王子と公爵令嬢を婚約破棄させたおじいさん

マルジン

王子と公爵令嬢を婚約破棄させたおじいさん

王国騎士団第35代騎士団長兼、魔導大隊隊長兼、魔導の塔初代塔長兼(以下略)。

レーン川流域の治水工事を50年かけて成し遂げたのはあまりにも有名であり(以下略)。


とにかくスゴイ人、ボンヤー・ハミルトンは惜しまれつつも、中央政治から身を引くこととなった。


「長きにわたり苦労をかけた」


所は謁見の間。名だたる諸侯に囲まれる中、陛下のお言葉を賜った。


先王、そして国王からは何度も感謝を頂いた。

名家の当主や、外国の貴族からもたくさんの褒美を頂いた。


けれど終りを迎えた今、国王の言葉は身にしみる。


老骨であっても、恐悦に体が震えた。


「国のため陛下のため。良き思い出と感謝しかございませぬ」


齢70に差し掛かり、体の衰えには抗えない。

ここまで登用していただけたこと、居場所をくれたことには、この上ない感謝であった。


「うむ。ところでボンヤーよ」


「はっ」


「婚約の披露目には出るのであろう?」


「……無役でございますが、よろしいのですか?」


「当然だ。というか、出てくれ。息子の婚約にも箔が付くからな」


これだけの面々が一同に会するのは、明日に控える、ベルモンド王子の婚約式があるからだ。


私の退任式など、ただの

だが、わざわざ集まっていただいたのも事実であるし、盛大な式を国王自ら主催してくれたこともまた事実。


断れるはずもないだろう。


ほのぼのとした余生は、明後日から楽しめばいいのだ。


「そのお誘い、謹んでお受けいたします」


こうして私は、婚約お披露目会のため、王城で一夜を過ごすこととなった。





メイドに案内されたのは、上等な部屋であった。

天蓋付きのベッドに、広々としたリビング。

テーブルの上には葡萄酒と果物、それから呼び鈴まで。


「ご入用でしたら、呼び鈴を振ってくださいませ」


「うむ」


貴族には当たり前の光景なのかもしれないが、私にはいささか不相応なもてなしだ。


過分すぎる、という意味でな。



……うむ、と返事はしたはずだが。


メイドがそばに控えているのはなぜだろう。

チラリと視線を送ると、ニコリと笑顔を向けられた。


……どういう意味なのだ?


