第20話 誘拐と救出劇

 もう何時間も暗い密室にいた。空気はよどんでいるし、窓がなくて光も差さない。喉がヒリヒリと痛んだ。


「エドワード!ここよ!おねがい助けて!」

 むなしくも叫んでみる。


 夫は私を探しには来ないだろう。愛してもいない妻が家出しただけのことなのだ。

 それなのに彼の助けを切に願っていた。


 今どこにいるのだろう?それに誰の計画で誘拐されたのかもわからない。薬を盛られたのだろう、馬車から移動させられた時には意識がなかったのだ。誰が自分を運んだのかもわからずじまい。


 宮殿での最後の晩はいつものようにベッドに入って寝た。毎晩エドワードが部屋を出ていく時に目を覚ますのだが、あの夜はちがう。不自然なほどぐっすりと眠っていた。誘拐の前から睡眠薬を盛られていたのかもしれない。だが誰に?それにどうやって王太子夫妻の寝室に侵入したんだろう?宮殿の内部に通じている者でなければ、侵入した上に誘拐することなどできないだろう。



 突然扉が開く。昼間の光がまぶしくて目を開けていられない。

 

 黒ずくめの男が立っていた。


「クリステン」


 デズモンドだった。彫刻のようにハンサムな人だ。青白い頬にからすのように真っ黒な髪。妄執にとりつかれたような、赤い目、堕天使の目だ。魅惑的で危険な……


 私は恍惚として、危険な堕天使を見上げていた。意識が朦朧もうろうとしている。理性も働かない。


 ろくな食事をとらず、水分だってとっていなかった。きっと変な薬を飲まされたのだ。


 彼は顔を満足げに歪めると私の近くにしゃがんだ。


「何をするの?」

 甲高い声を出した。


 怖かったのだ。殺されると思っていた。こんな人気ひとけのない場所で殺されたとしても、誰にも気づかれないだろう。


「クリステン、君を傷つけようなんて意図はないんだ。俺はクリステンを愛してる」

 デズモンドがひっそりと言う。赤子をあやすような口調だ。


「愛してる?わたしを?」

 

 彼の赤い瞳に見入っている。デズモンドの目は素敵だ。彼に愛されるなんて、幸福で素晴らしいことだ。


「ああ、君を愛してる」

 デズモンドはゆっくりと優しく言葉を繰り返した。

「助けてほしいんだ。君の力がいる」


「あなたに協力するわ。なんでもよ。あなたってなんてキレイな人なのかしら。まるで黒鳥みたい……」


 ふと「白鳥の湖」のメロディーが頭に浮かんだ。豊穣ほうじょうで美しいメロディーだ。黒鳥の妖艶な魅力と選ばれなかった白鳥の悲劇……


 急に何もかもがはっきりとした。


 デズモンドが私のあごを持ち上げてキスする。唇の感触を覚えていた。愛おしく、冷たく熱く、恥じらうような、酔いしびれるような官能の感覚。彼だったのだ。デズモンド・ダンカレルは尾崎だったのだ!


 私は彼を押し飛ばした。デズモンドが立ち上がり、鼻で笑う。


 なんという運命の皮肉だろう。転生したというのに私を殺そうとした男にまた巡り合ってしまうとは。


「近寄らないで、この人殺し!」


「クリステン、落ち着いてくれ。君と喧嘩したくない。君の助けがいるんだ」



 どっちみち私は縛られていたし、誰かと喧嘩する元気はない。彼はなぜクリステンの助けがいるのか、朗々と語り始めた。



 数年前、ある美しい少年と出会った。運命的な出逢いだった。デズモンドは少年を愛し、辺境の高い塔の上へと連れていく。少年はやがて塔の中に退屈し、出て行こうとした。


「彼を手離すことなどできなかったよ。あまりに美しくて、あまりに愛しすぎていた」


 私はゾッとした。少年におぞましいことをしたのだ。それは思わず目を背けたくなるような、恐ろしい罪だった。


 怖い思いをしただろう。子どもは大人の男に力にはかなわない。逃げ出そうとするのは勇気と知恵が必要だったはずだ。


 だが、デズモンドにはその少年を絶対に逃してはならない理由があった。もちろん少年への「愛」のためではない。親に糾弾されるのを恐れたわけでもない。彼には怒った子どもの親を黙らせるくらいの財力があった。少年は失踪した王子だったのだ。


 子どもが父親のもとに帰れば、デズモンドが王子を監禁し、虐待したことが知れてしまう。王や王太子は幼い王子の復讐を望むはずだ。


「予言を恐れているのね?私がペガサスの乙女だと思って」


「君は予言を変える力がある。もしペガサスをここに呼び出したら、命だけは助けてやろう」

 デズモンドは高慢な態度でそう宣言した。


 命だけは助けてやる……

 彼は真実を知った私を必ず殺すはずだ。ペガサスを呼び寄せて殺したら、今度は予言の乙女を殺す。無駄のない冷酷な計画だ。王子はあと数年は生きるだろう。デズモンドの少年への執着が消えた時、人知れず塔の上で死ぬのだ。


 私はデズモンドの脅威で、王子や弟を愛するエドワードの希望だった。エドワードが私を抱かなかったのもそのせいだろう。


「ペガサスは呼ばないわ」

 私はきっぱりと言った。

 ペガサスの死は私の死なのだ。呼ぶわけにはいかない。


「呼ばない?」

 デズモンドが私の言った言葉を繰り返した。


「兄のチェスターのことよ。あなたに借金してた。彼が心配なの」


 もちろんチェスターのことなどどうでもいい。私にしたことを思えば、地獄におちててもいいくらいだ。

 時間を稼がなければ。


「あいつは家や地位を失っても死なない。お前が生きていたければ、ペガサスを呼ぶんだ」


「いやよ」

 断固として拒否する。


「そうか。あくまでも拒否するつもりだな。それならこちらにも考えがある」


 黒いかげ。私の前に立ちはだかる彼は黒いかげだ。まるで悪魔、翼のない堕天使。


 思わずあとずさりした。彼が一瞬で私をおさえつけ、覆いかぶさってくる。手足をバタバタとさせた。男の体は重たい。大の男にのしかかられると息苦しかった。窒息しそうだ。


 体をまさぐられ、ドレスの破ける鋭い音がする。言葉にならない叫び声をあげ、必死に抵抗した。頬を冷たい涙が流れてゆく。


 不意に絶望が襲ってきた。もがいても彼の力にはかなわない。びくともしないのだ。あとは彼が乱暴するのにまかせるだけ。

 絶望は諦めにかわった。もう抵抗さえしようとしない。いろいろな感覚が麻痺してしまっていた。衣服をはぎ取られてしまっているので、ひどく寒い。


 外で何か物音がした。空気をつんざくような音。

 

 デズモンドが立ち上がる。

 扉が吹き飛ばされた。部屋に光が入ってくる。


 エドワードが立っていた。剣をたずさえ、デズモンドに襲いかかる。苛烈な戦いだった。触れ合う剣から火花がとびちっている。


 私はただ二人が戦うのを見ていた。もう安心だった。エドワードが助けに来てくれたのだ。

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