Be After Prain(ビーアフタープレイン)

稲子帰依

第1話-1

壁一面が本棚に覆われた狭苦しい社長室にカツ、カツと爪と机のぶつかる音が

響く。リズムは一定に保たれているが、

音にかかるクレッシェンドが演奏者の苛立ちを色濃く宿している。

窓の外では代わり映えしない赤い空に紛い物の満月が

浮かび、野天の下では今日も搾取という楽器がけたたましくコーラスを奏でていた。

──ここは『地獄・第八層』。

嘘に自殺に同性愛と許されない罪を犯してしゅ

見捨てられた者が集う九階層で構成された掃き溜め、

中でもとりわけ黒い色をした悪意と腹を有する者が集う階層だ。

その醜さたるや地獄の悪魔達が中途半端な善行は実を結ばない

という意味が込められた警句である“地獄への道は善意で舗装されている”に

なぞらえて“八層あそこだけは端から道すら存在しない”言うほど。

たとえどんなお人好しが善意を捧げようと

最後にはオオカミにまるっと食われてしまうし、

かといって騙されまいと信じることを止めた愚者は猜疑心に呑まれてしまうのだ。

最早信じられるのは己の判断のみ──

──そう謳われる第八層であっても絶対の真実は存在する。

それは“赤髪の山羊だけは敵に回すな”という訓戒だ。

疑り深い第八層の住民がこの言葉に嘘偽りがないと気づくまでに

どれだけの犠牲を擁したかは想像に難くないだろう。

ともかく、その山羊は第八層において畏怖の対象、あるいは英雄スターなのである。


さて、閑話休題。話は薄暗くて窮屈な事務所の社長室に戻る。

爪弾きは依然として鳴り止まず、むしろ秒毎にごとにリズムが詰まっていく。

無音の隙間を足早に埋め立てていくそれは演奏者──

ヨハン・ゲオルグ・ファウストの感情を強く強く映し出している。

奏者が猫のように背を丸め顔をしかめて睨む先にはPCのモニターが佇んでいる。

そこにはこの事務所を拠点とした債権回収代行会社『Be Right Back(通称BRB)』の

今月の収支・その理由を記録した小規模の収支計算表がひとつ。

彼の抱える問題は見栄えのために結合されたセル?

それとも最新版を見失いかねないファイル名?

いや、どちらも違う。もっと深刻かつ手遅れなものだ。

そう…………比較差額の最終段に鎮座するその姿は

正しくゲームのラスボスに相応しい。

旧式のデータから更新し忘れただけならどれほど喜ばしいことか。

データの参照先を間違えただけならどれほど幸せだったことか。

そんな声涙ともに下る慟哭も虚しく────計算式は無慈悲にも

▲100,000ラスボス”の解を赤く染めあげる。

BRBの社長たるファウストにとってこの赤字は大きなストレス源だ。

しかし彼が苛立ちを奏でるために採った楽譜はこのPCモニターだけではない。

卓上に置かれているわずか5.5inchインチの箱にあらゆる技術を詰めこんだ

現代におけるインフラストラクチャー(要するにただのスマホ)もまた

助奏の旋律を記している。

────ピコン。

拍子も強弱もぐちゃぐちゃなある意味情緒あふれる楽曲に

高く軽快な通知音が割り込んでくる。

その音に気付いた彼はリズムを刻むのを止め、

次いで重苦しい動きで地獄色に染ったスマホを手に取る。

スマホのロック画面には既に触れられないまま放置された通知が

幾重にも層を成していた。

その一番上はメッセージアプリからの通知であり、

シルクハットのアイコンと“よろしくね”との

文言がひとつ。

これを見たファウストは既読もつけずにスマホを投げ、

机にぶつかるように崩れ落ちていく。

狭く暗い室内にはヤギの鳴き声にも近しい重厚なため息が響いていた。


暫くの時。ファウストが長い長いため息の末にむくりと起き上がる。

次いで苛立ちをぶつけるようにデスクの背板を蹴り、

革張りの椅子に体重を押し付けてきた。直ぐに背もたれの悲鳴が室内を跳ね回る。

しかし彼は気にも留めず、両手を組むと天井に向けてぐいっと伸ばした。

短く垂れた山羊の耳が頭上の指先に沿うように小刻みに震えながら上向いていく。

ほんのりと色を帯びた吐息ひとつ。

同時に伸びた腕はゆっくりと降ろされ、つられた耳は

余韻を堪能しながら床の方へと下がっていく。彼はマウスに触れると

計算表の収入部分にある雑収入の項目を選択し、慣れた手つきで

元ある数値を消して“200,000”と上書きする。そして比較差額の赤字が

0に変化したのを見届けた彼は机を支えに夢遊病者のように立ち上がり、

そこに無いなにかを取り出すように左手を振るった。

刹那。

椅子の背もたれにかけられていたコートの真っ赤な裏地から

同じ色の粒子が舞い上がる。粒子はただの梱包材であり、

弾むように中身を彼の左手へと届けたのだ。

中身はドス黒い支柱に銀製の石突が輝く杖。杖の持ち手部分である

グリップの部分には太く真っ直ぐ後ろにカーブした山羊の頭蓋骨が嵌められており、

角の片方は所有者に生えている角(と性格)のように歪に折れて曲がっている。

彼は落ちていく杖に目をやることもなく掴んだ。そのまま慣れた様子で

背もたれにあるコートをとって袖を通してボタンを留める。そのまま曲がった背中を天井から吊るされたように真っすぐになるよう正し、部屋を出て行った。


***

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