菫の花よ、咲き誇れ

華幸 まほろ

菫の花よ、咲き誇れ

第一章 似た者同士

 お母さん、と小さな声がした。ヴァイオレットが思わず振り向くと、もうもうと立ち込める土埃の中、小さな影がぼんやりと見えた。目を凝らすと、輪郭が少しはっきりした。どうやら子供のようだ。両親はすでに逃げてしまったのだろうか、周りには誰もいない。そして、後ろには獅子のような姿の魔物が迫っていた。目の端に薄い紫と淡い水色がよぎった、気がした。

「危ない!」

駆け出して、子供を胸に抱く。魔物の爪が背中に振り下ろされ―

「魔物の前に駆け出すな!死にたいのか!」

男の声がして後ろを振り返ると、目の前まで迫っていたはずの魔物の前足が弾き飛ばされている。視線を右にずらすと、澄んだ青色の馬に青年が乗っていた。男は馬を駆って持っていた剣を振り上げる。決して軽くはないだろうそれは、太陽に反射してキラリと鋭く光った。

「あ…」

乾いた音に目を向ければ、魔物は干からびたようにしぼんで消えていた。息を呑んでその光景を見守る。

「お前は馬鹿か! わざわざ魔物の前に飛び出るやつがいるか!」

ひどい言われようだとは思ったが、なぜか反論しようという気持ちがすぐに湧いて出なかった。顔が熱くなってくる。このままではいけないと感じて、ヴァイオレットは立ち上がった。

「後悔はしてません! この子を両親の元に届けますのでこれで! ありがとうございました、さようなら!」

子供を抱き、よくわからない気持ちを足に乗せてとにかく走る。皆避難所にいるはずだ。被害は出ていないのだと信じる。煉瓦の建物の残骸が、視界の端を何度も通り過ぎた。

「ごめんね、うるさくして。お父さんとお母さんは?」

子供は、未だに涙で潤んでいる瞳をヴァイオレットに向けた。ひっく、と再びしゃくり始めたのに、ヴァイオレットは内心首を傾げた。

「さっきの、まものに、く、くっくわれ、た…」

心の奥にあった怒りが増幅したのを感じた。魔物に対して自分から干渉しようとしなかった自分たちに急に干渉してきて殺戮を繰り返す魔物には昔から理不尽を感じていたが、幾度も行われる殺戮に何度も怒りを抑えきれなくなりそうだ。

「そう、なの…役所、行こっか。親戚に引き取ってもらおう。」

子供は無言で頷いた。ヴァイオレットはその悲しげな姿に、再び怒りを増幅させる。今度は怒りを足に乗せて、ヴァイオレットは速度を上げた。


 ぱちりと目を開ける。あの時の夢を見たのは、本当に久しぶりだ。

「あの人、生きてるのかな…顔も覚えてないし、会ってもわかんないか…」

ため息をついて、もぞりと起き上がる。外はまだ僅かに陽の光が指しているだけで、この寮の中で起きている人はとても少ないだろう。現に、二段ベッドの上で寝ている同室の人もそうだ。すうすうと健やかな寝息を立てて寝ている。もう一度寝てもよい時間帯だが、夢のせいで目が冴えて寝れる気もしない。仕方がないので、ベッドから降りてクローゼットに入っている隊服を手に取った。候補生とわかるように、ガーベラの刺繍が腕に施されている。頭からかぶってボタンをとめると、もうクリサンセマム魔法騎士団騎士候補生の誕生だ。今日選抜に参加するのは、カトレア王国の各地域の魔法騎士隊から集まった優秀な騎士たち百名。そして、受かるのは騎士と隊長、そして団長が見込みがあると認めた者のみ。その他は、やりたい者だけ後方支援に配属される。

「…よし。今まで教官と訓練してきたんだ、大丈夫なはず。」

声に出して言ってみる。しかし、緊張は薄くもならなかった。声に出して言ってみるとそれだけで心が引き締まると言っていたのは父だが、絶対に嘘だと確信してしまった。

『起床しなさい。一時間後には選抜が始まります。遅れてきた者は、魔法騎士団長が脱落者とみなします。』

室内に声が響く。風属性の魔法で声を届けているのだろう。ヴァイオレットは、ベッドの上でまだ健やかな寝息を立てている女性を見た。流石に同室の人が始めから脱落者として見られるのは申し訳ないので、起こすために備え付けのはしごを登る。