よく分からんが、とにかく部屋へ入ろうか。


扉を閉めようと手を伸ばしたら、スッと扉が閉められた。


どうやら、扉を閉めるためだけに、立ち尽くしていたらしい。


私が無知なばかりに、申し訳ないことをしたな。

貴重な時間を無駄にさせてしまった。


だがまた扉を開いて呼び止めるのも気が引けるな。


……もてなされる側も、なかなかに難しいものだ。



ボンヤーは椅子に腰掛け、ワインを睨む。

下戸で有名なボンヤーであったが、実は酒が大好きで、周りからの勧めを断るために、下戸だと嘘をついていた。


だから逡巡していた。このワイン飲むか飲まざるべきか。

一本空けたとて、大して酔いもしないのだが、明日に万一があってはいけない。

それに……。


「ぼどほどにね」


亡き妻の言葉が思い出される。


たしかあれは、若い頃。40年近く前になるか。

フラフラに酔っての帰り道、どこかに頭をぶつけてしまった。

そのまま家に入ると、血相を変えた妻に怒られたのだったな。


暴漢にでも襲われたらどうするの?だとか、打ち所が悪く死んだら?だとか。

すべて笑って流していたら、顔を背けながら言っていた。


「ひとり残された私は、どうしたらいいのですか」とな。


結局残されてしまったのは、私の方だ。

一体どうしたらいいのかね、答えぬまま逝ってしまいおって。


ボンヤーは小さく笑い、すくっと立ち上がった。


豪奢な部屋ではあるが、ワイン以外に興味をそそられるものはひとつもない。

いや、正確に言えばベッドぐらいか。


この部屋で唯一と言える、安息の場だ。


ボフンッとベッドに腰掛け、ブーツを紐に手をかけると、廊下の方から足音がした。


気にしないでおこうと思ったが、ブツブツと話し声がする。


しかも扉の前で。


ボンヤーは声の方を見つめて迷う。

このまま知らんぷりをしたほうが良いのだろうか。

大事な話であれば、官職を離れた私が聞くわけにもいかん。

やはり、私がいることを知らせてあげたほうがいいのか?


