大きな面倒? 小さな幸運?
黒メガネのウサギ
第1話
「さみぃんだからさっさと開けろよ……」
呼び出し音がいつまでも鳴り続ける。スニーカーのつま先を何度も床にたたきつけながら、早く切り替わるのを待つ。外にいるはずもないので、ぐずぐずしないでとにかく早くしろと叫びたくなる。そんなことをしても、真正面に見えているガラスの自動ドアが開くはずもないことはわかっている。むしろ、通行人に見られておかしなやつと見られる。こんな時間には誰もいないだろうが。
理不尽に理不尽が重なったからこそ、さっさとしろというのが俺の今の気持ちだ。
「……おうっ。案外早かったな。買ってきたのか?」
呼び出し音が止まると、少し不機嫌な声がスピーカーからきこえてきた。
「なんでてめぇが不機嫌になってんだ。こっちのほうがよっぽど怒ってんだよ」
感情を抑えることなどせずにマイクに向かって怒鳴り散らす。手に持ったビニール袋もカメラにみえるようにしながら。中身が重いだけに持ち上げるのも正直面倒だが。
「当たり前だろ! てめぇがこのくそ寒い中に行けって言ったんだろ! さっさと開けろ!」
ビニール袋のこすれる音が手元からする。
スピーカーのむこうから、うーん、とうなるような声がきこえてくる。あいつはいったい何をしているんだ。
「あのなぁ。袋からだして見せろよ。もし、間違ってたらもう一回行ってこい! わかったな?」
「てめぇ、いくら罰ゲームだからって、調子乗るな!」
「いいからさっさと見せろ」
舌打ちをしながら、俺はビニール袋の中に手を入れる。全ての指が寒さに震えあがる。冷たさと重さを感じつつ、袋の中から取り出す。
青と白の色が使われた一抱えほどの大きさのプラスチックの容器。側面にはところどころ白い霜がついていて、指でこすると水滴に変化していく。二リットルのバニラアイス。しかも、高級なアイスで本来は通販でしか手に入らないようなもの。奇跡的に店舗にあった残り一個のものを買ってきた。高級なので当然財布の重みだけが酷く増え、寒くなっていた。
「さみぃんだよ! 早くしろよ!」
「……間違いないな。入れてやる」
言葉とともに、自動ドアが開く。俺の指先が限界を感じ、ビニール袋の中に落とすようにしてアイスを放り込む。それからカメラを睨みつける。
「なにいってやがる! ここは俺んちだ! カギも持って行ったまま居座りやがって! てめぇこそいい加減にしろ!」
「そんなことは言わなくていい。さっさと上がってこい」
「てめぇ、何様のつもりだ!」
俺は反射的に声を低くしながら、目いっぱいの大きさで言い放つ。戻ったら、あいつに自分の立場を教えてやらないといけない。
「……傷心様だ」
その一言を最後にブツリと音が消える。
くそっ。
「何なんだ、あの態度は! 何が、傷心様、だ!」
夜中に近所迷惑と言われそうなくらいの声で、悪態をつきながら開け放たれたままの自動ドアをくぐる。外のコンクリからタイル貼りの床に変わり、履いていたスニーカー越しに足に伝わる感触が変わる。ビニール袋が揺れて、閉まり始めていた自動ドアにぶつかり、何を感知したのか、再びドアが開いていく。
故障だろうが何だろうがお構いなし、玄関ホールを抜けてエレベーターの元へ向かう。中は外とは違い、冷たい風もないため寒くはない。ゆるく空調もついているようで、暖かさを感じる。
エレベーターの前に来た。途中カーテンのかかった小さな窓の横を通り過ぎた。
ここには三台のエレベーターがある。その横には階段がある。なぜだか、その階段を使うときにはガラス戸を開けないといけないという不思議な構造になっている。非常口なのかどうかもわからない。もちろん、こんな重たいアイスを持って、自分の階まで登るなんていう気はさらさらない。俺はエレベーターを見た。
三台のエレベーターは一台が登り始め、一台が最上階、一台が降りてきていた。こんな時間なんだから全部一階にいろよ、などと思ってしまう。俺は登りのボタンを押して、下りてくるのを待った。
「つめてぇッ!」
人目もはばからず大声をあげる。アイスが入った袋が足にふれ、ズボン越しにその冷たさが伝わってきた。こんな時間だから誰もいないが。
「なんなんだよ、くそッ!」
何もかもにイラ立ちを感じながら、エレベーターを待つ。また同じことになってもただ、イラつくだけだったので、俺は袋を自分から少し離して持つことにした。正直、高いとはいえ、捨ててやろうかと思ったことはここに到着するまで何度もあった。部屋に着くまでまだ思うだろう。今のところ捨てなかったのは、これがないと部屋に入れないだろうから。ただ、それだけだ。
下りのエレベーターが一階に到着し、そのまま流れるようにして下へと降りていく。地下には専用駐車場があり、ここの住人たちの車が置かれている。一度だけ案内された時に見たのは、とてつもなく広いスペース。あと覚えているのは、どこにも日本の車がなかったということだけ。たまたまなのかどうなのかはわからないが、運転をする事もない人間にとってはどうでもいいことだった。
「こんな時間に駐車場に行くって、出かける奴でもいるのか? さっさと上がってこいよ! こっちはアイスがつめてぇんだよ!」
叫んだと同時に目の前のエレベーターのドアが開く。
「あっ……」
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