「起きてください。一時間後に選抜のところに行かないと、騎士団から脱落者とみなされるそうです。」

数度揺すると―さすが選抜に来ただけある―すぐにベッドから飛び降りて着替え始めた。ヴァイオレットもすぐにはしごから降りる。

「今のは、本当なの?さすが厳しいわね、魔法騎士団は。」

澄んだきれいな声が部屋に響いた。すでに着替え終わっており、僅かに眉をひそめるその女性は金髪碧眼で、肌は白磁のように白い。顔立ちも整っていた。

「綺麗だな…」

思わずヴァイオレットがつぶやくのも、無理はないだろう。女性はニコリと微笑んでヴァイオレットに握手を求めた。

「初めまして。私はジニア=ツイーディア。選抜が終わるまで、よろしくね。」

涼やかに微笑むジニアに対して、ヴァイオレットは仏頂面でおそるおそる握手に応じた。

「初めまして。僕はヴァイオレット=ラナンキュラス。よろしくお願いします。」

ヴァイオレットからするといつも通り接したつもりだったのだが、ジニアは不満だったらしい。美人だからいつもちやほやされてきたのかもしれないが、残念ながらヴァイオレットは美しいと感じていても顔に出ない。そこまで一瞬で考えて、ヴァイオレットは手を離し、部屋から出ようとドアノブに手を伸ばした。その際、諦めたようなため息が聞こえてきたのになんとも言えない気持ちになってしまうが、めげずに部屋から出た。

 訓練場に行っても、二人の近くに人がよってくることはなかった。もちろん時間には間に合っているはずだし、最後に来たというわけでもないのだが、悲しいことにジニアが美しすぎたのだ。もちろんヴァイオレットも十分美しいのだが、その背の低さと髪の毛の短さで少年だと思われている。ジニアがほとんどいない女性候補であることもその一因である。

「なんだ、あいつ。」

「姉弟なんじゃない?」

ささやき声が聞こえてくるが、もちろん事実にかすってすらない。会ったのは昨日だし、その時は自己紹介すらしていないのだ。

「孤立、したな。」

思わずつぶやく。苛立ちが募るばかりだが、喚くわけにも行かないのでただ傍観するだけだ。しばらく待っていると、白い紙の鳥がすーっと飛んで来た。燕くらいの大きさで、飛んでいる音はほぼしない。腕を出すと、鳥は降り立った。

『これから各種目を迅速にこなしてもらう。今話しているのは知っての通り君たちの肩付近にそれぞれいる、白い紙の鳥だ。魔法で作られたものだから、試験中に気にすることはない。より多くの人が受かることを期待しているよ。』

穏やかで心地よい女性の声が聞こえる。たくさんいる鳥からそれぞれ聞こえるというのがなんだか不思議な気がして、ヴァイオレットは思わず口を緩めた。 

 ヴァイオレットの始めの種目は、短距離走だった。距離は魔法騎士団でも変わらないのだな、と思ってしまう。短距離走はこの距離が大半だが、魔法騎士団ならきっとその倍はあるのではないか、と思ってしまうところは人間である。スタートの近くに、合図を出す人がゴールの近くに、タイムを出す人がそれぞれ立っていた。変なところで原始的である。しかしこれは、どうやら不正を防ぐためのものらしい。魔法で計測すると、干渉を受けることもあるのだとか。

「用意、始め!」

掛け声と同時に走り出す。風が耳元で唸る。ゴールまではすぐだった。

「ヴァイオレット=ラナンキュラス、五秒四、〇…」

どうしてそんなに声が小さいのか、とその人を見ると、瞳には驚愕が浮かんでいた。そんなに遅かったのだろうか、このタイムは故郷では一番だったのだが、と思わず不安になる。

「次の競技に行きなさい。」

すぐに立ち直ったのか、その人はヴァイオレットを促した。

 そしてヴァイオレットは、毎回記録を測る人を驚かせることとなった。小さい上に手足も細いため、握力や腕力、投擲などの力が必要なものは平均程度だが、それ以外、つまり俊敏さを競うようなものでは世界記録に匹敵、またはそれを超えてしまう記録を打ち出していた。

 すべての競技をみんなが終えた時、純白の鷲が音もなく姿を現した。気配が一切なかったので、数人が驚きの声を漏らした。

『合格者の名前を、総合記録の良かった順に読み上げます。一位、ヴァイオレット=ラナンキュラス。』

会場がどよめいた。信じられない、という声が聞こえる。ヴァイオレットは息を呑んで、ついで返事をすることを思い出した。

「はい!」

どこにいるのか、と会場が騒然となったところで、再び鳥から声が聞こえた。

『前に出てきなさい。』

ヴァイオレットは再び大きな声で返事をして、人をかき分けてすたすたと鳥の前へと向かった。鳥はそれを確認して次の名前を読み上げる。

『二位、ジニア=ツイーディア。』

先程とはまた違う意味で、会場がどよめいた。美人が良い成績を取ると、やはり皆嬉しくなるものである。静かになってから、鳥は口を開いた。

『以上、二名。』

会場が騒然とした。二名というのはあまりにも少ない。もちろん誰もいないときもあったが、それは歴史的に見ても候補者が少なかったからだ。

『ヴァイオレット=ラナンキュラスとジニア=ツイーディアには、魔法を見せてもらいます。二名とも、候補者の向う側にある鎧が見えますね?二つ並んでいて、普通の男性が装備する大きさのものです。あれを、候補者のことを傷つけることなく、全力で攻撃してください。』

