上に恐怖のまなざしを向けた。話は続く。


「妖精は、生来の悪意によって、取りかえっ子をしました。産まれたばかりの人間の赤子をさらい、醜い木偶でく人形を置いていくのです」


 ニアヴは、胸もとに抱える幻影の赤子をあやした。話は続く。


「森の奥深きに、足を踏みいれてはなりません。鬼人に怪物、魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする、人ならぬ者たちの異界なのですから」


 ニアヴは語るにつれ高揚こうようし、所作しょさは舞うようであった。ひとり舞台は、まだまだ終わらない。


「樹は、あるところでは神の似姿にすがたであり、あるところでは悪魔の化身であり、あるところでは異界への扉でした。そしてまたあるところでは、これといったいわれもなく、なんじゃもんじゃと呼ばれていました」


 ニアヴの物語がやっとひと息ついて、オシアンはひたいにかかる金髪をかき上げた。


「やれやれ、ニアヴの空想癖は相変わらずだ! その木にも、何かいわれがあるかもね!」


 とたんにニアヴの顔から火が消えさり、プイと後ろを向いてしまった。


「伝説やおとぎ話にも、一片の真実があるものよ。ひと続きの歴史が、分裂融合、換骨奪胎かんこつだったいの果てに、新たな物語になるの」


 ニアヴは続けた。先ほどまで、熱心に見いっていた足もとの木を、今度は冷たく見おろして。


「これはただの雑木ぞうきだわ」


 ふたたびオシアンは、彼女の金髪に絡む、手のひらのような葉っぱを拝まされた。彼は思案げにあごをさすると、もうひと芝居としゃれこんだ。


「血を流す樹があった。悪魔は神罰により、身もだえも叶わぬ樹と変えられた。死を乞う樹は、その身切りさかれ命果てるとき、魔性の血を滴らせた。血は樹の力を帯び、不老長寿の妙薬みょうやくとなった」


 オシアンは、いつの間にやら拾っていた、枯れ枝をかざして続けた。


「そして、その血でその骨身をすすげば、樹は鉄なぎの魔剣と化し――」

「何それ」


 ニアヴは誘い水に惹かれ、半身だけ返し尋ねた。オシアンは、弾んで問いかえした。


「その魔剣みたい?」


 勢いづくオシアンとは裏腹に、ニアヴは冷ややかにひと言はねつけた。


「別に」


 あせるオシアンはまくしたてた。


「なんとウチにあるんだよね!」

「へぇ」

「変な木のうわさ、知ってるだろ?あれを使ったらしくって――」

「ほぅ」

「飾り物みたいなくせして、やけによく切れてさ――」

「ふぅーん」

「ほ、本当だって! 今度見せてあげるよ!」

「それは、それは」


 あがけども、わめけども、ニアヴはすげもなく、オシアンは「ちぇッ」と木ぎれを放って降参した。


 ニアヴは、改めて雑木ぞうきを見おろした。しばしののち、ニアヴの編みあげの深ぐつが、片足だけ持ちあがった。雑木ぞうきをゲシッと蹴りとばし、背中越しに呼びかけた。


「ねえ、オシアン」


 ふり向いたニアヴの目に、ふたたび火が灯っていた。話は続く。


「植物はその種子を散布するために、風や虫、鳥獣に水の流れと、さまざまに利用するのよ」


 誘蛾灯ゆうがとう煌々こうこうとして――惹かれるオシアンは自身にあきれつつ、合いの手を引きうけた。


「それが何だい?」

「例えば、人間とその命を利用する植物があるとすれば、どんなものかしら?」


 ニアヴの瞳は、微笑とともに妖艶ようえんを帯び、オシアンの心霊は捕らえられた。ニアヴの言葉が、その声音が、彼女自身を彼方の異界へと連れさっていく。見まもるオシアンは手を引かれ、追いかけていく。ふたりだけのひそやかな冒険旅行。


「例えば、世界の終末……人の生きれぬ世の荒廃……人を、この世をかてとして……繁茂はんもし……蹂躙じゅうりんし……やがては世界となりかわる……そんな樹があったなら――」

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