眉間にシワを作って悩んでいると、声が克明になり、生々しい会話になっていく。


「婚約を破棄すると怒鳴り散らしているそうだ」


「あの王子が?珍しいこともあるもんだ。もしも破棄したらどうなるんだろうな」


「そりゃあ、国がぐちゃぐちゃになるんじゃないか?」


ついさっきまで、中央政界に身をおいていたボンヤーだから、扉の向こうから漏れ聞こえる会話が、何を意味するのか、ハッキリと理解していた。


諸侯は権力拡大のため派閥作りに奔走し、その憂き目にあったのが、国だ。

物理的な争いはないものの、通商や利権の確保で、ギスギスしているのは間違いない。

それを解消するために、国ないし国王は幾度となく仲裁し、幾度となく難局を乗り越えてきた。


そして明日、バーバトン公爵家の一人娘エリーゼと、次期国王であるベルモンド王子が婚約する。

王家に次いで、最も強い権力を持ち、派閥争いから距離を置いていたバーバトン公爵家と結ぶことで、諸侯たちの争いに終止符を打つ事が出来るはずであった。


のだが……婚約破棄とな。


「政略結婚は嫌だとか、真に好いた女がいいだとか、挙げ句、顔が悪いとまで言い始めたのだ」


「真に好いた女だと?王子の部屋には……ああ!最近はやたら、娼婦をあげていたな。いやでも、娼婦はさすがにないだろう?」 


「……いや娼婦だ。それも年増の」


「……アッチの方が相当だったのか。うーむ、ところで公爵令嬢の顔は悪いのか?」


「いいや、美人だ。絵を見たぞ、チラリと」


「チラリとねえ。絵は当てにならんぞ、絵師は金のために数倍よく描くからな」


「……はあ、どうなるのかねこの国は」


私も同感だ。

客室の前で王子の陰口を叩くとは。

ボンヤーはため息混じりに立ち上がり、容赦なく扉を開けた。


「ボボボ、ボンヤー様!?」


当然ながら、噂話をする男どもは驚く。


突然出てきたのが、誰もが知る救国の大英雄、ボンヤーだったのだから。


「陰口とは感心しないぞ。しかも客室の前でとは」


ウエストコートに、側章の入ったパンツはいいとして、ジャケットもなければ、シャツのボタンも外れている。

王城の使用人でありながら、客前で休憩とは……ヒドイな。


ボンヤーがキツイ視線を向けると、彼らは青ざめた顔で生唾を飲み込んだ。


ここでボンヤーは、ハッとする。

自分がただの一般市民で、招かれたひとりの客であることを。


ごまかすように眉間をさすり、軽く笑みを浮かべて取り繕った。


「すまない、私はただの客であった。君らに注意する権利もないな」


困った笑みを浮かべながらも、ボンヤーは素直に謝罪した。


しかしそれは、彼らにとって叱責も同じ。


「も、申し訳ございません。我々が至らぬばかりに……」


「なんてことをしてしまったのだ。英雄殿に頭を下げさせるなんて」


この国では知らぬ者がいない、伝説の人物。

会えただけでも奇跡であるのに、気を使わせた上に、頭を下げさせてしまった。

すべて自分たちの失態が原因だというのに……。


ボンヤーの意図とは裏腹に、彼らはさらに萎縮してしまう。


困ったなあと頭をかきながら、どうしたら気を落とさずに帰ってくれるかと思案していると、廊下の奥から走ってくる女の姿があった。


「ゲッ、なぜここに」


使用人のひとりが、苦々しく顔を歪めた。

ボンヤーは、説明を求める意味で視線を向ける。


「……王子のお気に入りです」


「なるほど、娼婦か」


「はい」


客室があるこのフロアは、ボンヤーもあまり馴染みがない。だから彼女がこちらに走る意味がよく分からなかった。

出口に向かっているのか、それとも使用人に用があるのか。


足音鈍くダダダと走ってきた女は、なぜかボンヤーの前で立ち止まった。


肩で息をしながら、膝をつくと、潤んだ目でボンヤーを見上げた。


「助けてください、ボンヤー様!」


「……まず、誰だね君は」


まったくの初対面であった。

それも当然、ボンヤーは飲む打つ買うをしない男だ。

娼婦と関わりを持ったことはないし、彼女の職業関係なく、どこかで出会った覚えもない。


そう、ボンヤーは知らない。

だけど、ボンヤーのことを、みんなは知っている。


「そんなことよりも、さっき王子から結婚しろと、突然言われたんです。どこかの貴族令嬢と結婚するのが嫌だからと。お願いします、貴族のゴタゴタで殺されたくないんです。どうかどうか!」


