五時の時報

 十九しち時からのニュース番組が、気象情報に変わったくらいのタイミングだった。

 ――レベッカがざわざわするって言ったのは、これか。

 胃のあたりから突然沸き上がる、なんとも形容しがたい感覚に俺は思った。

 強いて言葉にするならば、誰かに折り直しを命じられた折り紙にされたみたいな気分。そうかと思えば、いきなり五感全てが遮断された。

 「読み」を使って、五感の強度をゼロにした時とは全然違う、天地さえ分からない薄闇の中で戸惑っていると、存在しないはずの襟首を思いっきり引っ張られた。俺が、昨日の早朝に「向こう側」と評した場所へ連れ込まれる。

 気が付けば、彼女が練習していたはずの箸が座卓の上に転がっていた。レベッカの両手が、靴下を履かされたようなちんまりとした白い前脚ポウになったせいだ。

「一日二回しか機会がないんだから、今の感じを忘れないでよ」

「そうゆうことはさきにゆって」

 内容はともかく、完璧にアウトになってからのタイミングで助言をする先生。

 慣れない箸に苦戦して、ずっとイライラしていたレベッカが、視界の先に見える尖ったマズルを更に鋭くしたような口調で応じる。

 どんな仕掛けによるものなのか、折り紙に貼り付いていた余計な紙片から、人間に戻された俺の心を丸ごとくるんでいる幼い女の子の言葉に、そりゃそうだと頷く。

 EAPを探ると、リンクは繋がったままだった。レンズを通して、俺は我が身かのじょを外から見おろした。

 そこには、つやつやした被毛に覆われた銀灰色の仔狼の姿。さっきまでと比べて、ふた回りは小さいその身体は、レベッカの苛立ちを反映してか、少しだけ膨らんで見える。

「もとにもどる練習、してもいい?」

「当然! キミに聞かれなかったら、ボクの方からやりなさいって言おうとしてたところだよ」

 ――先生ししょーに教わるように勧めたのは、失敗だったかな……?

 俺のことはそっちのけでツンケンした声同士がぶつかる様に、ちょっとだけ頭を抱えたくなる。

 そうやって開始した二限目の授業は予想通りレベッカが人の形を取り戻せないまま、二十はち時を以てお開きになった。

「明日は、五時に起こすからね」

 スマホで調べたばかりの、あくる日の夜と朝の境となる時刻を告げる少年の声。

 それを聞いているのかすら怪しい、ほうほうのていで、玄関の三和土たたきへとレベッカが逃げ込んだ。

 冷たいタイルの上に手足を投げ出して、腹ばいになったまま、あえぐような呼吸パンディングを止められない彼女へ、あろうことか犬用にしか見えない水飲み皿を差し出す弟子に、知恵さんが冷蔵庫から取り出したばかりのミネラルウォーターのボトルがきれいに炸裂クリティカルヒットしたのは、言うまでもない。


  ◇


  何かにはっとして、目が覚めた。EAPを呼び出して確かめると、まだ午前二時過ぎ。立派な丑三つ刻である。

 身体は……相変わらず仔狼のままだ。玄関の冷たい三和土の上。

 ……これじゃあ、まるっきり犬っころと変わらないじゃないか……。俺にしろ、ベッカちゃんにしろ、こんな場所で……眠るような……ではないだ……ろ……うに…………。

 時計が告げてきた時間のせいだろう、すぐさまおとなった強い眠気に再び身を委ねる。

 幼児の時よりも、さらに高い熱を帯びている身体に三和土が冷たくて、気持ちいい――。

 ――…………。

「……ポー――ゃん。――ベ――嬢。――昴。ちょっと、こんなところにいたら、身体に毒だよ。どちらでもいいから起きなよ」

 そう思うなら、どうして上に連れて行ってくれなかったの――?


 先生の声に執拗に呼ばれて、ようやく俺だけパチリと目がく。でも、それだけだった。

 レベッカがまだ眠っているせいか、右目以外の身体は微動だにしない。どうやら、狼の姿の時は、圧倒的に彼女の方に分があるみたいだ。

 仕方がないから、どうにか自由になる片目だけは恨みがましそうにしてやった。どうぞ「読め」ばいいと、半ば投げやりに思う。

 そうこうしているうちに、身体に力が入るのが分かった。レベッカが、やっと目を覚ましたらしい。

「なんじ……?」

 昨夜、たくさん水を飲んだ割にはガラガラの声で尋ねた仔狼に、先生が短く答える。

「あと少しで、約束の時間」

「まだ、ねむいよ……」

「練習するんでしょ」

「……うん」

「トイレは大丈夫? もし行きたいなら、急いで。朝になっちゃう」

「だいじょぶ、もどってからに……やっぱり行ってくる」

 昨日、汗だくで洗濯行きになったナイトドレスの代わりとして選ばれた、薄手のワンピースドレスと肌着キャミソール

 仔狼の身体にはぶかぶかな二枚分の襟ぐりから、尻尾の先まで一気に抜け出して急ぐ彼女に、俺は尋ねた。

 ――服、拾わなくていいのか?