二人は揃って頷いた。攻撃魔法で、銀色に光る鎧に攻撃するというのも試験のうちの一つのようだ。しかも、鎧と二人の間に整然と並んでいる大勢の候補者のことを傷つけてはいけないらしい。鎧は一人につき一つずつ。失敗は許されない。ヴァイオレットはすっと息を吸った。その表情は、相変わらず仏頂面ではあるもののこわばっていた。対照的に、ジニアは余裕そうに微笑んでいた。

「では、ヴァイオレット=ラナンキュラスさん。私が先に攻撃しても、よろしくて?」

ジニアが微笑んで聞くのに対して、ヴァイオレットは無表情で頷いた。

「炎の軌跡は空高く、その獲物へとまっすぐに!フレイム・アロウ!」

りんとした声が会場に響く。彼女の放った炎の矢は、候補者たちの頭上をまっすぐに鎧へと向かっていった。そして穴を開けて、打ち上げ花火のようにきらめいてぱっと儚く消える。静まっていた会場がその美しさに嘆息した。

「お次はどうぞ、ヴァイオレット=ラナンキュラスさん?」

ジニアの明らかに挑発を込めた言葉に、ヴァイオレットは僅かに眉をひそめた。ため息をついて鎧を見る。

「こういうのは苦手なんだが…走れ、鷹よ空を飛べ。ソコール・ミチオール。」

雀のように小さい青い鷹が、候補者の間を縫うようにパタパタと飛ぶ。嘲笑がこぼれた。

「ふん。ただの小さな鳥じゃないか。」

「子供がよく魔力の調整に使っているのをよく見かけるけれど…この程度なの?」

「俺のほうが強いぞ。」

しかし、鳥とジニアは笑わなかった。ジニアに至っては、驚愕の表情を浮かべている。鷹が、鎧にぽこんとぶつかった。その瞬間、鎧は粉砕された。会場がざわめく。あんなに小さな鷹にそんな力が秘められているとは、わからなかったのだ。

「あなた…全力でと言われましたのにどうしてそんな小さな鷹を?」

ジニアの問いかけに、ヴァイオレットは首を傾げた。なぜそんな簡単なことを聞くのか、というように。ジニアもわかっていて問いかけたようだった。おそらく、候補者たちに聞かせるために聞いたのだろう。

「なぜと言われてましても…全力でやっていてはこの会場が吹き飛んでしまいますから。これくらいでちょうどよいでしょう?」

候補者たちは、何も言えないようだった。ヴァイオレットは目を細めてその様子を見る。二人に比べて、彼らはあまりにも無知すぎた。それを競技の中で肩付近にいる鳥に見抜かれたのだろう。

『これでヴァイオレット=ラナンキュラスとジニア=ツイーディアさんとの差が候補者にもわかったはずです。この場を去り鍛錬し直すか、後方支援に配属を希望するか、完全に諦めるか。選んでください。』

鷲の言葉に、半数がこの場を去り、残りは後方支援に配属を希望しているのか肩付近の鳥に話しかけていた。その間に二人は鷲に案内されて、隊長室へ向かった。

 「あなた、意外と魔法を扱えるのね。氷属性なの?」

歩いていると、不意にジニアがヴァイオレットに話しかけた。ヴァイオレットは相変わらずの仏頂面でただ頷く。

「氷属性…きっと氷属隊ね。隊長は真面目で頭が硬いらしいから頑張ってね?」

なぜそんなに自分に構うのかわからないまま、ヴァイオレットはとりあえず再び頷いた。

 『ここに入りなさい。私はここまでです。』

二人を案内していた鷲が姿を消し、ジニアとヴァイオレットは目の前の扉を見た。ジニアはどうやらヴァイオレットに扉を開けさせたいらしく一歩下がったので、ヴァイオレットは扉に手を伸ばした。コンコン、と叩く。