「いや、え?」


その娼婦は、人目もはばからず床に額を擦り付けた。

よっぽど王子と結婚したくないらしい。


というか、王子が娼婦に求婚していたことが驚きだ。


事態の深刻さを感じ始めたボンヤーは、難しい顔をして言った。


「私の部屋で待っていなさい。後で話を聞くとしよう。ああそれと、君たちは仕事に戻りなさい」


ほっとけない性分のボンヤーは、やれやれと首を振った。

もう政治や行政から離れたはずなのに、これから王子のもとへ向かおうとしているのだ。

一体なんのために職を辞したのか分からない。

ただ、ほのぼのと暮らしたかっただけなのに、どうしてこうなるのやら。


自嘲気味に王子の部屋へと向かうのであった。





コンコン――。


「なんだ!」


いきなりの怒号に面食らったが、臆することなく名乗り上げた。


「ボンヤー・ハミルトンです、殿下、入ってもよろしいですかな?」


中からの返事はなく、首を傾げていると、ガチャリと扉が開いた。

そこにいたのは、ナイトガウンを羽織った王子であった。


「怒鳴ってすまない。入ってくれ」


「失礼します」


気は立っているが、理性まで失ったわけではなさそうだ。

話すら聞けない状態であったらと心配していたが、杞憂であったことに安堵した。

それで、座れと勧められたのは……。


「なぜベッドなのです」


なぜかベッドであった。

そして、王子は語り始めた。

ボンヤーの質問はまるでなかったかのように。


「婚約のことで来たのだろうが、俺は意志を曲げないぞ。エリーゼには悪いが、婚約は破棄する」


彼の意志は固かった。

その表情からも読み取れるほどに、揺るぎないものであった。


だからこそ、ボンヤーは疑問に思う。

娼婦とただ、だけならば、婚約後も呼び続ければいいだけのこと。

もしくは妾にするという手もある。

そこにエリーゼの気持は含まれていないのが、不確定な要素ではあるが、王子の権限でやりようはいくらでもあるのだ。

それなのになぜ……。


「わざわざ婚約を破棄する理由が分かりませぬ。国内が難しいことも、この婚約が必要なことも理解しておいででしょう?どうしてなのです」


「……俺のワガママだ。許せよボンヤー」


そう言った王子の表情に、わずかなほころびを見て取ったボンヤー。

意志は揺るぎないが、どこか悲しげである。


一体何が彼を駆り立てるのか。


ボンヤーの性分が、より一層のめり込ませる。


分かりました、許しますよ。

もう私は一市民ですから。

なんて言えないほどに。


「男同士、腹を割って話しませぬか?」


「……ならん」


大英雄たるボンヤーに「男同士」と言われて、にべもなく断れるのは、王子か国王ぐらいのものだろう。


そして、男同士の秘密であると約束しても、安安と答えられないほどに、重い理由があるということでもある。


腹を割ると言った者から語るべきか。


「いつぞや、妻に言われましてな」


それならばと、ボンヤーは語りだした。

いつぞやに失った、最愛の妻との思い出を。




「優しいのねボンヤーは」


「はあ」


出会ったのは、騎士団で働き数年後。

王都にやって来た彼女の車列を護衛していた時に、初めて話した。


彼女の靴についていた泥を払った事がきっかけで。


男爵家のご令嬢であった彼女は、聡明で愉快な人だった。

よく笑い、よく喋る、ボンヤーとは正反対の性格。

だからなのか、ボンヤーは強く惹かれた。

目が眩む眩しい太陽を、誰しもが求めるように、自然なことだったのかもしれない。


けれどすべてが上手くいくはずもなく。

貴族と騎士が、結ばれる道理はどこにもない。

力なく、金もなく、権力も何も持たない騎士に、貴族家が嫁がせたいと思うはずもない。


だからボンヤーは、死ぬほど働き、死ぬほど学を積み、死ぬほど邁進した。

おおよそ10年、ボンヤーは孤独に上を目指した。


彼女が誰かに嫁いだという話を聞いても、彼女が子を流したと聞いても、ただひたすらに上を目指した。


たったひとつの言葉を信じて。


「きっと待ってるから。ボンヤーが拐いに来てくれるまで」


そしてボンヤーが騎士団長補に就任した日、とある貴族家の扉を叩いた。


「今はなき、カルシャッハ家か」


「私が潰したと言っても過言ではありません」


「……ボンヤーが奪った女性は、それほどに優秀であったということだ。それで?お前の生涯は誰もが知っているぞ。結局何が言いたい」


「今はムリであっても、いつか手が届くと言いたかっただけですな」


「……俺が王子だと忘れたのか。届かぬものなど、太陽以外にないわ」


「エリーゼ殿が太陽なのでは?」


「なに?」


「結婚したくないからと、娼婦に求婚したそうですな。それもついさっき。

婚約の話は何年も前から聞かされてきたはずなのに、今になって翻すとは、いささか理解に苦しみますな。

得心のいく理由を考えれば、エリーゼ殿のためを思って……なのではないかなと、まあ、なんとなくですな」


「……」


ベルモンドは、バカでワガママな王子、ではない。

思慮深く、そして頭も切れる男だ。

娼婦にかまけるなどらしくもない。


使用人たちの会話から察するに、最近、娼婦を買うようになったのだろう。


つまり、婚約のお披露目が近くなり、娼婦を買うようになった。


そして今日、強引に娼婦へと求婚した。


さてそれはなぜか。


ボンヤーは黙り込むベルモンドを見て、確信を深めた。


乱れのない髪、汗も脂もないすべすべした肌、丁寧に整えられたベッド。

呼び鈴もなく、この部屋の近くには、騎士も使用人もいなかった。


さてなぜか。


娼婦を買った割には、随分となものだ。

使用人も騎士もいないのに、ベッドを整え着替えまで済ませたのだろうか。

王子自ら?


