カントリー・ロード。それから、遠き山に日は落ちて

 出水邸のWi−Fiに繋がったEAPを経由して、ボクのネーミングセンスには及ばないけれど、まあいいんじゃないのと言う、底抜けにシュールな了解をくれた先生ししょーは、コーラがなみなみ注がれたアルミのジョッキを手に、母さんとともにキッチンから戻ってきた。

 さっきと同じように、俺の隣に腰かけると、絶対に一リットルは入っていそうなサイズの艶消しシルバーの器を嬉しそうに傾け、まずは一口。それからさらに三口。

 口の端についた甘ったるそうな褐色の雫を拭った右の拳まで、ぺろりと舐め取ろうとした彼に、どうにも我慢ならなくなった俺が声を上げたのは、母さんが口を開いたのと、示し合わせたように丁度ぴったりのタイミングだった。

「やめなよ、ショウ。先生せんせいがいないからって、行儀悪いよ」

「ショウ兄ちゃま。おぎょうぎわるすぎ」

「あ」

「え」

 顔を見合わせあった俺と母さんに向けた、からかうような声音こわねのあと、先生はポーリャのことを、改めて口にしてくれた。

「ほとんど初対面なのに、なんだか仲がいいね、二人とも。紹介するよ、ゆき。彼女の家名はカントリー・ロードって言うんだ」

「カントリー・ロード? そりゃまた、変わってるね。――〜〜♪――この曲のタイトルと同じなの?」

 サビの途中から入ったハミングを、すぐにミシレシー……と切ったゆきに、先生は全くと言っていいほど淀んだところがない口調で答えてくる。

「変わってるけど、たまたまらしいよ。ポーリャちゃんの魔法のことで、母方と父方の折り合いがつかないから、複合姓を名乗ってるんだって、本家が電話で師匠に言ってたもん」

「ふうん……、そうなんだ。ポーリャちゃんは、いくつになるの?」

 他人が迂闊に立ち入りにくいような、家庭の事情を匂わせて、母さんの追求をごく自然にかわしやがった。

 時々だけど、俺の知ってる先生より、だいぶエッジが効いてないか、この子。

 そんな感想がチラリと頭をよぎるが、レベッカの姿でそれを口にするわけにもいかないので、俺は素直そうな口振りで、母さんの問いかけにだけ返事をする。 

「五歳!」

「うっそ、まだ保育園生じゃん」

「どこにも通ってないけどね、この子。甲南湖かなごにきたばっかだし」

「じゃあ来週からは?」

 大きな黒目が、さらに見開かれたかと思ったら、今度は逆にスゥッと険しくなるのを、座卓越しに俺ははっきり見てしまった。

 ちょっとマズくねと言う思いが、彼女の子供をやってきた経験を根拠に胸の中に浮かび上がる。

「そりゃもちろん、師匠の家だけど?」

「先生がいなくて、うちらが学校の日は?」

 笙真君。気づけ。さっきの鋭さは、どこ行った?

 母さんが懸念していることを、先生に直接口で伝えられないもどかしさに、俺はハラハラするしかない。

「ひとりで……や、違うな。あし――今日の晩からしばらく、ここへお客さんが来るから、師匠がいない時はその人と二人で留守番になるかな」

「……その人は、出かけたりしないの?」

「するよ。むしろ温泉とか廻り倒すんじゃないかな」

「はあ? なにそれ、師匠とか言いながらありえなくない? ちょっと、ショウさーん。こーんな小さい子、一人で残すとか駄目すぎでしょ。ジソウがすっ飛んでくるよ。决めた、ポーリャちゃん、今日から、あたしの家に泊まりなよ!」

「えっ、おねえちゃまのうちにぃ?」

 マジかよ! ねえわ。絶ッ対にない!

 予想通り、声が裏返りそうになるほどの、とんでもない提案を向けられて、心の中で、俺は思わず絶叫した。

 魔法使いとして、本物の以心伝心を体現できるはずの先生は、春夏仕様の掘り炬燵の下で、くるぶしをガツンとぶつけられて、節電のために《基盤上のバリア》を解除済みだった、こちらの心を瞳越しに一瞬だけ覗いてくる。