「ヴァイオレット=ラナンキュラスとジニア=ツイーディアです。」

僅かに間があり、許可の言葉が聞こえたのでヴァイオレットは扉を開けた。ジニアを先に入らせ、自分は後から入り、扉を閉める。

「君がジニア=ツイーディアでそっちがヴァイオレット=ラナンキュラスだね?」

淡い紫色でさらさらの髪の男性がにこやかに聞いた。ジニアは相変わらず微笑み、ヴァイオレットは相変わらずの仏頂面で答える。

「「はい。」」

声が重なったのでジニアは驚いたようだった。しかし誰もそれを意に介せず、話を進める。

「俺はアイリス=アルストロメリア、炎属隊長だよ。よろしくね、ジニア。君は見習いとしてこれから俺のもとについてもらう。」

ジニアは一瞬目を細めてアイリスを見て、満足したのか笑顔で答えた。

「はい。よろしくお願いします。」

ヴァイオレットはその後ろにいた男性を、すでに見つけていた。なにやら気がのらないらしく、顔も暗い。隊服が青いので、おそらく氷属隊、つまりヴァイオレットの上司だろう。

「アルテミス。隠れてないでさっさと出てこないと、炎属隊団長の後ろにいるただの不審者扱いされちゃうよ?」

アイリスの言葉に、アルテミスと呼ばれた、ヴァイオレットよりも頭二つ分背が高い男性が渋々と言ったふうに前に出てきた。ヴァイオレットを見て、ホッとしたように表情を緩める。

「アルテミス=ハーデンベルギア、氷属隊長だ。ヴァイオレット=ラナンキュラス、お前は俺の管理下に入る。命令には従えよ。」

アイリスは、アルテミスの仏頂面に苦笑していた。瞳は青みがかった灰色で、髪は青色だ。顔も整っており、普通に笑っていたらもてるだろう。常に仏頂面なのかもしれない、とヴァイオレットは思った。

「はい。よろしくお願いいたします。」

ジニアも、仏頂面が二つ並んでいることに口角がわずかに上がっていることを隠せていない。

「今日は軽く実力を見せてもらうから、荷物を寮に運んで、これから渡す隊服を着て鍛錬場に来て。」

アイリスの言葉に、二人は頷いて地図と隊服を受け取った。バラが腕に刺繍されており、見習いだとわかりやすい。

 地図を眺めながら部屋を出ると、ヴァイオレットはもうここがどこなのかわからなくなってしまった。ジニアは苦笑して長い指で現在地を指し示す。

「ほら、今はここよ。まぁついていらっしゃい。私はもう道筋を把握したから。」

ヴァイオレットはこくりと頷くと、歩き出したジニアの一歩後ろをついて行った。ジニアはまさか後ろからついてくるとは思わず、歩きだしてすぐに後ろを振り向く。

「後ろにいたら、話しにくいでしょう? 隣においでなさいな。」

ヴァイオレットは少し小走りにジニアに近寄り、左側を歩き始めた。二歩分の距離に、ジニアは首を傾げる。今まで知らない人と歩くときでもその間の距離は一歩分だったので、妙に遠く感じられたのだ。

「ずいぶん遠いわね。もう少し近くてもいいのよ?」

ヴァイオレットはぴくりと肩を震わせると、ふるふると首を振った。さらに距離を空けようとするヴァイオレットを見て、ジニアは苦笑する。

「わかったわ。なにも言わないから、距離をさらに開けようとするのはやめて頂戴。他の人に迷惑よ?」

ヴァイオレットははっとして斜め後ろに下がり、再びジニアの一歩後ろを歩き始めた。どうやら二人が打ち解けるのにだいぶ時間が掛かりそうである。

 寮は、かなり大きな建物だった。形は長方形で、機能的だ。事務に回っている女性もこの建物内で過ごすので、部屋の数は女性戦闘員の数よりもだいぶ多いのだろう。真っ白な壁が汚れていないのは、誰かが掃除しているからだろうか。それとも、汚れを弾く魔法でもかかっているのだろうか。

「ここが、部屋ね。意外ときれいなのね。ヴァイオレットもそう思わない?」

ジニアが興味津々の様子で、きらきらと瞳を輝かせながらヴァイオレットに同意を求めると、ヴァイオレットも部屋を覗き込んで頷いた。窓は一つだが、二人が並んで椅子に座って外を眺めることができるくらいには大きく、二段ベッドは埃を被っていない上に布団が整っている。さらにクローゼットは二つ置いてあり、これも埃を被っていなかった。二着渡された隊服ぼ内の片方をクローゼットに掛けてもう片方を着れば、後は鍛錬場に向かうだけだ。

