第6話 司書の弱点?




 朝日が上り、涼やかな風がやわらかく草木を撫でる。

 天気は晴れ。雲も少なく、天候など崩れる心配すら必要としない程の快晴。そんな温かな日の光を浴びる馬車の中で。


「うっぷ……」


 シエルは、喉の奥からせり上がる酸味と激闘を繰り広げていた。


「情けないわね」

「……仕方がないだろ。普段から鍛えてるお前といっしょにしないで……うぅぅ」

「ほら、下を見るよりも外を見ていた方がマシになるわよ。それに風も気持ちいいしね。ほら、こっちに来て」

「うぷぅ……」


 情けなくて涙が……出そうには無かったが、普段から邪険に扱っている婚約者に介護されてしまっては、自分の中から何か大事なものが欠落してしまいそうだ。

 とはいえ、今のシエルには這い出てこようとする悪魔との戦いで精一杯なわけで、素直にされるがままとなる。


「普段からこう素直だと可愛いんだけどね」

「うるさい……俺の方が歳上」

「そんなの知ってるわよ。私が物心ついた時からほとんど成長してないんだから。気にするわけがないわ」

「くそ……この酔いさえなければ……」


 ——いくらでも反論してやるのに。


 そう続けようとした言葉を吐き気が邪魔をする。

 本ばかり読んではいるが、シエルの脳内にはいつだって新しい情報が舞い込んでいる。

 王だって、シエルの知識を増やすために大金を叩いて各国から貴重な書物や、果てはなんでもない情報が乗った本をかき集めているのだ。

 成長していないなんて勘違いだと言ってやりたい。しかし、やはり喉奥の怪物が邪魔をして。


「うっぷぅぉ」

「ちょっと⁉ 喋る余裕が無いんだから黙ってなさいよ! 着替えだって限りがあるんだから」


 頭を掴まれた。


「お、と、な、し、く……してなさい!」

「っ——⁉」


 予想外の力で引っ張られる。

 当然、胃の中の悪霊が騒ぎ立てるが、鋼の意思で阻止。

 シエルが必死に自分の中身と対決する中、シエルの後頭部は何か柔らかいものに支えられることとなった。


「こうしたら、吐き出したら一番汚れるのはシエルの顔よ。レグランド領に着くまでもう少しだから我慢しなさい」


 上から覗きこまれる婚約者の顔。

 垂れ下がる色素の薄い金色の前髪。そこから覗く白銀の瞳はしてやったと言わんばかりに得意げに細められている。

 そんな彼女の瞳の下へ視線をずらすと、口元は少しだけ弧を描いていて。


「遮るものが無いって悲しいな……」

「黙って寝てろ‼」


 シエルの額からピシャリと子気味の良い音が鳴った。


          


 日が天高く昇り、空気の温度が暖かくなってきた頃……馬がいななく。

 人々の生活音が忙しなく闊歩し、馬車の車輪が地を踏みしめる音が響く中で。


「やっと着いた……」


 ようやく止まった馬車から、死に体となったシエルが崩れ出た。


「情けないわね。だから普段から外に出なさいって言ってるのよ」

「こんなことになるなんて普段はないんだからしょうがないだろ……そもそも、俺はうぷっ……」


 こみ上げる酸味にシエルは顔をしかめる。

 対して、婚約者様は平然とした顔をしているのだから神様は不公平だ。

 そんな不満をありありと顔に出しながらシエルはどうにか息を整えると、ついていた膝を持ち上げた。


「ふぅ……もう馬車には乗りたくない」

「そうは言うけど、帰りはどうするのよ。歩いて帰る?」

「……考えたくない」


 どこかに出掛けるのであれば、必ず帰らなければいけない。

 当たり前のことではあるが、こうも苦しい思いをするのであればうんざりもする。


「ははは、申し訳ありません」


 そう言って、馬車の御者台から降りてきたのはアントンだ。

 彼はシエルの前で立ち止まると、丁寧に腰を折ってみせる。


「帰りはもう少し振動に気を付けるとしましょう」

「アルトーラ卿はシエルを甘やかしすぎです」

「ティア様の言う事はもっともでございますが、馬車酔いは体質も相まっての事。こればかりはシエル様でもどうしようもないかと」

「それは……そうかもしれないけど」


 チラリと、訝し気に覗く白銀の瞳。

 それを否定するためにも、シエルは自信ありげに口にした。


「だ、そうだぞ。だからこうなってるのも仕方がないし、出掛けたくなるのも仕方がない……体質だから」


 ちなみに、馬車酔いは耳の内部にある規管と脳が感覚に差が生じた時に起きる現象だ。

 つまり、体質という回復を見込めない可能性があるものではなく、慣れによって軽減できるものである。

 もちろんシエルはこの事を知っている。つまり、確信犯だ。


「…………」

「ティア様、そう睨みつけるものではありませんよ。こうして仕事とはいえ外出して下さるだけで私は安堵しているのです。これもティア様のおかげですよ」

「そうですか? ならいいんですけど……」


 ティアはシエルから目を離すと、今度は後方へと向ける。

 その視線の先、人々が行きかう街並みの奥には一際大きな屋敷の上半分だけが顔を覗かせていた。


「ここからは徒歩で移動するんですよね。まだレグランド家まで距離がありますけど大丈夫ですか?」


 シエル達が馬車を止めたのはレグランド家の治める領地の中心——レグランド。その入り口部分であり、門を越えたところである。

 歩いていくのであればそれなりに時間がかかる。それを考えると、レグランド家まで馬車で移動した方がいいのではないか? 特に引きこもりの万年運動不足がいるのだから——と、いったところだろうか。

 そんな呆れ半分、侮り半分でシエルを一瞥した彼女を安心させるように、アントンは柔らかく微笑んだ。


「ご心配ありがとうございます。ただ、これ以上は人が多く、揺れも大きくなる可能性があります。それに、ここまでだと歩いていった方が早いですので」

「そういうことですか。分かりました」

「シエル様もよろしいですね?」

「……本当は嫌だけど、しょうがない」


 シエルは頷いた。

 馬車酔いと徒歩の労力を天秤にかけて、徒歩に傾いたからである。


「護衛は私に任せて、お二人は少ない時間ではありますがお楽しみください」


 馬車に戻る間際、アントンはそう告げて深く腰を折った。

 その意図が読めずシエルはティアに視線で問うと、彼女はシエルから真逆に顔を逸らしていて。


「どうした?」

「う、うるさい!」


 そっぽを向くティア。


「いったいどうしたんだ?」

「それは、ご自身でご確認ください」


 急変した婚約者の様子を従者に問うと、返ってきたのは無表情ながらも呆れを含んだ嘆息だった。


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