第25話 知っていること、知らないこと ②
「は?」
シエルの意識が空白に染まりきる。
……犠牲? 俺が?
意味が分からない。
脳内が疑問で埋め尽くされ、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚。
いつのまにか視界すら揺らいで、前後不覚となった錯覚に陥って。
……もう聞きたくない。
無意識に発せられた忌避感に体を預けて一歩後退する。しかし、彼女は止まらなかった。
「司書は……あなたたちはずっと王国のために尽くしてきた。やる気が無いと言いながら、嫌々でも、それでも完全に仕事をこなしてきたわ……それを否定するつもりはない。でも——」
ティアの白銀がシエルを貫いて。
「それで得たものは何? 人としての自由を奪われて、代わりに得たものは知識っていう役割を全うするための道具だけ……司書も人よ。決して使い捨ての道具じゃない」
何を言っているのか分からない。
司書は道具だ。知識を蓄え、知識を披露する——ただの役割である。
なのに、彼女は司書が人だと、血の通った人間だと言い切っていた。それがシエルにはたまらなく理解できず、同時に不快だった。
「王国は、司書に依存してる。それが正しいことだと私にはどうしても思えなかった。だから騒動を起こしたの。混乱に乗じてあなたを王国から連れ出すために」
「何を言ってるんだ?」
「最初はね、私もあなたを利用しようと思ってた。私には仲間が必要だったから。でもね、あなたを知っていくうちに考えが変わってきたわ。世界は綺麗で、素晴らしいもので……でも、あなたはそれを知らない。それが凄い残念だと思った。私は世界の綺麗さを知っていて、でも綺麗には見えなくなった。でもあなたはそれすら知らないのよ」
「そんなの——」
「ええ。知識だけでは知っているのでしょうね。でも、風にたなびく草木の感触や、風に乗る草花の匂いをあなたは知らない。これは、経験しなければ分からないことだわ」
意味が分からない。
彼女が言う通り、シエルは草木の感触なんてものは知らない。
だが、そんなものが何の役に立つというのか? 人の一生は一瞬だ。ならば、生きるために必要な知識を蓄えるべきである。
そんなシエルの考えが分かっていたのだろう。ティアは和らげていた表情をそのままに、見つめる眼差しに柔らかさを交えた。
「たしかに、直接役に立つ事ではないかもしれない。でも、そういった経験が人としての成長に繋がると私は思ってる。人には、道具には決して存在しない心があるから」
ティアの手が、自身の胸に添えられる。
「知識は大事よ。それは否定するつもりもないし、否定もできないわ。でもね、人はそれだけじゃない。人としての心を育む必要がある。それは、城の中に居続けて出来ることじゃないわ。だから——」
広げられた手のひらが、シエルへと差し伸べられて。
「一緒に世界を見に行きましょう。別に一生帰ってこないわけじゃない。おかしな成長を続けてきた王国を正すために、なにより自分自身を成長させるために、世界を経験しに行きましょう?」
差し伸べられた手のひら。
それは、少しだけ、本当に少しだけ震えていた。
……なんで?
なんで、こんなにも怖がっているのに……?
知っているはずなのに、まったく知らない少女。
彼女を前にして、シエルは動揺を隠せないでいた。
なにがあった? なにが彼女を変えた?
考えても、考えても、考えても考えても……答えは出ない。
彼女が告げた言葉も、言葉自体は分かっても意味が理解できない。
思考がまとまらず、体がいうことを利かなかった。
視界いっぱいに収まっている少女が、目が離せないでいる少女が、差し伸べている手を取るか取らないか——それだけの事なのに、それがあまりにも難しくて。
それは、自分の中での答えが決まっていないからだろう。それ以前に、理解できないことに心が置いていかれているからだろう。
分かっているのに、分かっているはずなのに、白銀の双眸からは抜け出せず、体が動かなかった。
「後はあなた次第よ。後は……アントン次第かしら?」
「私はシエル様の考えを尊重いたします」
一瞬外された双眸に、シエルは体の自由を取り戻す。
だが、逆効果だ。自由になってしまったがゆえに、シエルは自分の答えを出さざるを得なくなってしまったのだから。
「だそうよ。どうする?」
再び白銀に魅入られて、シエルは思わず息を呑んだ。
自分の心が分からなくて。
彼女の心が分からなくて。
この手を取ったら、どうなってしまうのか?
それが、たまらなく怖くて。
「お、俺は……」
そこで、時間切れとなった。
「突入——‼」
突如、弾かれたように扉が開け放たれた。
続いてなだれ込んできたのは王国騎士団——制服である青色の騎士服は騎士団でも上位の存在だ。
「……時間切れね」
「ティア・ソフニール! ……王政叛意の意志有りと見て拘束させていただく! ……付いて来ていただけますか?」
「断ったら?」
「御身の生存は言付かっておりますが、怪我の有無については言付かっておりません」
「……分かったわ。行きましょうか」
ため息をこぼして。
ティアは大人しく騎士団に両手を拘束された。
「ちょっと待ってくれ! 話はまだ——」
「シエル様、いけません!」
いつの間にか前に出ていたアントンに制されて、シエルはグッと息を呑みこむ。
彼の制止は正しい。叛意の意志を問われている相手の拘束を邪魔してしまったら、シエルも同じように捕らわれる可能性がある。それどころか、これを機に完全に監禁された上で能力の使用を強制される可能性すらあるのだ。
だが、だからといってこのまま行かせてしまっていいわけが——
「シエル」
唇を噛みしめるシエルの思考を、ティアの声が中断させた。
両手を拘束されて、抜かれた剣を突き付けられてなお、彼女はシエルに笑みを見せていて。
「じゃあね」
ほら、見たことかと。
お前の空っぽな瞳を埋め尽くしてやったぞ——そう言わんばかりに微笑んでいて。
「行くぞ」
「ま——」
色素の薄い金髪が翻り、白銀の瞳が隠れる。
やがて、彼女の姿すら騎士団の後姿に隠されて。
——バタン。
やや粗い音を立てて閉まる扉を境に、シエルは何も言えず立ち尽くすことしか出来なかった。
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