 地図を見つつ鍛錬場に向かうと、アイリスとアルテミスはすでに準備運動まで済ませてあるようだった。

「君たちも準備運動をしときな。」

腕を伸ばしたり、屈伸したりしながら、ジニアがふとアイリスに聞いた。

「ところで、何をするんですか?」

アイリスはニコリと笑って何も言わなかった。ジニアとアイリスも、似た者どうしである。

 「二人で、魔法も交えた模擬戦闘を行ってもらう。」

柔軟が終わってから、それを待ち構えていたようにアルテミスが言った。相変わらず仏頂面で、アイリスとは違った冷たい声音で話す。

「模擬戦闘、ですか?」

ジニアが思わずといった風に聞いた。ヴァイオレットも疑問に思っていたのだが、上官に聞くことはできなかった。それが臆せずにできるジニアは、大したものである。

「あぁ。二人の戦闘力を見るためにな。精度の高さ、魔力の量、体力、これらを総合した戦闘能力。これらを見たい。普通に戦闘してもらっていいから、合図されたら始めろ。鍛錬場全体を使ってもらって構わない。」

ジニアとヴァイオレットは、お互いをじっと見た。ジニアは笑みを消しており、ヴァイオレットに至っては無表情である。

「始め。」

アルテミスの声に、二人はすぐには動かなかった。相手の動きを読む、そのことに全力を注ぐ。始めに動いたのは、ジニアだった。小手調べだろうか、拳が突き出される。その前向きの動きを利用して、ヴァイオレットはジニアの手首を掴んで投げた。ジニアは空に放り出された瞬間にヴァイオレットの手を外し、宙で体制を立て直してすぐに蹴りを繰り出す。空気を切る音が聞こえ、ヴァイオレットはそれを紙一重で避けると、蹴りを繰り出した。宙にいるジニアをさらに宙に蹴り上げ、自らも跳ぶ。

「敵を妨げ活路をひらけ!ファイヤー・ウォール!」

炎の壁がヴァイオレットの進路を妨げる。しかし、ヴァイオレットも伊達に魔法を習っていない。

「走れ、鷹よ空を飛べ。ソコール・ミチオール。」

鳩ほどの大きさの鷹が空を飛んで壁に追突、壁は破壊されてジニアへの道を開いた。ジニアは宙にいるため、体制を変えるのは容易ではない。ヴァイオレットは、くるくると体を丸めてジニアの上まで跳び、落下とともにジニアに蹴りを繰り出した。ドン、と鈍い音が立ち、ジニアが最初に落ちる。続いて、ヴァイオレットは軽く降り立った。ジニアはうまく動けないようで、地面でうなりながらもがいていた。

「そこまで。」

アルテミスの声が聞こえて、ヴァイオレットは緊張を解いた。ジニアは痛みにまだ立ち上がれないようだ。しかしヴァイオレットの身長ではジニアを引きずってしまうため、肩を貸すことすらできない。

「ここまで魔法を使わないとは思わなかった。ヴァイオレット、回復魔法も使えるな?」

ヴァイオレットはうなずき、緩慢な動きでジニアのそばに膝をついて、手をかざした。

「雪解けの時、癒しの力。アイス・アルカディア。」

ひんやりとした、心地よい冷気がジニアを包む。ジニアの表情は次第に穏やかになり、冷気が消えた頃には自力で立とうとし始めていた。

「あなた…本当、意味がわからないわ。負けたのも治療を受けたのも初めてよ…」

年上であり、故郷では負けなしであったジニアにすらそう言わしめるヴァイオレットは、まさに規格外なのだろう。

「ラナンキュラス、俺と模擬戦をしろ。あまり消耗していないんだろう。」

ヴァイオレットは、アルテミスの瞳をじっと見た。アルテミスはそれに僅かにうろたえる。短い沈黙が降りて、ジニアとアイリスはゴクリとつばを飲んだ。

「了解しました。」

やっと伝えられた返答に、ほっと息をついたのはジニアか、アイリスか。

 「始め。」

その声に、ヴァイオレットもアルテミスもしばらく相手の動きを読もうとしていた。しかしアルテミスはいくらか苦労しているようだ。感情が表情に出ず、体が小さいゆえに初動も小さいヴァイオレットの動きは読みにくいのだろう。先に動いたのは、やはりヴァイオレットだった。足払いをかけようとして、姿勢はだいぶ低く保たれている。アルテミスは、ヴァイオレットから見て左に避けた。しかしヴァイオレットはそれを見越していたかのように右足から左足に軸を変えて、アルテミスに足払いをかける。アルテミスは慣れた様子で跳んでそれを避け、さらにヴァイオレットの上に降り立とうとした。しかしヴァイオレットは一瞬で距離を取る。

