第38話 立ち塞がる想いを乗り越えて ②
「ぐっ……」
胸元を抑え、アントンの動きが止まる。
押さえるしわがれた手の向こう側。線を引いたように切り裂かれている服に赤い染みが滲んでいた。
しかし、浅い。
出血量から考えても、表面上——薄皮を切り裂いたといったところだろう。
だが一撃は一撃。盤面をひっくり返す楔は打てた。あとは——
「大丈夫か?」
「はぁ、はぁ……ええ、大丈夫よ」
シエルは肩で息をするティアを見て、奥歯を噛んだ。
指示によって激変した彼女の動き。それは、一方的だった戦況を一新するほどの効果はあっただろう。
だが裏を返せば、シエルの指示を完全に、完璧にこなさなくてはならないという事に他ならない。それは、ただでさえ消耗している彼女にさらなる負担を課しているともいえる。
……だけど、普通にやったら負ける。それは絶対だ。
かといって、シエルは神様ではない。思考能力にも限界がある。
……これ以上時間はかけられない。もう少し傷が深ければ、長期戦にも意味があるけど……あの程度じゃあ——
傷が浅すぎる。
もう少し傷が深ければ相手の脳裏に撤退という手札がチラつくだろうが、あの程度ではそれはないだろう。
撤退させられなくても、出血による体力の低下が望めればもう少しやりようはあるはずなのに。
……ティアは限界が近い。それに、俺もそんなに長時間は持たない。どうする?
思考の加速による引き延ばされた時間の中で、シエルは必死に打開策を探す。
……時間はかけられない。だけど、時間をかけなければ勝てない。どうすればいいんだ?
まるで、ゴールの無い迷路のようだ。
ここまで彼女が追い詰められるまで動けなかったシエル自身が悪いとはいえる。だが、この状況で勝ちを拾おうとしているのだから現状に嘆きたくもある。
「いや、そもそも……」
……なんで、ここまで食い下がれているんだ?
一つの疑問が頭に浮かんだ。
ティアの健闘……それもあるだろう。しかし、相手は生きる伝説とまで称される元騎士。いくら年齢を重ねたことによって実力のピークは過ぎ、全盛期からはかけ離れた実力しか発揮できないとしても、並の騎士と肩を並べる程度のティアが逆立ちしても勝てるわけがない。
……そうだ。勝てるわけがない。場の空気に呑まれて考え付かなかったけど……。
試行と思考。
あらゆる状況を想定し、分析し、勝利への道筋を選び抜かんとしたからこそ、一周回って冷静となった脳裏に違和感としてこびりつく。
……本当に殺す気だったら、とっくに俺たちは死んでる。悔いのない様にすべて出し切れと言ったとはいえ、ここまで食い下がったのならとっくに殺されても仕方が無いはず。
シエルを後回しにしたのは、司書という変えのきかない役割があるからだろう。
必要なのは確保。しかし、それが無理。または、シエルが協力を拒んだなら、他国に回収される前に排除する。
王国の考えはこんなところだろうか?
だが、ティアは? 彼女自身が告げているように、彼女の兄、姉は彼女以上に優秀だ。あくまでも魔術的にと言う意味であり、剣技という意味では別ではあるが、王国が魔術に傾向しているのだから間違いではない。
……王国にティアは必要ない。必要なのは、王国の地位を揺るがそうとした彼女の首だけだ。それは、騎士団長として王国に仕えていたアントンなら分かりきっていること。なら——
「たぶん……でも……」
シエルが違和感だと考えたそれは、起死回生の一手となりえる。
しかし、間違えば文字通り「終わり」に直結する一手だ。
「試行しても、成功の目は限りなく低い。それどころか、勝利もない。なのに、直感では成功を確信してるなんてな……」
なんて皮肉だろうか。
知識からの試行。先日もそれによってドラゴンを下したというのに、今となっては思考よりも感情が勝ちへの道筋を表しているとは。
でも、だからこそ踏み出せない。
限りなく絶対に近づけた思考と、絶対の無い可能性に賭けた感情。
代償がシエルだけでなく、ティアの命も含まれているのだからなおさらだ。
「シエル」
そんな時だった——ティアの声が聞こえてきたのは。
満身創痍。深手ではないが、数多くの切り傷、打ち傷を全身に受けてなお、この場に立つ少女。
動けなくなっていたシエルの前に立ち、覚悟を見せ、戦ってくれた少女。
王国に見限られ、国民からも見限られていた少女。
でも逆に、ずっと引き籠ろうとしていたシエルを見限らなかった少女の声音は、この苦境に立たされてなお、諦めとは遠い——少なくとも、シエルにはそう感じられて。
「私はシエルを信じるから」
その声音は、真っ直ぐにシエルの胸に浸透した。
……信じる、か。
「ははは……」
「なんで笑うのよ……」
思わず出てしまった笑みに、彼女の半眼が突き刺さる。
「いや悪い。でも、そうだよな」
よく向けられる呆れの視線。
それは、常日頃から読書をしたいと告げていたシエルへと向けられていたものだ。
もしくは、面倒くさがるシエルへと向けられたものだろうか?
「決まった、な」
たった一言、二言のやり取りで定まった自身の道筋に呆れて。
シエルは呟いた言葉を違えないために、意識を集中させる。
「まだ、諦めていないみたいだな」
眼光鋭いアントンの刃が揺らぐ。
だが、恐怖は不思議と無い。
「ティア、これが最後だ。いくぞ」
「ええ!」
掛け声と覚悟を以って。
シエルとティアの二人は、乗り越えるべき壁へと向かい合った。
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