月の反対側
as
蚊遣火
憂い舞う 夜にたなびく 蚊遣かな
彼女は迎えが来るのを待っている。
帰るべき場所に、いつかここから連れ去ってくれる人を。
*
部長Mのある休日の話。
パスタを茹でている間、モーツァルトのCDを流していた。
カラヤン指揮のレクイエムK.626。
俺だって貴重な休日を、仕事の電話を気を揉みながら待つのは気が進まない。
年季の入ったCDプレイヤーから非日常的な流れる音と、パスタを茹でるありふれた行為のミスマッチ。
茹で上がった麺をシンクで湯切りする。湯気で眼鏡が曇ったので外してレンズを拭く。
ちょうどその時、チノパンツのヒップポケットに入れていたiPhoneが振動した。
不愉快なことは早めに終わらせるべく3回目の振動が始まる前に電話を取る。
得意先が指定した日曜日の午後イチ納品は滞りなく進み、予定通り週明けに検品作業がある旨報告を受ける。
できるだけ最小限の言葉で対応して終話ボタンを押す。
出来合いのパスタ・ソースをストッカーから適当に選んで、少し伸びてしまったパスタに絡める。
インスタントコーヒーにお湯で溶かし、氷を入れてアイスコーヒーをつくる。
パスタとアイスコーヒーをダイニングまで運んで、リモコンで液晶TVの電源をつける。
それらの動作は無駄がなくシステマティックに行われた。まるで外科医が手術を手際よくこなすように。
くだらないワイドショウやショッピング番組が騒がしいだけだったのですぐにTVの電源を切った。
あまり味わうことなくパスタを咀嚼してアイスコーヒーで流し込んだ。
気分転換にドライブに行くことにしよう。
皿とコップをシンクに置いた。帰ってきてから洗えばいい。
家族に簡単な書き置きをすると、コートを手に取ってガレージへと向かった。
*
ハイウェイに乗ってSAでホットコーヒーを注文した頃には夕日が沈もうとしていた。
適当なICで降りて下道を走ることにしよう。
カーステレオから流れるのはジャコ・パストリアスの天賦の才がほとばしるベースライン。
山間部は帷が降りていて、ハイビームに切り替えながら走らなければならなかった。
一人の時間を満喫できるのはかけがえのないストレス解消の時間だ。
会社では部下に対する上司。家庭では妻子にとっての夫であり父親。何かしらの役割を演じさせられる。
鼻歌混じりにカーブを曲がった先は通行止めだった。
生気のない笑顔をたたえた交通整理の無機質な人形が無言で左右に腕を振り続けている。闇夜にヘッドライトで照らし出されて薄気味が悪かった。
未舗装の道路を迂回しないと国道に出られない。悪態をつく。
マツダCX-5を駆って砂利道を登る。ロジウム・ホワイトの塗装に傷が入らないように細心の注意を払った。
パストリアスの演奏は止まっている。CDを取り替えるのも億劫だった。
道路の左右には木々が鬱蒼と生い茂っており、夜空よりも深い漆黒に塗り固められていた。街灯はなくヘッドライトだけが頼り。平衡感覚がおかしくなりそうだ。
唐突に道が開けて、高台に出た。眼下には集落が広がっていた。
古い木造の平屋がいくつか並び、やぐらのようなものが立っている。微かにお囃子が聞こえる。
こんな夜更けにお祭りの予行練習だろうか?
詰所のようなところにちらちらと明かりが見える。
このあたりは土地勘もないし、ナビは先ほどから同じ位置を示したままローディングを続けている。
携帯は当然のように圏外。呆れるほどよくある展開。
国道に抜けられる道はあるかどうか尋ねてみるか。
路傍に車を停めて小走りで詰所まで向かう。
「すみません、道が通行止めで。迂回して国道に出たいんですけど、どっちですかね?」
老爺に尋ねる。じっくりと年輪を重ねた柳の木のような佇まいだ。
ゆっくりとこちらに顔をあげて「ここからはどこへも抜けられないよ」とだけ言った。
道を聞いてるだけなのに。無愛想なジジイだな。
「そうですか。この辺りの地図でもあればありがたいのだが」
尚もジジイはこちらをじっと見たままだ。
ふと来た道を振り返ってみると、通りすぎた時は気がつかなかった道祖神のようなものが目に入った。
暗くてよく見えないが、体格的にそれは男女一組のようで男の方は首から上がなかった。
続いて異様な光景が目に入ってきた。
白無垢と綿帽子を纏っている女性。
無言の男たちが神輿のようなものでその女性を担ぎ、ゆっくりとやぐらの方へ向かっている。
男たちの違和感を際立たせたのは、皆真っ黒な着物を死装束と同じ左前に羽織っていたことだ。
まっしろに女性が浮かんで見えるような光景は、異様ではあるがどこか儚く美しいと感じた。
その光景に釘付けになっていると、女性がこちらへゆっくりと顔を向けた。
顔は面が被せられて見ることはできなかった。
その瞬間、この女性に会うためにこの世に生まれてきたのだという啓示にも似た直感が全身を貫いた。
そういえば、皿とコップをシンクに置きっぱなしだ。洗ってくればよかった。
俺は今どうして洗い物のことなんて気にしているのだろう?
「あんた、この集落から抜ける道なんてないんだから、さっさと来た道帰んな」
突然のジジイの声に飛び上がりそうになる。
金縛りにあったかのように目の前の光景に釘付けになっていたが、ジジイの声で我に返った。
白と黒の行進は何事もなかったように続いている。
「あぁ、ありがとう。せっかくの観光だけどもう帰るよ」
無理やり軽口を叩いてCX-5に戻りシートベルトを締める。
来た道に戻るにはバックで進むしかない。
バックカメラのモニタは暗闇ではほとんど役に立たない。振り返って車を後ろへ走らせた。
振り返らず前を向いているままの方が難しいことが、ときにはある。
*
けっきょく、適当に車を走らせていたら通行止めは終わっていたらしくあっけなく国道へ出た。
目に入ったセブンイレブンの駐車場に停車した。
冷蔵庫でエビアンのボトルを取って、レジでセブンスターの番号を告げる。
水を一気に半分飲み干したあと一服する。
店内の明かりが場違いなほど煌々と駐車場を照らしている。
さきほどの光景が脳裏に焼きついていて、生活感のある風景が逆に現実味がない。
落ち着いてきた頭で、電波の戻ったiPhoneのGoogleマップを開く。
おかしいな。この辺りに集落はおろか、林道さえない。
通行止めから分かれた道は数メートル先で行き止まりになっている。いったいどういうことだ。
考えるほど訳がわからなく、狐につままれたような気分だ。
現実離れした時間の中で唯一、心に引っかかって残っていたのは真っ白な晴れ着姿の女性だ。
彼女は誰かが自分を迎えにきてくれるのを待っていた。
その誰かは俺のことだったのかもしれない。
そんな確信に近い漠然とした喪失感だけが残されていた。
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