「戦場を疾く駆け巡れ、血の滴る獲物はすぐそこに。グレイシャル・ウォルフ。」

詠唱に、蒼い狼がアルテミスに向かってかけていく。アルテミスもそれに対して魔法を放つ。

「すべてが凍る、銀世界。氷の精よ、静寂を。アイス・シュティレ。」

狼に罅が入り、砕け散った。氷の結晶が宙を舞い、一瞬視界が悪くなる。アルテミスは表情を僅かに歪めた。この戦いで視界が悪くなるのは相手に再び先手を許すこととなる。

「手加減は無用、か。」

つぶやきに、距離を詰めようとしていたヴァイオレットは目を見開いて距離を取った。

「戦地を駆け巡るは氷の友。リエス・パートナー。」

アルテミスの隣に、大きな馬が現れた。その体は青く、氷河を連想させる。

「あれは魔物じゃないが、今は敵とみなす。いくぞ、ケルレウス!」

向かってくるアルテミスに、ヴァイオレットはため息をついた。そして彼女も詠唱する。

「戦地を駆け巡るは、魂の友。ソウル・パートナー。」

ヴァイオレットの隣に、馬が現れた。普通の馬よりも小柄で、氷のように半透明である。

「初めまして。よろしくお願いします。今は親交を深めるよりも、戦闘に集中しましょう。」

ひらりと飛び乗り、手綱を使わずに足だけで上手に馬を操る。大きな弧を描きながら、再び相手の動きを読み合う。始めに動いたのは、今度もヴァイオレットだった。

「軌跡は光り、結晶と散る。ミチオール・ストレーラ。」

手の中に現れた氷の弓矢をすっと引き、放った。アルテミスは避けようとするが、その速度に間に合わない。矢はとん、とアルテミスに当たり、落馬させて消え去った。ヴァイオレットはその様子を見るために馬から降りた。肩が上下しており、疲労の色は濃い。

「まじか…ラナンキュラスは馬も作れるのか。名前は?」

アルテミスも起き上がり、その答えを聞こうとする。しかしアイリスの問いに、ヴァイオレットは首を傾げた。

「名前、ですか?考えていませんでした。なにせ今初めて作ったので。」

アイリスの動きが固まった。アルテミスも呆れて空を仰ぐ。彼らの反応を気にせずに、ヴァイオレットは馬を消した。

「あの、変なこと言いましたか…?」

ため息が後ろから聞こえて、ヴァイオレットは振り返った。ジニアが手で額を抑えていた。

「あの馬、初めてで作れる精度じゃないのよ。あなたの魔法の精度はもうわかったわ…多分、この場の誰よりも精度がいいってことがね。」

ヴァイオレットはぽかんとしていた。不意に褒められて照れているのが半分、驚いて声が出ないのが半分だ。

「アイリス。新人がここまで魔法の精度がいいのは初めてだな。それと、馬を作れる見習いは今までいたか?」

アイリスは驚きのあまり、無言で首を振った。未だに驚きから立ち直れなさそうなので、アルテミスは二人に指示を送った。

「今日は寮に戻って体を休めておけ。明日からは訓練が始まる。ラナンキュラスには魔力の精度に対して体力が足りない。そこを徹底的に強化する。」

ヴァイオレットは、嫌な予感にぶるりと身を震わせた。はい、とつぶやくように返事をして、ジニアの後を追う。

「ちょっと待て。」

アルテミスに声をかけられ、ヴァイオレットは振り向いた。アイリスも慌てているように見える。

「なんでしょう。」

話しは終わったはずなのになぜ呼び止められたのかわからず、ヴァイオレットは首を傾げた。アルテミスはムッとしたようで、僅かに眉をひそめていた。

「お前はなぜ女子寮に行こうとする。男子寮は反対側だ。」

ヴァイオレットは目を瞬いた。なぜそんなことを言われるのかわからなかったからだ。

「なぜ、と言われましても、僕の寮はこちらでしょう。」

アルテミスは理解不能という顔でヴァイオレットを見た。

「だからそっちは女子寮と言っているだろうが。」

ヴァイオレットも理解不能という顔でアルテミスを見る。

「ですから僕の寮はこちらです。」

アイリスはやっと理解したらしく、吹き出すのをこらえていた。ジニアもその様子を見て事態を飲み込んだしたらしいが、会話している当の本人たちは気づいていない。

「お前は男だろう。男は男子寮に入るべきだ。」

ヴァイオレットはアルテミスの言っていることが本当に分からなくなり、つぶやいた。

「僕は女ですが。」

アルテミスは驚愕のあまり固まった。アイリスとジニアは、笑いをこらえきれなくなって吹き出し、爆笑している。ジニアはもちろん、上品に笑っている。

「もう寮に帰ってもよろしいでしょうか。」

ヴァイオレットの不機嫌な問いに、アルテミスは無言で頷いた。完全に上の空で、今なら何を言っても許可されそうだ。

「では、失礼します。」

軽く頭を下げて、ヴァイオレットはスタスタと寮に向かい始めた。ジニアも未だに笑いながらそれについていく。二人の姿が見えなくなってから、アイリスはアルテミスの肩に手をおいた。

