第31話 考古学者ナイラ
ナイラという女性はこの大陸——いや、世界で最も強い人間と言える。少なくともルシアンはそう思っていた。
これは『考古学者』としての能力だけの話ではない。その能力で発見した強大な力を、一身に背負う精神力と思慮深さが彼女の真の強さだ。
高度文明時代の知識——それはまさしく世界を破壊することも創造することもできる力だ。そのような強大な力を、人間一人が背負うことの苦しみは想像もつかない。誰にも理解ができないことなのだ。
ナイラは過去に一度だけ弱音を吐いたことがある。それは三年前に『ピストル』という恐ろしい殺戮兵器の製法が記された古書を解読してしまった時だ。
その時の彼女の姿は見ていられなかった。
『ねぇルシアン。ボク、もうやめたいッ……もうなにも知りたくないッ!』
そう泣き叫ぶナイラの姿に、ただの騎士でしかなかったルシアンも、一緒に泣くことしかできなかった。
エドワードの意志を受け継ぎ、平和で幸せな民の暮らしを求めていた彼女は、真逆とも言える大戦争の火種を発見してしまったのだから、そうなるのも無理はなかった。
その時にルシアンは想像した。もし自分がナイラの力を持っていたなら正気でいられただろうかと。少し考えただけでも、おぞましくてたまらなかった。
民の生活を良くするために、発表したものがとんでもない殺戮兵器に変わってしまうこともあるのだ。その無限の危険性を、常に認識しておかなければならない。
故にナイラの精神力と思慮深さは、神の領域にまで到達しているといっていいのだ。
このことがきっかけでナイラは、軍事関係の遺物や記録を独断で抹消する権利を手に入れた。ナイラに強国へと押し上げてもらったセグナクト王国も、何も言わずに許可した。
ルシアンとナイラは『ピストル』の知識を墓場まで持っていくと決めたが、おそらくナイラの脳内にはもっと多くの危険物の情報が秘匿されているだろう。
あれから研究結果を発表しなくなったナイラが『適性検査の水晶』についてどんな話をしてくれるのか楽しみにしていた。
「ヤッホー! ルシアン、バルドル、久しぶりだね!」
「ヤ、ヤッホー? 久しぶりだな……ナイラ」
「ナイラッ! 元気そうで何よりだよ」
ルシアンはバルドルの行きつけの料理店の個室で、ナイラを歓迎した。
久しぶりに会ったナイラは、相変わらず変な言葉を扱う時があるが、
「ルシアンさぁ……なんか若返ってない!? てか君は何歳なのさ! 絶対二十五歳じゃないでしょ!」
「ねぇ、久しぶりに会って交わす言葉がそれ? 知らないよ……孤児時代の年齢なんて二人も適当でしょ?」
ナイラとバルドルが二十六歳、ルシアンが二十五歳ということになっているが、実際は誰にもわからない。
当時の三人は正確に生年月日を把握しておらず、保護された時にエドワードが、大体の見た目で年齢を決めたのだから。
「んーまぁ確かに。あっ伝え忘れてたけど、後からボクの夫も来るからよろしくね!」
「え"っ……なんで?」
ニヤニヤするナイラの口から出た言葉は、ルシアンにとってあまり嬉しいものではなかった。
ナイラの夫——【英雄ブライス】のことを尊敬はしているが、ナイラを溺愛している彼のことが少し怖いからだ。
「今回の水晶の件は、ブライスのおかげで気づけたからね! それにルシアンには他にも会いたがってる人がいるから今度王宮に連れていくね!」
「それは……だ、だれ?」
「王太子ゼナードだよ?」
「……え!?」
次々と意味のわからないことを言われて混乱しまくっていたルシアンは、バルドルに助けを求めるように視線を向けたが、彼は運ばれてきた分厚い炙り肉を美味しそうに頬張っていた。
(意味がわからない……ゼナード王太子殿下がどうして……王家は今ものすごく忙しいのに、木端貴族の嫡子になんで? シビネや魔物喫茶のことがあったとしても、今の時期に話すことじゃない。じゃあなんだ?)
