空を泳ぐ海月に物語を

たいご

初恋は近所の優しいお兄さん

「今年は一緒にサンタを待とう。陽翔は、手紙に俺の家で過ごすって書かないとだめだよ」


 マフラーを外し、ブレザーの制服をハンガーに掛けながら真澄が言う。これが俺をあやしているわけではないとわかっているので、緊張に背筋を正せば担いだランドセルの中がゴトリと鳴った。


 外では雪が降っている。クリスマスに向けてクラスメートとは何のゲームが欲しいかの話で盛り上がる時期だ。


 陽翔は口許だけで笑って、頷く。


 困ったことに。

 愛しいことに。

 

 4つ年上の好きな人が言うことには、冗談や打算が一切ないのだ。


◆◆◆


 真澄と知り合ったのは陽翔が小学校に上がったばかりで、母親と公園に遊びに行ったときだった。母の旧い友人がこちらへ越してきたそうで、偶然出会った2人の会話に花が咲いてしまい、視線がこちらを向かないことに大層拗ねてしまった覚えがある。


 そんなとき、水筒のお茶を注いで一緒にいてくれたのが真澄だ。当時高学年だった彼はこのときから柔らかな空気をその身に纏わせていて、こちらの理解の速度に合わせてゆっくりと喋ってくれるのが心地よかった。あとから聞けば、日頃からボランティアの一環でよく幼い子たちと遊んでいるらしかった。手慣れた扱いに、陽翔が機嫌を直すまでにはそう掛からなかった。


「お母さんがごめんね。陽翔くんはいいこだね。きっと素敵なことがあるよ」


 帰る頃にはすっかり懐いてしまって、母と真澄の母が近い内にお茶をしようと約束したときにはすかさず、絶対に連れていってほしいとねだった。それはもう、おもちゃをせがむときよりずっと激しく駄々を捏ねたのだ。恥ずかしい振る舞いではあったけれど、あのとき、それをやっておいてよかったと思う。そうでなければ、今現在のように兄弟の如く仲のいいご近所さんにはならなかったかもしれない。その可能性を考えるたび、陽翔は心がヒヤリとしてしまうのだ。


「陽翔くん、一緒に宿題やろうか」


 真澄はよく勉強を見てくれた。1年生が与えられがちな“元気に遊ぶ”といったものにも、音読やお絵かきにも付き合ってくれた。どんなときでも楽しそうに笑ってくれる、その笑顔が素敵だった。次第に大好きなお兄さんにどうにかいいところを見せたくなって、陽翔は尚のこと熱心に宿題に取り組んだ。その甲斐があってか、描いた絵がコンクールで入賞したこともある。

 褒められて伸びる子だからさ、と調子に乗ってみせれば、真澄はそれをたしなめることもなく頭を撫でてくれた。嬉しくて、更に勉強も頑張った結果、成績がぐんぐんと上がった。先生やクラスメートたちからも一目置かれるようになり、そのうち、神童なんて呼ばれ出したほどだ。


 けれど、家やクラスでそれを鼻にかけることはしなかった。良い循環の中で日々が楽しく充実しているのは、確実に真澄との時間があったからだ。感謝するに尽きる、と陽翔は心から思う。


 そして、彼の面倒見の良さに甘えて、知らず知らずの内に初恋を捧げてしまった。


 真澄は、贔屓目に見ようとしなくたって整った顔立ちをしている。柔らかい黒髪が日の光でキラキラするのを見るのが好きだった。陽翔がそれに触れられるのは、一緒に寝転んでじゃれ合っているときくらいで、数十センチの背の差はなかなか埋まらない。真澄はそれなりに体格がいいのだ。


 けれど、こちらだってまだまだ伸び代が多分にある身だ。新学期毎の身体測定が楽しみで、なるべくなんでも食べて夜は早く寝るように努めた。青臭いピーマンも、独特な甘さの人参だってがんばって食べる。お残しをしなくなった陽翔を、真澄はまた褒めてくれた。他ならぬ彼が笑顔を見せてくれるのが一等嬉しくて、誇らしい気持ちで柱に傷を刻む。


「陽翔は、今年はサンタに何を頼むの?」

 陽翔が小学5年生、真澄が中学3年生の冬のことだった。

 12月に入る頃になると、真澄は決まってその質問をしてくる。ストーブがごうごうと温かい空気を吐き出していて、机の上には画材と、真澄のノートが広げられていた。


「タブレットかな。デジタルで絵を描きたくて」

「ああ、いいねぇ。お絵描き上手だもんね。楽しみだな」

「オレ、誕生日が2月じゃん? クリスマスはタブレットで、後から専用のペンを買ってもらうんだ」


 画用紙にくるくる色鉛筆で円を描きながら言う。マス目をシャープペンシルで埋めていた真澄は手を止め、なんとなく腑に落ちないような顔で瞬きをした。


「まあ……そういうのもアリかもね?」

「そうそう! 片方だけでもすげぇ高いんだもん、オレこれのためにも成績の方ももっと、もっと……!」

「陽翔はよくがんばってるだけじゃなくて、相手のことを考えられてえらいねぇ。きっとサンタさんはその優しさを見てくれているよ」


 殊更優しい声で、温かい手のひらで頭を撫でてくれる。陽翔の頬が熱くなる。この手が大好きだ、と思う。幸せに表情筋が弛んで、でれっとしてしまうのがわかるけれど止められない。


 ただ陽翔はそうしている内に、もしかしたら真澄は陽翔より少しだけ多くもらっているお小遣いでペンを買い与えてくれるつもりなのでは? と過った。

 は、と息を飲む。

 途端に焦ってしまって、陽翔はわたわたと手を振る。


「い、いいんだよ!? ひとつずつ手に入れていくからさ」


 確かに彼は兄のような存在ではあるとしても、近所の子にプレゼントするにはどうしたって高価な代物である。そりゃ誕生日を待たずしてデジタルでの絵を描き始められるのは魅力的だけれど。


 やんわり断りの姿勢を取りつつ、実のところはちょっとだけ気持ちが揺れていた。好きな人に迷惑はかけたくない反面で、念願の品に心がときめく。あれさえあれば、透き通るようなカラフルなイラストも、油絵タッチの絵画も、トーンたっぷりの漫画だって描き放題なのだ。


 だとしても、だ。


 こちらの方が年下と言えど、中学生相手に軽率にねだっていいものではないことくらいは理解している。

 

 ――だって、お年玉が一瞬で無くなってしまうような額なのだから。


「オレは、別に、待てるんだし」

「うん」

「気にしないでくれていいからね」


 そもそもの話、真澄が自分にしてくれることだったらなんでも嬉しい。お金を使ってくれなくたって、お絵描き頑張ってね、のひと言で何枚だって描ける自信がある。

 

 彼は柔らかく微笑んで、陽翔が描いたばかりの絵を喜んでくれた。

 

「俺はね、陽翔。陽翔の無限の世界を作り出せる手が何より尊いと思うんだ」


 真澄が、声変わりした低音で、小さな手を大事そうに包んでくれる。


 やっぱりそれだけでいい。

 丸い頬を綻ばせて、陽翔は手をにぎにぎとさせた。

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