第29話 知っていること、知らないこと⑥




 ——カツン……カツン……。


 石を叩く音が木霊する。

 規則的に、迷いなく、暗い階段を進み続けて——最後、一際大きな音を響かせて。


「……意外と呆気なかったな」


 たどり着いた地下牢で、シエルはこれまで下ってきた階段へと振り返った。


「なんとなく予想はしてたけど、杜撰な見張りだったな」


 本来、無人のはずの地下牢。

 ここまで来るのに必要だったのは自身の姿を消す魔法と、暗闇の中で視界を確保する魔法の二つだけだ。

 隠密の魔法であるため騎士団では扱わない魔法。だからこそ簡単に成功してしまった潜入だが、同時に騎士団の質の悪さが露呈した証拠でもある。


「頼り切り……か」


 ティアとの会話が思い出された。


 王城の地下深くに設けられた地下牢は、使用されることがないただの飾りだ。

 司書による王国統治の結果、王国では大きな犯罪など起こらない。そのため、地下牢に入れる犯罪者がいないのである。

 その結果、地下牢に続く階段を守るのは騎士団の騎士二人。その二人も簡単にシエルを見逃してしまった。


 これが魔法部隊長シア・クルデウスやアントンであったなら、シエルは呆気なく見つかっていただろう。


「助かったとはいえ、複雑でもあるかな」


 王国戦力の衰退……その一端を、守ってきたはずのシエル自身が担ってしまっている。そのことに思うことはあるが、それを憂う前にやるべきことがある。


「行こう」


 左右に存在する無人の牢に挟まれて。

 まっすぐ伸びている一本道を進んでいく。

 無人となっている牢屋の構造が足音を反響させ、続く足音に混ざり合う。


 声一つ聞こえない通路を進んでいくと、やがて正面に鉄格子が浮かび上がってくる。

 さらに最奥、冷たい石畳に座り込んでいる少女の姿を認めたところで、凛とした声が響いた。


「誰?」

「俺だよ」

「シエル?」


 光の無い暗闇の中だ。

 彼女には見えないのだろう。その声には力がない。


「どうして来たの?」

「来たら悪いのか? 婚約者だろ?」

「ふふふ、あなたの口から婚約者って認める言葉を聞くなんてね。どういう風の吹き回し?」

「……オウルに頼まれたんだ」

「オウルに?」


 彼女の表情が少し動いた。


「そう……オウルは無事かしら? すぐに王城から抜け出して身を隠すように言っておいたんだけど?」


 ……なんて答えればいいんだ?


 シエルは、何も知らない彼女への答えに躊躇する。

 本当の事を告げれば、彼女は酷く傷つくだろう。しかし、オウルの願いを聞けば、おのずと彼女は真実を知ってしまう。


「彼は……」


 言葉が続かない。しかし——


「そっか」


 酷く落ち着いた声が反響して。


「そんな気がしていたわ。バカね……私のために」


 ティアは笑っていた。

 悲しげな表情を見せることなく、呆れたように。

 それが、異常な程シエルの感情を掻きむしって。


「なんで……出来るんだ?」

「え?」

「なんで、そんな顔が出来るんだ……⁉」


 おかしいだろう。


「どうしてそんなに笑えるんだ? 家族じゃなかったのか? そんな、なんてことない、くだらない関係だったのかよ……?」


 家族だと言っていたはずだ。なのに、なんで笑っていられる?

 従者の前で叫んでしまったからか、自分でも驚くほど落ち着いた声音だった。


 だが、これがシエルの本心だ。

 アントンが同じ道を辿ってしまったら、シエルはきっと笑えない。

 失望——おそらく、そのような目で彼女を見ていた。そしてそれは彼女も感じ取ったのだろう。一瞬の無表情の後、唇が震えて。


「そんなわけ、ないでしょう……」


 絞り出すように呟いて。


「平気なわけ……ないでしょう! どこの世界に家族が死んで喜ぶ人がいるのよ⁉」


 ティアは、年相応に涙を浮かべて叫んでいた。


「私たちは失敗した! でも、私は彼だけでも生かそうとした! でもダメだったの! それを喜んでる⁉ バカも休み休み言いなさいよ! そんなことあり得るわけないでしょう!」

「でも……笑ってただろ」

「笑ってたわよ! だって……だって、それしか出来ないじゃない! オウルは私に笑って欲しいって願っていたわ! なら、笑って送り出すしかないじゃない!」


 初めて見た、悲痛な面持ちで。

 暗闇の中、見えるはずないのにティアはシエルの目を見て叫んでいた。

 大粒の涙を流しながら、普段の凛とした声音を嗚咽で濁して。


「……覚悟してたに決まってるじゃない。覚悟なんて出来ないに、決まってるじゃない。それを必死に隠して笑おうとしてたに……決まってるじゃない…………!」


 言葉が出てこなかった。

 にじみ出ている彼女の感情に吞まれてしまって。

 反響する彼女の声が消え去り、空白の時間が暗い牢獄を満たす。


 それから、どのくらいそうしていたのか……。


「……いったい、いつからだ? いつから計画してたんだ?」

「……数年前には計画していたわ。それでも失敗したのよ……無様よね」


 白銀に影が落ちる。

 その姿と言葉に、シエルは彼女の覚悟を見誤っていたと自覚した。


 ……俺は何も分かってなかったんだな。


 知った気になっていた。

 あらゆる知識を蓄えて、あらゆる問題を解決してきて。

 これでは、他者に作られた王座の上で胡坐をかいていただけではないか。


 ……十年も一緒にいたのにな。


 何も分かっていなかった。いや、分かろうともしていなかったのだ。


「馬鹿だな。俺は」


 いつも答えばかりを求めてくる人間に辟易していたのに、その答えを求めて歳下の少女の元に訪れた。

 失敗を恐れてきたはずなのに、失敗をした少女に答えを求めた。

 そんなシエルの姿が無様と称さず、なんと言い表せるだろう?


「答えを求めること自体が間違ってたんだな。選んで、結果が待っている……それだけなのに」


 泣き崩れている少女は、選び続けてきたのだろう。そして、その結果が今なのだ。

 そして、結果が受け入れられなかったからオウルはシエルの元を訪れた。選択したのだ……覆すことを。

 結果、自身の死という代償を払うことになったが、彼は最期に笑っていた。満足していたのだろう——結果を受け入れた上で、その後に起こりうる未来を信じて。


「これは、負けだな」


 まだ遅くはないと託された。

 命を懸けてまで、託されたのだ。


「……笑って欲しい、か」


 簡単なはずなのに、難しい願いだ。

 でも、願われたのだ。乞われたのだ……なら——


「応えないわけにはいかないよな」


 冷え切っていた芯が熱くなっているのを感じ、シエルは自然と笑みをこぼしていた。

 そして、知っていたはずの熱に心を預けて、己の知識を紡いでいく。



「■魔外■……第八十三頁 灰に変わる世界クイベントレム・デムンド



 牢に手を伸ばし、

 一瞬で灰となった鉄格子の奥へ。


「ぇ——」


 茫然と。

 見えないながらも異変を感じ取ったティアの前で立ち止まり、手を差し伸べる。


「俺の負けだよ……まだ理解出来たわけじゃないし、すぐに理解できるものじゃないと思う。でも、考えることは後でも出来るから——」


 見えないせいで動けない彼女に苦笑をこぼし、床に落ちていた彼女の手のひらを持ち上げて。


「だから、まずは王国を出よう。話はそれからだ」


 しっかりと握りしめた手は、彼女の重さをしっかりと引き上げた。

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