あえて、使用人と騎士を下がらせ、娼婦を招き入れた。

中の音を聞かせずに済むように。

なにもしていないと、悟らせないように。

ボンヤーには、そう思えて仕方なかった。


そんな回りくどいことをする理由はひとつ。


婚約を破棄する、理由が欲しかったからだ。

しかも、自分が悪役になるように。


「優しいですな、ベルモンド様は」


「……」


「この老骨に話されよ。魔導の塔の大賢者でもあるのですぞ?必ずやお役に立ちましょうぞ」


ベルモンドは俯きがちにただ頷いた。

彼自身も、本当は話したかったのだ。

苦しい胸の内を押し隠し、孤独に耐えて戦うのは、あまりにも辛すぎた。


だが、意地がある。

プライドも、男としての覚悟も。


だから頷いて、口を結ぶしかできないのだ。

ひとたび口を開いては、すべてを打ち明けてしまいそうで。

ただ頷いて、時が過ぎ去ればいいなと思っていた。


「そうまでしても話せぬというのですか、ベルモンド様」


しかし心は正直だった。

10余年もの長き時を、ただひとりで上り続けたこの男にならばと、荒んだ心は悲鳴を上げた。


ポロポロとこぼれる涙となって。


「……俺はどうしたらいいのだ」


ポツリと呟いたベルモンドに、ボンヤーはニコリと笑った。


「すべて、私に託せばよいのです。万事まとめてみせましょう」





ボンヤーは王子の部屋を出て、まっすぐに自室へと戻った。

波乱を迎えるであろう明日を控えて、早く眠りにつきたかったのだ。


ガチャリ――。


扉を開けると、そこには女の影があった。

椅子に腰掛け、器に盛られた果実を食べる、娼婦がいた。


「……あっ、すみません。お腹が空いていたもので」


悪びれもせず、娼婦は頬を膨らませていた。

そういえば、部屋にいるよう言い含めたのは自分であったと気づき、ボンヤーは呆けながら扉を閉めた。


「もう帰って良いぞ。求婚の件は忘れよ」


空っぽになった器を眺めながら、チラリとワインボトルに目をやる。

さすがに酒を飲み干すほど、無作法ではないようで、少しばかりホッとした。


「そうですか、ありがとうございました。それでは……」


そう言って立ち上がった娼婦は、ピタリと動きを止めて、何か言いたそうにしている。


「なにかね?」


ボンヤーが尋ねると、我が意を得たりとばかりに、娼婦は話し始めた。

恐らく、ずっと言いたかったのだろう。

でも王子に口止めをされて言えなかったことを、ペラペラと、それはもう饒舌に。


「ああ知っている」


王子は手を出すどころか、ほとんど話もしないのに、金だけをくれたと、それはもう細かな情景描写と感情の揺れ動きまで事細かに説明してくれた。


ボンヤーが、王子の秘密を知る者だと、確信してのことだ。


しかし、これはあまりよろしくない。


「よそで話すでないぞ?命だけでは済まんからな」


だから釘を差しておいた。

娼婦は何度も頷き、何度も頭を下げていたから、問題はないだろう。


そうしてようやく、玄関に向かう娼婦を見送り、やっと眠りにつけると思ったが、またもや立ち止まった。


振り返った彼女の顔には、びっしりと刻み込まれているではないか。


話したいことがありますと。


ボンヤーは大きくため息をついて、言葉を促した。


「5日前のことです。ベルモンド様の部屋から出る時に、とあるお貴族様とすれ違いまして。ああ、男性ですよ?そしたら聞こえちゃったんです」


「……聞き耳を立てたの間違いではなくか?」


「いえいえ、不可抗力といいますか、聞こえてしまったんです」


「……して、何を聞いたのだ」


「エリーゼを愛している。だから婚約の件は破談にしてほしいと、そのお貴族様が」


「……それで」


「ベルモンド様は、多くを語りませんでした。その男が一方的に語りかけるばかりで。ただ最後に一言、言っていましたね。なんとかすると」


「……誰にも話すでない。よいか、これは決して口外してはならぬぞ」


「は、はい。もちろんでございます。ちょっと、お話したくなっただけでございます。ひとりで抱え込むには、なにぶん重すぎる話だったもので……。それでは、失礼致します」