「それ、一番間違えちゃだめなやつだよ。」

アルテミスは、その言葉にとどめを刺されてその場に座り込んだ。アイリスはしばらく経っても動かないアルテミスを担ぎ、寮へと運んでいった。

 その姿が噂になったのは、また別の話である。



第二章 鍛錬

 隊服に腕を通して、ヴァイオレットは目を閉じた。今まで憧れに憧れていた魔法騎士団に、彼女はやっと入ることができたのだ。

「よし。」

目の前の姿見には、青い隊服をぴしっと着た少女が映っている。どうやら女ではなく男に見えるらしい、というのは昨日知ったばかりだ。もちろん初めは不機嫌になったが、今考えてみればたしかにそのとおりだ。声は低めで、普段話すときは敬語、砕けた物言いのときは男のような言葉遣い。そして、個人的には認めたくはないが胸は世間的に見れば、いわゆるツルペタ。女として悲しすぎるが、それでもこれが真実なのだ。

「これが真実だ…そう、真実だ。」

悲しいかな、信じたくないことが真実なのだと気づいた時にはすでに、相談できる相手はいなかった。

「何を言っているの?これからよ、女は。あなた何歳なの?」

後ろから金髪碧眼のとてもきれいで女としてとても羨ましいジニアが現れた。ヴァイオレットは羨望の視線を鏡越しに送りつつ、ボソリと答えた。

「十五。」

愛想のないその言葉に、ジニアは目を見開いた。そしてはぁっとため息をつく。ヴァイオレットはなぜジニアがため息をついたのかわからず、首を傾げた。

「その歳で、あの魔法の精度…?体力がないのも頷けるわ。体がついてきてないのね。」

始めの言葉が聞こえずヴァイオレットは聞き返そうとしたが、ジニアがそれを拒絶しているので、声をかけられなかった。ジニアは赤い隊服を着たまま、水筒をポケットに入れてふらふらと食堂に向かっていった。ヴァイオレットはしばらくそれを見送った後、はっと気づいて彼女自身も水筒を取り、食堂に向かった。遅刻には罰則がつくという。初日の朝から遅れるわけにはいかない。

 食堂と言っても食事の種類は多くはないだろう、とヴァイオレットは思っていた。しかし、目の前には不思議な光景が広がっていた。机も椅子もある、食べている人もいる。ただ、注文をしなくても良いのだ。席についてメニューを見て、決めたらそれを指差す。それだけですぐに食事が目の前に現れる。

「なにかあるでしょうとは思っていたけど、まさかここまでとは思っていませんでしたわ。ヴァイオレッ卜、座りましょうか。」

ジニアは数歩歩いた。しかし、後ろからついてきているはずのヴァイオレットの足音がしないので不審に思って振り返る。

「ヴァイオレット?どうした、の…?」

ヴァイオレットは目を見開いて食堂の中を見ていた。ジニアはその前で何度か手をふる。

「ヴァイオレット、大丈夫?」

なかなか気づかないので、今度はジニアは軽く何度か揺すった。それでやっと我に返ったヴァイオレットは、いつもの仏頂面を消して機嫌よく笑みを浮かべた。

「すごいな、これ。こんなの初めて見た。どういう術式が組み込まれて…あ、ごめん、座るか。」

ヴァイオレットは興味津々であることを言葉でも表現しようとしたのか長々と話そうとしていたが、ジニアのじっとりとした視線にぱっと口をつぐんだ。

「えぇ。座りましょう。」

空いている席を探している途中、ジニアは注目を集めた。当然だ。女性はあまりいない上にものすごい美人なのだから。ヴァイオレットたちは、女性を一人も見かけなかった。部署によって食堂がちがうというので、戦闘のためのところにいない、つまり後方支援なのか、上官なのか、はたまた事務なのか。

 意外にも、ジニアが頼んだ量はかなり多めだった。もし普段から同じ量を食べているのに細いならば、それは彼女が毎日鍛錬を積んでいるからだろう。

「ヴァイオレットはあまり食べないのね。だからそんなに小さいのよ。分けてあげられはしないけど、もっと食べないとだめよ。」

ジニアに対してヴァイオレットは、半人前の量しか食べない。量の指定ができなければ、料理が半分以上残っていただろう。ヴァイオレットは口の中のものをごくんと飲み込み、やっと口を開いた。

