こちらは物語の砂漠

冬野瞠

 見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。

 ある朝、人類のひとりがそのことに気づいた。身に覚えのない、意味を持たないように見える文字の羅列。それが、一日の終わりに書き込まれるべき、日記の当日のページに出現していたのだ。

 世界中を巻き込む騒動の発端となったこの出来事の、最初の発見者は特定されている。その人物は後日、インタビュアーに対してこう答えている。


「そんなに驚きはしませんでしたよ。ただ、不思議だなと思ったことは覚えています。早起きしたついでに昨日の日記を読み返そうとしたら、今日のページに既に書き込みがされていたんですからね。最初はミスプリントかと思いました。朝食の席で家族に話したら〝日記なんてつけてるマメな人だったの?〟と、子供たちにはそちらに驚かれましたね」


 つまり朝の時点で、謎の文字列が日記帳のその日のページに書き込まれていた、ということである。子供のいたずらか、それか持ち主が酔って忘れてしまったのか。当初はそんな、家族間でのみ共有された少しだけ不可思議な出来事でしかなかった。

 しかしもちろん、話はこれで終わらない。たくさんの――それこそ数えきれない数の――日記帳に、同じような文字列がほぼ同時に出現していたことが明るみに出始めると、騒ぎは国境を超えて加速度的に膨れ上がっていった。

 持ち主が存命中のあらゆる日記に、文字列は書かれていた。世界中で最も普及している言語であると思われたが、文章中には欠落も多く、意味を読み取ることは困難であった。一人分の文章量はおよそ二百文字。整然とした商用フォントのような文字は肉筆ではなく、かといって印刷でもない、人類がまだ見たことのない手段で書かれているように見えた。

 何十億もの日記帳にいつの間にか手を加えられていたことに住民たちは大騒ぎし、実体の見えない首謀者に戦々恐々としたが、やがて一過性の興奮と言ってもいいパニックは急速に沈静化していった。書かれた文字に危険性はないと各国の代表者が断言したから……ではなく、数週間経っても特に何も起こらなかったからだ。人類はあらゆる物事に慣れる能力には長けていた。

 しかしながら、謎の文字列に再び注目が集まるまで、それからひと月もかからなかった。日記の文字列の何割かはネットワークにアップされており、それを趣味で虱潰しに解析していたある有志が、欠落部分を手がかりに一人ひとりの文章を繋ぎ合わせることが可能だと発表したのだ。組み合わせたところで一見意味の通らない怪文書にしかならなかったが、約百人ぶんの連結した文章が完成したことで、文字列の正体が明らかになってきた。

 それは物語だった。架空の出来事を描写した、小説だった。

 そこからの人類の団結力といったら凄まじいものがあった。日記に現れた文字列が怒涛の勢いでアップロードされ、解析・連結のためのポータルサイトが作られ、謎の小説に興味を惹かれた者たちが寸暇も惜しんで文章を繋ぎ合わせ続けた。それらはほとんど無償の行為によるものだった。

 ある朝、日記帳を通じて人類にもたらされたもの。それは総文字数一兆を超える、長大な一編の物語であった。

 辿り着いた異星で、突然目の前に金字塔を見つけた冒険者のように、人類は畏れおののきながら、同時にその超長編小説に熱狂していった。

 解析に協力した大学生はインタビューでこう話している。


「文字列を繋ぎ合わせているあいだ、ずっと興奮していました。大学ではほとんど単位を取り終わっていて、時間を持て余していたんです。最初は暇つぶしで始めました。もちろん、多少は面白そうだなとは思っていましたよ。でも有り余る時間をぎ込んだ対象が、こんなエキサイティングなプロジェクトにまで成長するなんて! この時代に生きられて、めちゃくちゃラッキーだったと思います」


 国境の垣根も超えた大仕事を終え、超長編の小説の全容を明らかにした人類は、また一段と深い熱狂の渦中へと突き進んでいった。彼らが自身の手で解き明かし掌中に収めた物語は、端的に言えば〝ものすごく面白かった〟からだ。

 老若男女が熱中した。人類の話題はすぐにその小説ばかりになった。彼らは比喩ではなく、実際に寝食を忘れてその物語を追うことに没頭した。

 人類の物語を愛する能力が、史上最高に高まった期間の幕開けだった。


 *  * * *


 異星人のひとり――ここでは便宜的にNとする――が宇宙の彼方からこの星へ視察にやってきたとき、人類は今まで見たことも聞いたこともない長い長い物語に夢中になっていた。小説が印字された紙や液晶画面を、皆が目を輝かせながら追う様子を眺め、Nは大いに満足した。何を隠そう、彼らが読んでいる重厚長大な小説をひとりで書き上げ、この星の住人の日記に同時に書き入れた張本人こそNだったからだ。

