第35話 全てを覆すために
歯が立たなかった。
実力の差なんて分かりきっていた。でも、負けるわけにはいかなかった。
……そんなの、絶対に嫌だから。
ティア・ソフニールは、勝ち目のない戦いに挑んだのだ——
「ティア……」
歯が立たず、敗北して。
吹き飛ばされた後に気が付くと、ティアはシエルの上にいた。
どうやら、受け止めてもらえたようだ。
受け止めきれず倒れてしまう彼にやっぱりと納得してしまう感情と、立ち向かったけれどやはり勝てなかった悔しさと。それでいて受け止められた安心感がぐちゃぐちゃと織り交ざって、半ば無意識に口にしていた。
「シエル、ごめん」
いけないと分かっていても、止められなかった。
今の彼は、
それでも、彼ならばなんとかしてしまうのではないか? そんな風に考えてしまうのは、やはりティア自身が彼に期待してしまっているのだろう。
「……勝てなかった。オウルを馬鹿にされたのに……」
我ながら、狡い女だ。
もちろん胸中に渦巻く悔しさは本物で、抑えようとしても出てしまう涙も本物だ。
でも、その中に一部、ほんの一部かもしれないけれど、助けてほしいという願望が混じっていることは本当なのだから。
……悔しい。
雑草を踏む音が近づいてくる。
……全身が痛い。夢中だったからあまり覚えてないけど、躱せてなかったら私は死んでた。
ティアだって極めてはいないが、それなりに武芸に傾向した人間だ。
アントンの殺意は本物だった。それは、あの両断された樹木を見れば明らかである。
……もう、ダメなの?
もし、もしもだ。このままシエルと共に死んだら、オウルはどう思うだろうか?
しょうがないと笑うだろうか? いや、それはないだろう。
でも、最初は怒っても、最後には許して「今度からは厳しくいきます」とため息交じりに笑っていそうだ。
……それは、少しだけ幸せかな?
ただの幻想だ。
分かっているはずなのに、儚い幸せに想いを馳せてしまう。
それほどまでに、ティアとアントンの実力は隔絶していた。例えるなら、羽虫と飛竜ほどまでに。
筋力が違う。体格が違う。そしてなにより……経験と魔力が違いすぎる。
……最初から勝てるわけがなかった。でも、彼はシエルの家族だから……信じてたのに……。
彼が立ち塞がった時に垣間見た、シエルの表情。
信じたくないと。なんでここにいるんだと。驚きと不安と恐怖が混ざり合った表情を見て、負けたくないと思ったのに……負けてしまった。
歯を食いしばる。でも、全身が痛くて、怖くて、助けてほしくて。
もう一度だけ、あと一度だけ、その名前を呼ぼうとした——その時だった。
「ティア……」
「シエル?」
体に感じていた彼の熱を失った。
彼には似つかわしくない優し気な手つきで、ゆっくりと体を地面に降ろされて。
……何をする気なの?
ティアの胸には、嬉しさ以上の不安が溢れてくる。
その予感が的中したように、立ち上がった彼は自ら首を差し出すように近づいていってしまった。
待って——そう言おうと口を開こうとして、震えている唇はなんの言葉も発してはくれない。
もたついている内に、彼は家族と対峙した。
「何のつもりだ?」
「一つ思いついてさ」
「もう、間合いの中だ。お前には躱せないし、何もできないぞ?」
「そうかな? そんなことないと思うけどな」
なぜだろう? 不安がどんどんと膨れ上がってくる。
どれだけ魔法が使えようが、あの距離では詠唱を終えるより先に刃が届く。それが分かっていないはずがないのに、シエルには焦りが感じられなかった。
……秘策でもあるの? この状況で?
ありえない……とは言えない。彼の知能はティアなんて足元に及ばないほどに高く、持つ知識は大陸一と断言できるほどなのだから。
なのに、不安が解消される兆しさえ見えず、それどころか彼の背中にティアは嫌な予感を覚える。
なぜ? 自身に問うも、答えは出ない。
庇おうとしてくれている? 分からない。
困惑と動揺。安心と甘え。不安と恐怖。混じり合う感情を表情に——
「ぇ——」
一瞬だけ、ターコイズの瞳がこちらに向いた。その瞬間、ティアは己の抱いた予感に確信を得る。
……シエルは、あんな目をしない。
いつも気だるげで、面倒くさそうで、それでも……困っている人が本気で助けを求めたら助けずにはいられない。
胸の内に熱い何かを持っているのに、必死に隠しているのだ。
だから、彼はあんな優し気な目を誰かに向けはしない。
……シエルは、あんなに背中が大きくない。
いつも興味は本にだけ。
でも本当は、きっと誰かと一緒にいたくて、でも無理だから諦めているのだ。
だから、彼はあんな……誰かを庇うような背中を見せはしない。
……シエルは、あんなに優しくない!
根は優しくて、でもそれを隠してしまうから。
諦めてしまったから、怖がってしまったから、誰かと絆を育むことから目を背けてしまったから。優しさを表面上に出さないのだ。
だから、彼はあんな優しい声を誰かにかけない。
「……待って」
誰にも届かない声で、ティアは呟いた。
届かせないのは、自分自身に言い聞かせるためだから。
何もするなと言われた。要らないと言われた。その言葉に歯向かってここまで来たのだから。
「……やらせない」
次に紡ぐのは決意だ。
意志が体に力を宿して、動かなかった体が力を取り戻す。
振りかぶられる刃を受け止めようとする——まったく鍛えられていない手。
迫る凶刃に確かな意思と諦念を宿した眼差しをする少年の元へ、ティアは全身全霊で地面を蹴って。
「だめぇぇぇ!」
伸ばした手は、再び温かさを取り戻した。
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