「それとね! 水晶の件が終わったら、ボクもラクシャクに帰るから」
「ッ!?」
「ブフッ!?」
これにはバルドルも吹き出していたが、無理もない。
おまけ感覚で話された最後の話が、最も破壊力を持った話題だった。ナイラがラクシャクに帰る——つまりは高度文明時代の研究を終えるということだ。
高度文明時代の遺物や記録は、全てセグナクト王家が最重要機密として管理している。そのためナイラは国の中枢人物や王家の人間——英雄ブライスや王太子ゼナードとも交流があった。
セグナクト王国はナイラの力に頼ってきた。それをやめてラクシャクに帰るなど、王国側が許可を出すのかという疑問が湧き上がる。
「ナイラ……おめぇ、もしかして成し遂げたのか」
「バルドルには悪いけど、お先に抜けさせてもらうよーん! ボクもそろそろ限界だったんだけど、なんとか間に合ったって感じ?」
「……そうか。頑張ったな」
呆気に取られていたルシアンは、バルドルとナイラの会話をぼんやり聞いていた。
二人が王都で奴隷商人と考古学者をしているのには理由があった。
バルドルは奴隷という不条理の塊である制度が消えて無くなるまで、奴隷を支えるというのが目的だ。そしてナイラは人間の可能性を証明するという哲学とも言えるようなことが目的だった。
ナイラは今回の水晶の件で、それが証明できると考えたということだ。それならば王家も納得しているかもしれないと、ルシアンはホッと小さく息を吐いた。
「だからぁ……可愛い可愛いルシアンに! お姉ちゃんからのお願いなんだけど、ボクがラクシャクに帰れるように王太子ゼナードを説得してー?」
「……ぅえッ!」
イカれてるよお姉ちゃん……緊張からくる吐き気が襲っていなければ、ルシアンはそう叫んでいた。
意味がわからなかった。ナイラは昔から悠々自適な性格であったが、今回はあまりにも悠々自適すぎた。
三人の婚約者ができて、新たな目標ができて、新しく生まれ変わったルシアンに、恐ろしく難易度の高い試練が降りかかろうとしているのだ。
適性検査の水晶の話を聞いて考察して、リルベス子爵領について考察して、英雄ブライスをいなして、そこに王太子ゼナードの説得まで加わるなど、もはやちょっとした勇者ではないか。
「ルシアンの話はマリーダさんからよーく聞いてるんだけどーどうやら妻ができるらしいね? しかも三人も!」
「……そ、それが? なに? やめてよ?」
ルシアンが子供の頃は綺麗なお姉ちゃんに見えたナイラも、大人になった今となってはチビのちんちくりんだ。二十六歳の世界で最も強い女のくせに、随分幼く見える。
そんなナイラの今の顔は、ルシアンが良く知っている意地悪い表情を浮かべていた。嫌な予感がした。
「その子たちに言っちゃおうかなー? 昔ルシアンがボクの下着を盗んで一人で——
「僕に協力させてくださいッ! お姉ちゃんッ! 大好きですッ!」
脅し方がうますぎる。なぜかルシアンの周りにいる女性は人を脅すのがうますぎる。
ルシアンの黒歴史を大量に握っているナイラは、おそらくどんな角度からも脅すことができる。そもそもナイラに勝てたことなど一度もないのだ。
エドワード、マリーダ、バルドル、ナイラはルシアンを一方的にボコボコにすることができる数少ない人間なのだ。
ルシアンがナイラに協力宣言をさせられてぐったりとしていると、ガラガラガラッと個室の引き戸が開いた。
「なんかお姉ちゃん大好きッ! って声が聞こえたぞー? 弟だからってオレのナイラに色目使ってんじゃねーぞ? 不死身ぃ?」
「あーブライスぅ! おそいよ! ほら早く早く!」
ルシアンが立ち直る間もなく、更なる厄介ごとブライスが参戦した。
(ラクシャクに帰りたい……アーシェの笑顔がみたい。ベルのことをいじめたい。ウルスラを抱きしめたい。モチコ元気にしてるかなぁ……僕はナクファムが嫌いです。父上、母上)
これから訪れるであろう困難を前に、ルシアンは愛すべきラクシャクの面々を思い浮かべて、質の良い現実逃避をしていた。
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