 Nは星の住人に姿を似せ、借り物の言語を操りながら、公園で読書に励む老人に話しかけてみた。


「こんにちは。突然すみません。ずいぶん熱心に読んでいらっしゃいますね。それは面白いのですか?」

「なに! あんた、この小説を知らないのか。長らく宇宙にでも行っていたんか? こりゃな、わしの生涯で触れたうちの一番面白い物語だぞ。今じゃみんなこの物語の話をしとる。こんなに物語に夢中になったのは子供の頃以来だ。特に、最初の方の男の子と女の子が青色に光るオウムガイを釣り上げるシーンがいいな。その後も印象的な場面ばっかりだ。あんた、知らないで生きてるなんてあまりにも勿体ないぞ。わしはこれを読みきるまでは死んでも死にきれんわい……」

「そんなに面白いんですか。それは気になりますね」


 Nが当たり障りのない返事をすると、老人は何も言わずに読書へと戻っていった。

 Nは内心、震えるほどの感銘を受けていた。老人の言葉すべてが、Nにとっては自作の小説に対する最初の感想だったからだ。

 Nは物心ついた頃から創作をしていたが、生まれ故郷の星には、虚構の物語を楽しむ能力を持った者はN以外にひとりもいなかった。空想に耽り、架空の世界でふわふわと生きているNは異端であり、異常であり、不穏分子ですらあった。Nは孤独をかこちながら過ごしていたが、その孤独を癒すのも自らが生み出す物語なのだった。そんなNを、親きょうだいですら扱いに困り、遠巻きにしてきた。生まれ故郷の同胞たちは、知的生命体のいる他の惑星をどれだけ迅速に発見し、どれだけ効率的に制圧し、どれだけたくさん入植地にできるか、その技術の向上に血道を上げているような連中ばかりであったから、Nの家族はいつでも白い目を向けられていた。

 Nの幼なじみだけは、「君の好きなものは尊重するよ」とひとり理解を示してくれた。その相手とて、Nが形にした物語を実際に読んでくれるわけではなかった。同胞たちにとって小説とは意味のない虚構であり単なる嘘であり、惑星征服には何ら役に立たないものだからだ。その認識は幼なじみとて変わらなかった。

 Nは非常な口下手だった。なぜ自分が物語を愛し小説を書くのか、話し言葉で説明しようとするといつも途中で論旨がこんがらがり、言いたいことの一パーセントも言えない。そこでNは物語の形式で幼なじみに伝えたいことを書き記した。

 種族の違う者同士が出会い、相手の言葉が分からないながら、身ぶり手ぶりでコミュニケーションを取るうちに、互いの体の特徴がいつしか自らの身体にも現れる、という〝十億字ほどの〟短い小説。Nはそれを幼なじみに渡し、読んでもらおうとしたが、相手は常と変わらず困ったように笑うだけだった。Nはすべての行為が一人芝居だったと突然悟り、物語を書き込んだ媒体を鋭い爪で千々に引き裂いた。猛烈に恥ずかしく、いたたまれなかった。

 Nは誰もいない岬まで走って遥々と広がる海を眺めながら思った。どうして自分だけがこんな性質を持って生まれたのだろう。ただ考えたことをそのまま口にすれば済むのに、自分だけが、虚構の中でしか本音を言えない。架空の物語に祈りを託すことでしか、本心を表現できない。この星の人々に自分の感覚を理解してもらうのは、きっと不可能だろう。


 ――この広大な宇宙で、私だけが孤独なのだろうか?


 そのとき、ふっとこれまでにない問いが思考を過った。こうして思考する生命体はこの星の住人だけではない。もしかしたら、同胞が滅ぼした星にも、物語を愛していた住人たちがいたかもしれない。まだ他にも物語を愛する知的生命体が宇宙に存在しているのなら。同胞たちよりも先に自分が接触して、物語でコミュニケーションを取れないだろうか?

 Nの中でアイデアが弾けた。こうしてNは、衝動的に宇宙船を拝借して、家出ならぬ星出ほしでをしたのだった。

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