第4話

 引っ越しを終えて、三ヵ月が経った。




 時間と共に私の気持ちも落ち着いていた。仕事も順調で、日吉田のミスの時は出張から帰ってきた課長にも謝られたが、日吉田の仕事は問題なく進んだ。


 季節もゆっくりと移り変わり、引っ越し先のマンションでも、顔なじみの親子と挨拶するほどになっていた。


 会社が近くなったので歩いて仕事場に行く。通勤時間は徒歩二十分と楽な環境になった。


 私が仕事に行く時間と、母親と、幼稚園の制服を着た子供がマンションを出る時間が大体同じ時間で、「ゆうくん」と言う四歳の子は私に「おはようございます。いってらっしゃーい」と元気よく挨拶をしてくれる。


 私も、ゆうくんとママに、「おはようございます。いってらっしゃい」と返し、手を振り返して別れる。



 平和な日々だった。



 別れる前はジクジクと胸が痛む感じだったが、別れてからは、ズドンと穴が大きく開いて、その後は楽になっている気がする。ゆっくりとゆっくりと穴はふさがってきていると思う。


 最初の二週間は落ち込んだが、一ヵ月経つ頃にはもう透の連絡先はブロックしてから全て消した。連絡先があると、気になってしまう。


 自分から別れようと言ったのに、未練が残るのは嫌だった。透は私の事をもう忘れているだろう。私も忘れた方がいいはずだ。


 そして三ヵ月経った今は、穏やかな気持ちになっていた。



「おはようございます」



「おはよー」


「おーす」


「おはよう」



 デスクに座り、挨拶をしながらPCを立ち上げると、早速、急ぎの仕事の指示が来ているのを確認し、作業を始めた。


 昼休憩が終わり、急ぎの仕事を終わらせて、サンプル品の色のチェックに入っていると、のんびり声が掛けられた。


「おーい。楠木くすのきさーん」


 私がサンプルと色見本とを比べていると、コーヒーが後ろから差し出された。


「あ。鳥飼さん、どうも」


「コーヒー。ね。飲もう。休憩しないとさ。仕事の効率が、上がらない訳よ」


「そうですね」



 差し出されたコーヒーを受け取り、色見本を横に置いて、口を付けた。



「俺、一昨日から、帰れてないのよ。俺のところの課長がさ、無理な納期のデカい仕事取ってきたせいで、俺達死んでるのよ。見た?俺達のデスク?屍がうようよいるよ。ゾンビみたいな奴ばっか。新人なんて、呪いの言葉を吐きながら仕事してんの。仮眠室と休憩室、殆ど、俺達が独占してる」


「そうなんですか?手伝います」


「あー。いいの、いいの。こうやって、楠木さん、補給してたらさ、元気になったから」


「何かお手伝いはないですか?課長に言って、手伝いに行けますよ?私、今、急ぎの案件ありませんから」


「大丈夫。俺、うちの課長に仕事、滅茶苦茶振って、課長寝かせないで鞭振り回して働かせてるから。手伝いに来てくれたら、課長が一番に逃げそうでしょ。休ませるなら下から休ませてあげたいけどねえ。帰れてないから、もう、着替えがなくなっちゃたのよ」


「下のコンビニで靴下や下着は売ってますよ?お使い出来ますけど」


「え。楠木さんが俺のパンツ買ってくれるの?それって、いやん、じゃない?」


「いやん、じゃありません。なんですか、いやんって。靴下買ってきますか?」


「ん。いい。あ、楠木さんもさあ、男のパンツは買っちゃだめでしょ。勘違いされたらどうすんの。それに、今、急ぎの案件なくても、昨日、遅かったでしょ?」


「はい、田中さんがお子さんの関係でしばらく前からリモートが多くなったんですけど、ちょっと落ち着いたので、出社する日を増やすみたいなんですよね。私達の仕事って、現物見た方が早い事が多いので。それで、昨日はサポートに入ったんです」


「そうなんだ。完全リモート出来る部署はいいよねえ。俺らの部署じゃ、完全は無理ですよ。昨日は、休憩する時に楠木さんが遅くまでいるのが見えて。家に着いたの遅かったでしょ。駅まで一人?大丈夫?」


「引っ越したんで、タクシーで帰りました」



 勢いよく抹茶オレを飲みながら、鳥飼さんは目を丸くした。



「え?楠木さん、引っ越ししたの?」


「少し前に」


「楠木さん、タクシーで帰れる距離なんだ。会社から近い?」


「近くなりましたよ。普段は歩きです。流石に夜遅くなると、タクシーで帰った方が安全ですけど」


「じゃあさ。俺の仕事が今来週で終わるから、来週の金曜、引っ越し祝いしよう」


「いや、いいですよ」



 私が「コーヒー貰いましたから」と言うと、「そんなので?」と言ってニコニコ笑った後に急に真面目な顔になった。



「あ、もしかして、彼氏と同棲始めたとか?」


「いや。いませんし」


「え?いたじゃない」


「三ヵ月前に別れました」



 鳥飼さんは抹茶オレを振り回した。



「ちょ。汚いです。こぼれます。サンプルでも、つけたら怒りますよ」


「あ、ごめんね、よし。じゃあね、引っ越し祝いデートをしましょう」


「は?」



 私が鳥飼さんを見ると、鳥飼さんはニコニコと私を見ていた。



「鳥飼さん。やっぱり大分お疲れですよ。しっかり休んで下さいね。下着もコンビニで買って下さい」


「はーい。大丈夫、さ。補給が終わったから、もうひと頑張りして来ようかね」


「無理なさらず」


 ブラックコーヒーを飲みながら私が返事をすると「もう、俺、同じコンビニパンツばっか。楠木さん、来週の金曜日の引っ越しデート覚えておいてね」と言って帰っていった。


 それからも忙しいはずの鳥飼さんは、ふらっとコーヒーを二本持ってくると、私の所で五分程休憩をして、帰っていった。


 課長に、「鳥飼さんの部署。激務らしいですよ」と言ったら「あー。そうなんだよ。でも、こちらから手助けは不要らしくてね。向こうの課長からは、ちょっとお願いされそうになったんだけどね。鳥飼君が、ニコニコして、不要ですって言ったんだよね。課長、困ってたよ」


 苦笑いしながら「サポートは出来るだけしよう」と課長がいい、皆も「鳥飼さんの所なら」と、ちまちま業務をこそっと引き受けていた。




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