第6話 人生初野宿

 森は沈黙の海のように重く、深く広がっている。木々は黒々と空に聳え、枝葉の間からのぞく星々は瞬きをするように小さく輝いていた。

 ──エラは森の中でカーバンクルと隣り合い、膝を抱えて座り込んでいた。昼間の出来事が頭を過る。冒険の旅に出た日の内に野宿をすることになるなんて。

 森の中で日が落ちるのがこんなにも早いとは思いもよらなかった。足を踏み入れた時にはまだ明るかったはずの森がいまや彼女を覆う暗闇へと姿を変えている。

 昼の森はただ緑が溢れ、木々の間にさわやかな風が吹き抜けるだけの場所だった。然し夜になるとその風は冷たく湿り気を帯びていて、別の場所に変わったようにすら感じられた。


「明るいうちに枝を集めておいてよかったね。ルミナも手伝ってくれてありがと」

「それぐらいお安い御用さ。それにしても落ち着かないね?目の前には何にもいないのにぞわぞわする」


 木々のざわめきが時折風に乗ってルミナの耳をかすめる。エラ以上に夜の静けさに慣れていないルミナはどんな微かな音も大きく感じてしまうらしい。鳥の羽ばたきや地面を這う生き物のわずかな気配すらルミナの神経を逆撫でしていた──今までルースの研究施設の中で暮らしてきた影響も有るのだろうか。

 エラ達は小さな焚き火を囲み、隣り合っている。二人の目の前にある焚き火はかすかな暖かさを放っているが、明かりは遠くまで届かない。火の外側はすべて闇だ。

 エラは母親の言いつけに倣い、まだ明るいうちにルミナと共に森に落ちている枝を集めた。村でも子供の手伝いとしては定番の仕事だ。然しながら村と森では環境が違う……普段のようにのんびりとはいかない。

 そうして何とか集めた枝で焚き火をすることが出来たのだった。


「ルミナ、お腹空かない?母さんが持たせてくれたパンがあるよ」

「僕は食べなくても平気さ」

「ルースさんから普通の食べ物も食べられるって聞いたよ。二個あるから一つあげるよ。一人だけ食べるのは気が引けるからさ……」


 安心したからであろうか。エラはふと空腹を感じた。隣でルミナも身体を伏せ、ゆっくりと尾を揺らしている。いくらかリラックスできているらしい。

 旅に出てから初めての野宿。心身共に疲れているが、それ以上に何よりも空腹がエラを苛んでいる。村で食べていた母親手作りの温かいスープや焼きたてのパンが恋しい。けれど、今はそのような贅沢は望めない。彼女は鞄から小さな袋を取り出し、そこにある二枚のパンと干し肉を取り出した。

 庭のベリーのジャムを塗ったパン。パンはジャムのお陰でややほろ苦い甘さ、干し肉は塩辛い……パンは一つずつ、干し肉は半分にしてルミナに手渡してやる。そして鞄から取り出した平皿に水筒から水を注いで差し出した。

 母親が用意してくれた食料とはいえ、家で食べていた手料理とは味も量も比べ物にならない──それでも彼女にとってこの粗末な食事は今のところ唯一の頼りだ。


「これしかないんだから、文句言わないで食べなきゃね」

「明日には街につかないと厳しいね」

「大丈夫、町はすぐ隣のはずだから……」


 エラは自分に言い聞かせるように呟きながら乾燥肉も一緒に口に運ぶ。塩分が強く喉が乾くが、水筒の水には限りがある。森の中で水を見つけるのは難しそうだし、無駄にするわけにはいかない。

 食事は味気なく森の中で食べる食事というのが、これほど孤独で心細いものだとは。新しい友達のルミナはいるけれど……母親から離れるということが、村の生活から離れることがここまで寂しいものだとは思わなかった。

 家には新鮮な野菜や肉が溢れ、香ばしい香りが漂っていた。勿論、それは食堂の商品になるもので自分や母親が毎日食べられるものではなかったけど……それでも母の料理は美味しい物だ。母親が作ってくれたスープの温かさが懐かしい。そして夜になれば暖かい布団の中で眠り、何の心配もなく目を閉じることができた。けれど今は違う。食事を終えても心の中には薄い不安が漂っている。


「……カーバンクルって結構無口なの?」

「オンとオフがしっかりしてるってだけだよ」


 心細い時に限って喋ってくれないんだから……。

 パンと干し肉を食べ終わった後、エラとルミナは焚き火の火をじっと見つめた。

 焚き火の揺れる炎はまるで自分の心を映し出しているかのように不安定だ。もし火が消えたらこの闇がすべて彼女を飲み込んでしまう……エラは枝を足し、炎が大きくなるのを見守った。火が燃え続ける限り、少しでも安心できる。

 それでも、この火も永遠に続くわけではない。

 夜の森は冷たく無慈悲で自分に何の慰めも与えてくれない気がする。慣れればこの雰囲気を楽しめるようになるだろうか。村にいる頃から大人について回って積極的に遠出すべきだったんだろうか……。

 風が吹くたびに木々がざわめき、その音はまるで自分に話しかけているかのようだ。歓迎されているのか、拒絶されているのか。分からないから恐ろしい。


「……何?ルミナも何か聞こえた?」


 突然、どこからかカサリと音がした。

 エラは反射的に身を硬くした。心臓が高鳴り、手は懐に忍ばせたナイフに伸びる。

 周囲は闇に包まれ、目の前の焚き火が照らす範囲外は何も見えない。エラより早く反応していたルミナは既に身構えており、今にも飛び掛からんとする勢いだ。

 再び音が響き、茂みの中から何かが近づいてくる気配がした。

 ──昼間ルミナと話していた魔法使いだったらどうしよう?


「誰かいるの……?」


 震える声で問いかけるが、返事はない。

 エラは火の明かりの向こうをじっと見つめる。すると、ゆっくりと影が現れた。月の光がその輪郭を照らし出す。一瞬心臓が止まりそうになるエラ。しかし次の瞬間、それが兎だとわかるとエラは安堵の息をついた。


「ただの兎かあ……」

「エラは驚きすぎなんだよ。もっとどしっと構えないと!」


 そんなこと言ったってルミナも怖がってたじゃない!

 兎はしばらくエラ達の前でじっとしていたが、やがて興味を失ったのかふわりと跳ねて闇の中に消えていった。

 ──夜はまだ長い。

 エラは焚き火に再び目を戻し、残り少ない薪を数える。ルミナは兎が生活出来るほど安全なところなら、とかえって安心したのかそれからすぐに眠ってしまった。

 一方、エラは食事を終えても眠気は訪れない。それでもエラは鞄の中から寝袋を取り出し、寝床を作る準備を始めた。

 あと少ししたらルミナと交代し、自分も睡眠を取る努力をしよう。

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