形のない色

佐藤佑樹

1

 夜半、何らの音もせぬ時節にあれば二重窓の向こうには寒椿が灯るのみだ。昼のうちに吹き溜まりの雪から発電した花は深く溶けゆく黒の中にあり光る。暗く、白く、凍れる千歳の冬にあり厳寒と内約を交わすのだ。夜は私が標になろう、と。

 内地から嫁いだ祖母に冬は辛くあたる。里帰りのたびザンギを振る舞う手はこれ、こんなに小さかったろうか。会うたびに老い縮んでいく。あかぎれを覆う絆創膏が痛々しい。「大学はどうか。風邪はひかなかったか」鶏を揚げながらたびたび口にする。大丈夫だよ、元は暖かいところから越して来たんでしょう、おばあちゃん。あっちはね、雪も降らないんだよ。

 人間の気性は顔つきに表れると聞く。僕の前ではにこにこと穏やかな祖母も、生来は勝ち気で常に気の附く人物であったらしい。たしかに粗相をしようものなら権のある眼で射抜かれた。幼心にその瞳が恐かった。だけれど童心とは残酷なものであり、反省の弁さえ述べれば軟化する祖母を僕は甘く見た。祖母こそが道徳を育んでくれたというのに。

 僕はいまやっと大人になれた。

 内向的な僕はいつも本ばかり読み過ごした。小さな時分、近所の子らはよく野球に興じていた。子供は外で遊ぶものだと親から言い含められていたものだから僕も彼らについて回った。でもメンバーに入れられたくはない。審判という名目でいつも読書に没頭した。僕が立っても打球は飛ばない。呼んでくれるな。親の目がなければずっと家にいたかった。本に飽けば四つ葉のクローバーを探しては押し花にした。砂に塗れる遊びはどうも好かない。女の子たちは一輪車や竹馬に乗りながら、今日はどちらのチームが勝つだろうと遠巻きに僕らを見た。僕らは男女の別なく、みんな二人のガキ大将が好きだった。がっちゃんはみんなのカリスマ、何をするにも彼が遊びのルールを定めた。きょうちゃんはスポーツ万能、かけっこで唯一がっちゃんに勝てる子だった。僕も別に嫌いなわけでない。僕の気質が内向的に過ぎただけで、耳目を集める彼らはやはりヒーローだった。

 がっちゃんの家には犬がいた。あの頃でさえすでに室内犬ばかりが持て囃されていたというに、その犬はひどく不恰好な顔つきであり、軒先でいつも跳ね回っていた。がっちゃんちの犬といえば僕にとっては大いなる脅威だ。見境なくベロベロと舐め回すものだから僕の本も幾冊か駄目になった。母は「ワンちゃんのやったことなんだから我慢しなさい」とばかり言う。僕はたぶん悔しかったのだ。しどろもどろに「僕の本が汚されたんだ。バンはがっちゃんとこのワンちゃんだからがっちゃんがちゃんと見ないといけないんだ」と応じた。どこかで目にした文章からの受け入りだろうし、これほど流暢に弁論はできなかったが、だけれど僕なりの精一杯で反論した。何度もだ。バンとはこの不細工な雑種犬のことだった。僕はこの犬が嫌いだった。いくら憧憬たるがっちゃんの家族といえ対話のできぬ四足歩行が突進してくる様は恐ろしい。母は何らも聞き入れてくれなかった。僕の無念は三つある。この時うまく言語化できなかったこと、庇護者たる母が動いてくれなかったこと、自身の力で対処し得なかったこと。唾液に塗れた書籍を乾布巾で拭うたび、祖母だけが僕の背に手をやり「犬畜生が」と漏らした。そんな畜生にも劣る無力な自分が嫌いだった。

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