ようやく娼婦は、帰っていった。


今日は、退任式を終えてすぐ帰るつもりだったのに……。

どうしてこうなってしまったのか。


どっと疲れが襲ってきて、ベッドへ力なく倒れ込んだ。


だが、簡単に眠れそうにはない。

上等な天蓋を見つめながら、娼婦の言葉を反芻した。


5日前にやって来た貴族がエリーゼと恋仲の者だろう。

そうだとすれば、5日前以前に、誰かから破談にして欲しいと頼まれたということだ。


でなければ、娼婦とその貴族がかち合うことはなかったはずだから。


その貴族が来る前から、王子は婚約を破談にする方法を考え、そして実行していた。


誰が王子に頼んだのか。


考えるだけで、胸が痛くなる。


好いた女性には別の男がいたと知り、さらには破談を求められた日、王子はひとり何を想ったのか。


ボンヤーは、その想いに馳せることはせず、そっと目を閉じた。

かつて苦しかった自分を思い出して、寝付けない気がしたから。





翌朝、退任式を行った大広間には諸侯が集い、その中にはボンヤーの姿もあった。

ベルモンド王子とバーバトン公爵家エリーゼの婚約で、国が一つになるという期待感に、広間は埋め尽くされていた。


そんな中始まったのは、国王のスピーチだ。

国の状況や、種々の問題をあげつらい、苦難と混迷の時であると力説している。

どれもこれも、この婚約によって解決するのだと、そういう論法で盛り上げるための、である。


そしていよいよ、希望のような話が出始め、ベルモンド王子とエリーゼが呼ばれた。


お似合いの二人に映ったのだろう。

諸侯の目には祝福の色が滲んでいる。


そして国王の口から、二人の名前が仰々しく呼ばれた瞬間、ボンヤーは広間の中央へと歩き出した。


「……どうしたボンヤー」


国王も、諸侯も、戸惑いを隠しきれないといった様子であった。


そんな空気の中、ボンヤーは片膝をついて声を張り上げる。


「お二人のご婚約は破棄していただきたいッ!」





それから数カ月後、バーバトン公爵家エリーゼは、とある貴族家の次男と婚約を発表した。

身籠っていることは秘されていたようだが、生まれた日から逆算して、いつできた子なのかはすぐに明らかになる。

バーバトン公爵家がひた隠しにしていたため、市井にまでは流布しなかったが、貴族の間ではコソコソと噂される種となったようだ。


だが、あくまでも噂。

当の本人たちは、まったく気にしていなかったようで、幸せな家庭を築いたようだ。



一方でベルモンド王子は、特に婚約の話も上がらず、王子としての職責全うする良き王族として、広く民に愛された。

彼の苦悩を知るものは、ボンヤー以外にはいない。

ああ、後はあの娼婦ぐらいか。



そして、婚約発表の場で婚約破棄を進言した、ボンヤー・ハミルトンは、また一つ伝説を作った。


噂というのは、人から人へ手渡されるたびにどんどんと大きくなるが、ボンヤーのこの伝説もまさにそうだ。


国を一歩衰退させた老人。

かつての大英雄も年には抗えず、広間で発狂。

王子の幸せが妬ましくての蛮行。

妻を失い、心まで失った悲しき男。


かつての大英雄、大賢者も、形無しだった。




けれどボンヤーは晴れやかであった。

何の変哲もないベッドで横になり、翌朝には魔法と向かい合う。

眠る前には、妻の入った骨壺に触れておやすみを言い、また起きて薬草を調合してみる。


ほっとけないものはしょうがない。

妻に言われた「優しいのね」が誇りなのだから、しょうがない。


コンコン――。


「お手紙でーす」


「はいはい。誰からですかな?」


「一通は、エリーゼさんから。もう一通は、王城……王城!?」


まあでも、ほどほどにが一番だ。

酒もほっとけない性分も。

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王子と公爵令嬢を婚約破棄させたおじいさん マルジン @marujinn

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