師弟

 雨が遠ざかった、と感じたのは男物の大きな傘がレベッカの身体に差し掛けられたからだった。


「誰だ、お前」

 誰何の声に答えたのは、稲光りに白く照らされた傘の中で、膝をかがめた見知らぬ少女だった。

「私? 私はね、佐野ミフネよ。それにしてもまあ、随分な願いの『顕し』だこと。うわ、手、冷た! 立てそうかな? ……難しそうだね。人を呼んでくるから少しだけ待ってて」

 十歳になるか否かくらいに見えたその少女は、俺達だけを傘に残し、長い黒髪を翻すと、降りしきる雷雨の中へと駆け出してゆく。

 ほどなく戻った彼女が連れて来たのは、数時間前に帰宅したはずの宮代笙真俺の先生だった。

 彼に抱きかかえられたレベッカの身体が出水邸へ戻ったのは、それから間もなくのことだったらしい。

 らしいというのは、俺の意識が途中までしか持たなかったせいだ。


  ◇


「体温もきちんと上がっているし、もう安心でしょう。これから発熱するかもしれないけれど、風邪だと思って対処するでまずは構わないと思いますよ。何か心配なことがあればクリニックに電話をください」

良児りょうじさん、早くからごめんなさいね」

「構いませんよ。こちらこそいつもゆきと笙真君がお世話になっているし、まあお互い様です。さてと、開院準備があるから僕はそろそろ。ゆき、父さんと帰らないなら歩いて帰るつもりかい?」

「うん、ショウも残るみたいだし。それに」

「ボクはまた泊まりだから、おじさんと戻んなよ、ゆき。この子のことはあと二、三日にさんちしたらちゃんと話せると思うから。ね?」

「分かったわよう。じゃあ、先生、金曜のレッスンの時にまた来ますね。お大事にしてね、お客さん」

「ゆきちゃん。あなたの所と森屋さんちに菜っ葉と大根葉持ってかない? 昨日採ったので悪いけど、良ければもらっていって?」

「もちろんいただいていきます」

「ゆき……。まったく。出水さん、いつもすみません」


 そんなやりとりとともに、三人分の足音が、階段を下っていく。

 あとに残されたのは、ベッドに横たわったまま首元まで毛布を引きあげ直した俺と、あどけない顔にこれ以上ないほどの険を浮かべた少年時分の先生だけだ。

 

「あんな時間に出歩くなんて、聞いてなかったんだけど。どういうことか説明してもらうからね」

「深夜徘徊してたのはそっちもだろ」

 地を這うような圧を感じさせる声音で、先に口火を切ったのは先生ししょーだった。

 そんな彼に負けじとまなじりを吊り上げて答えた俺だったが、元々が愛くるしさの方が勝ったレベッカの顔である。

 返せる迫力の差は歴然で、案の定、俺の反論はばっさり切って捨てられてしまう。

「五歳と中学生を一緒にするなよ。ミフネさんが小さい子がいるって大騒ぎするから行ってみれば……誰も通りかからなかったらどうするつもりだったわけ?」

「どうもこうも、歩いて帰ってたに決まって――」

「ふっざけんなよ! 途中で気を失ったくせに。レベッカ嬢に何かあったら責められるのはお前じゃないの、分かってんのかッ」

「な――ッ……! そこまで言うこたあないだろ! 俺だって……ああもう、悪かったよ!」

 これ以上険しくなんてできないだろうと思っていた先生の顔が、更に白く般若の面のようになってしまっている。仕方なく俺は白旗を上げた。

 だが、先生はまだ矛を収めるつもりはまるでないようだった。

「悪かったじゃねえよ馬鹿! どうせそんなんだから――」

 彼が何か強い言葉を言い募ろうとし、俺も内容如何では怒鳴り返してやろうと思いかけたそのとき。

「そこまでよ。やめなさい、笙真」

 俺等の間に割って入ったのは、知恵さんの声だった。

「師匠! でも、コイツ全然反省なんかしてないよ」

「いいから」

「……はい」

「昴君を馬鹿呼ばわりしたことも謝りなさい」

「けど」

「笙真!」

「〜〜っ、ごめん」

「いい、黙って出掛けたのは俺だし。知恵さん、迷惑を掛けてしまって申し訳ありませんでした。一つ窺わせてください、貴女はいつからのことを?」

「それはもちろん、初めから! 昨日目が覚めた時に、周りにだあれもいなかったでしょ。笙真から聞かなかった? うちで預かってるのは、本家が匙を投げるくらいの暴れん坊って。そんな子から目を離すなんて」

「わざとじゃなければ、ありえませんよね……ハハ……」

 言外に迂闊と言われている。そのことに気付いた俺は乾いた声で笑うしかない。

 そんなやりとりを行っていた俺たちに、再び「先読み」のトピック一番最初と同じヒントを持ち出して先生が言った。その表情は心無しか眉が下がり気味の浮かない顔に見える。先ほどの知恵さんの一喝が尾を引いているのかもしれない。

「話の途中だけどさ、丁度十五分後にレベッカ嬢とボクらが話している姿が、たった今・・・・見えたよ。準備を始めよう。EAPは?」

「使うさ、もちろん。ねえ、先生、俺さあ今」

 傍らの銀色の筐体を右手に取って言いかけた俺に、

「『読み』が使えないんだろ。知ってる。そういう時は?」

赤いスマホに映した、レベッカ分の「あなまほ」測定結果を示して先生が返してくる。

「「“使えるものはなんでも使え。たといそれが師匠でも”」でしょ? キャンディッドアバキって絶対言ってくるだろうから、かっとならないようにね」

 ぴったりタイミングを合わせてくれた先生に、俺は宮代家的Fワードを使って注意を促した。

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