 そこでようやく、俺が非常に焦っていることに気付いたらしい。

 この人俺の母さんなの! ここに俺がいるなんて知られるわけにいかないから!!と全力で主張している俺の気持ちを受け止めて、本当に遅まきながら口を開いてくれた。

「ちょ、ゆき。そんな勝手に」

「なによう。いいじゃない。心配なんだもん。それとも、なあに? あたしんちにポーリャちゃんを連れてくのって、ショウ的にはマズいわけ?」

「マズくはないけどさ。師匠やおじさんたちに聞いてないのに、大丈夫? 夜中だからって、変なことばかり言ってると、魔法がねるよ」

「大丈夫、大丈夫。ちゃあんと家でおさらいしてるから。ほら、これ見てよ。本物みたいによく描けてるでしょ?」

 なんとか話をはぐらかそうと、先生が聞こうとしている“大人に確認する”ことには、実質ゼロ回答のまま、ゆきが傍らに投げ出していたナップザックの口から引き抜いたのは、乱雑に差されていたままの紙筒だった。

 括っていた輪ゴムを外して、広げる。もとに戻ろうとする画用紙を、両手で伸ばしながら彼女は、色鉛筆で描いた作品を俺たちに見せてくれた。

「ね、悪くないでしょ。チュチュを描いてみたんだけど、三十分で仕上げたんだよ、それ」

 あっさりと言ってのけた彼女だったが、その中身は結構とんでもないものだった。

 ――魔法だな。しかも、「あらはし」の。

 普通にえがけば、数十時間は下らないはずの、画用紙の上から、今にも歩きだしそうなオレンジ色の猫の、写真と見紛いそうな完成度の絵に、俺は思う。

 ああ、もう、気になる。この絵にかかってる「顕し」のことも、さっきのミフネのことも詳しく問い質したい!

 でもなあ、ベッカちゃんが知らない間に、話を進めるのはちょっとおっかないかな。

 今だって、先生は一つ嘘を重ねたばかりだ。

 そのことを説明されていないレベッカにとんでもないことを口走りでもされたら、確実にまずいし。

 そんな一人問答を、頭の中で繰り広げ、俺は結局、ボロが出ないうちに、眠いふりをすることに决めた。

 右手で目元をこする真似をしつつ、先生のジャケットの肘のあたりを、レベッカがするように左手でクイクイ引いて、ポーリャ、眠くなっちゃった……と呟く。

 目には見えないままのEAPに移した視界の中で、くてんを体重をかけてきた幼女の身体を、優しく抱き上げてくれた先生は、あとから付いて来ようとした少女に向けて、唇に人差し指を添えながら、小さく頷くと居間から廊下に居場所を移す。

 少女は、頷き返しただけで、付いてこなかった。

 俺は、宮代ゆきが本当に階段を上ってこないことを二、三分の間確かめてから、EAPを呼び戻す。

 レベッカの身体をベッドに横たえて、再び階下へ戻ろうとしていた先生に、俺は彼女の目を薄く開けて囁いた。

「ベッカちゃんへの説明は俺がしとくからさ、母さんのことは任せるよ。今日は朝の練習、させないでいいよね?」

「もちろん。なかなか様になってるレベッカ嬢ぶりで驚いたよ。ゆきが帰るように仕向けるけど、帰せなかったらごめんな、先に謝っとく 」

「無理しないでいいよ。まだ暗いし、危ないから。母さんに何かあったら、俺が生まれなくなっちゃう。また金曜日に」

 小声で軽口を叩き合ったあと、俺は先生に向けて、早く下へ戻るよう促した。

 先生は、そんな俺とレベッカの身体に黙ったままブランケットを掛けて、部屋のドアをパタンと閉める。彼の足音が下へ降りていくのを聞きながら、俺は、彼女への説明をどうしようかと考え始めた。

 時間は、午前三時を四半刻ほど回ったばかり。眠気には、先生と母さんが夜道を歩かなくていい程度の時間までなら、どうにか抗えそうな気がした。

 あ、そうだ、これを忘れていた。

 スマホのパイロットランプと、常夜灯のオレンジ色の明かりだけが照らす部屋で、忘れかけていた作業の存在を、俺は危うく思い出す。

 いけねえ、いけねえ。これが“一番大切な俺の仕事”のはずだってのに……。

 そう思いながら、巡らせ始めた思考を、頭のすみに一旦退けた俺は、充電中のEAPと再びリンクを繋ぎ直すと、一つだけアプリを呼び出した。

 午前二時から切ってしまったままだったレベッカの「上り」と「下り」を、《ドヴォルザーク》と名付けたばかりのアプリを操って、新たな異常が生じていないか確かめつつ、ゆっくりと繋ぎ直す作業だけに、俺は集中する。

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