「あとでにする」

 問いかけに、一瞬だけ後ろへ視線を流しながら返事をするレベッカ。

 獣姿のまま四つ足で駆け、人の身体とは全然違う不器用な前脚で、ドアノブをガチャガチャ鳴らしながらどうにか押し下げる。

 そうやって作った扉の隙間を鼻先でこじ開けると、するりと手洗いの中に入り込み、固まる。

「どうしよう……おっこっちゃいそう」

 どうやら、今の身体と、人間用のトイレのギャップに戸惑っているらしい。

 まったく、世話が焼ける。

 そう思ったAIのポーリャからの叱咤激励を受けて、辛うじてことを済ませた彼女だったが、上手くいったのは、そこまでだった。

 朝が来たのだ。

「もたもたしてるからだよ」

 しょんぼりしている女の子の姿に戻った、布一枚しか身に着けていないレベッカと俺が、ドアを開けると、律儀にも廊下の壁にもたれて待ってくれていた先生と目があった。

 そこまでは気が利かなかったらしく、彼の手のひらは――空っぽだった。

 EAPから送られてくる、リアルタイム映像の中で、熟れ過ぎたトマトみたいな顔になって、むき出しの肩をわななかせ始める、レベッカ。

 彼女の胸のうちからも、一部始終を目撃する羽目になった俺は、無いはずの額に手を当て、あっちゃあと零す。

 せめて服を持って来てあげろよ。つうか、先生アンタ、俺と違って、「先読み」出来るんだろが。

 ほら、泣いちまったじゃねえか。

 あとは、まあ……、予定されていたはずの、今日の練習が、両方ともキャンセル扱いになった、とだけ言っておこう。


  ◇


 レベッカが、真っ赤なオオカミのモモトマトになった翌日。

 四月三日の朝の練習の終了を告げた先生が、言った。

「今日はうちに帰るよ。だから、夕方の練習はなしにしよう」

 昨日とは打って変わって、やる気を取り戻していたレベッカが、高揚する意欲を削いでくるような提案に、目を丸くする。

 結局、昨日は終日ブランケットの下から出てこなかった彼女が見せた変化に、また泣かれでもしたら敵わないと思ったのだろう。先生は、少しだけ早い口調を足してくる。

「もちろん自主練するのは大丈夫だよ。昴、レベッカ嬢を頼めるよね?」

(じしゅれん……?)

 自主練ってのは、ひとりで練習すること。今日は俺が先生の代わりに付き合ってやるよ。

 彼に向かって、「もちろん」と答えつつ、言葉の意味を単純に理解していなかったレベッカに心の中で言ってあげたら、ものすごく喜ばれた。


「金曜日に、ゆきといっしょに、ポテトたちを連れてまた来るよ。新学期の支度があるから、戻れなくて悪いけど、ボクらがいない間は、誰が来ても対応しなくていいからね」

「了解。留守番は任せて。困ったことがあれば、LINEで電話するよ」

 十六時五十五分過ぎ。

 この時代でもWi−Fiを通じてなら利用可能な連絡手段に言及した俺に頷くと、本当に先生は帰宅してしまった。

 自転車を漕ぐ先生の姿が見えなくなるまでレベッカといっしょに見送って、俺はしっかりと戸締まりを確認する。

 知恵さんは、三十一日の電話で本家から伝えられていた「お客さん」を迎えに今朝から東京へ出掛けてしまっていているので、戻るのは明日の夜になる。

 その上、先生も明後日までここへ顔を出さないってことは――、ゆっくりと色んなことを考えるにはちょうどいい機会だな。

「さあって、何から考えるとするかな」

 ミフネって子のことにしようか。あの時は、追求する余裕がなかったから後回しにするほかなかったけれど、平然と「顕し」のことを口にしていたあの子は、何者なんだろう。

 それに、先生が連れて来ると言っていたゆきのことだって、対策を考えねばならない。

 昨日顔を合わせたので絶対に間違いない。あの少女は、俺の母さんだ。

 母さんに、ポーリャが俺だって、万が一にも悟られないように、気をつけないと。

 纏わりつくようなレベッカをあしらいつつ、俺がそんな思考に耽っていると、窓の外から聞き覚えのあるメロディが響いてくる。耳を澄ませば、十七午後五時になったことを示す、唱歌の「ふるさと」だった。

 気付けば、俺は母さんがよくそうしていたように、懐かしさに溢れるその歌詞を自然と口ずさんでいた。 

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