「と言われても、腹が減ってないんだ。仕方がないだろう。腹が減ってなければ何も食べられない。そもそも大きさが違うんだから同じ量を求めないでくれ。」

じっとジニアの胸を見つめて言い、ヴァイオレットは再び食事を口に運んだ。ジニアは笑顔を顔に載せたままで、瞳にだけ真剣な光をともして首を振った。

「別にね、私と同じ量食べてほしいと言っているわけじゃないのよ。いくらあなたが小さいとしても、その量は少なすぎると言っているの。」

ヴァイオレットはそれに答えなかった。眉が困ったように下がっているように見える。ジニアはこの短時間で、ヴァイオレットの微妙な表情の違いがわかるようになっていた。

 しかし、とヴァイオレットは心のなかでつぶやいた。周りからの視線をひしひしと感じる。おそらく、ジニアがヴァイオレットに話しかけているのに対しての嫉妬だろうが、あからさま過ぎた。気配を読むのに慣れているわけでもないヴァイオレットが簡単に感じ取れるのだ。彼女よりも年齢でも、魔法騎士団の中でも先輩なのに何をやっているのだ、と思ってしまう。

「お前がヴァイオレット=ラナンキュラスか?」

唐突に男三人組が声をかけてきて、ヴァイオレットはうどんを飲み込んで顔を上げた。声をかけてきたのは一番背の高い人で、もう一人は背が低く、もう一人は太っていた。ジニアが営業スマイルを浮かべて対応する。

「どうされましたか?」

すると、三人組は急に態度を変えて、にこにこしながらジニアに向き直った。答えたのは、背の低い男だった。

「いえ。ツイーディアさんの耳に入れるほどのことでもございません。少々このガキ、いてっ!」

「あ、バカ! ガキはだめだろ! 失礼、ルピナスには後で言っておきます。実は、この少年に用がありまして、少し場所を変えて話したいと思っておりまして。」

途中で一番背の高い人がぽこん、とルピナスを叩く。ジニアはにこにこと微笑んでいたが、机に肘をついて三人組を見つめると、こてん、と首を傾けた。三人組は顔を赤くする。

「だ、め、よ? 今は私が話しているの。また今度ね?」

三人組はすげなく断られたことに一瞬唖然としたが、美人であるジニアのお気に入りになりたかったのだろう、すぐに諦めた。

「俺は、ルピナスです! また今度あったらよろしくお願い、」

「俺はジーリッシュ!」

「おいらはペステ! そこのガキに飽きたら俺のところに、」

「誰がガキだって?」

三人組の自己紹介の途中、唐突に知らない男の声が聞こえて、三人組はおそるおそる振り返った。どうやら、三人組がうるさいので騎士が文句を言いに来たらしい。

「ほらほら、女を女ってわからんやつは散った散った! 大丈夫だったか、ラナンキュラスとツイーディア。」

ジニアは微笑んで頷き、ヴァイオレットは相変わらずの仏頂面で小さく頷いた。三人組は、すでに食堂を出てどこかに消えた。朝食を食べに来たわけではなかったらしい。

「ありがとうございます、えっと…?」

ジニアはお礼を言おうとしたが、すぐに名前を聞いていなかったことに気づいた。男はニカッと笑い、大きな声で答えた。

「シャジュマン=サンダーソニアだ! シャジュマンと呼んでくれ!」

ヴァイオレットは僅かに顔をしかめた。いつも静かな環境で過ごしていた彼女にとって、大きな声というのはあまり馴染みがなかった。

「では、改めてシャジュマンさん、ありがとうございました。それと、声を小さくしていただけるとありがたいのですが…」

ヴァイオレットの表情の微妙な変化から大声に困っているのを読み取り、ジニアは声量を落としてもらえるように頼んだが、シャジュマンは快活に笑って聞き入れてくれなかった。いつの間にか食べ終わっていたヴァイオレットは、カチャリと箸をお盆の上に置く。

「ジニア。食べ終わったから、先に鍛錬場に行く。また、今日の夜に。」

ジニアは立ち上がったヴァイオレットを見て、少し悲しそうな表情をした。それだけでも絵になる。

「えぇ。また、今日の夜に会いましょう。先に寝ないでね?」

ヴァイオレットはその言葉に、約束を果たせる確証はない、と告げて去っていった。ジニアはそれを、苦笑して見送った。シャジュマンは大きく手を振っていた。恥ずかしくないのだろうか、と思ったのは、ジニアだけではなかったはずだ。


 「とにかく走れ。」

「はい?」

アルテミスを見つけると、すぐに指示が下った。目の前に立つアルテミスを見上げる。頭二つ分くらいの身長差があるので、首が痛くなりそうだ。

「他の奴らの訓練にはまだ参加するな。体力がなさすぎる。俺が許可するまで走るのをやめるな。やめたら魔力を抜き取る。」

ヴァイオレットはひゅっと息を呑んだ。魔力を抜き取るということはつまり、動けなくなるということで。量によっては、少なくとも数日、多ければ数週間にも及ぶ。

「走る速度は決められていますか?」

緊張のわかる硬い声に、アルテミスはふっと笑った。嘲り、とはまた違うが、心地よい笑みではない。

「いや。決めてはいないが、歩くのと同じ速度なら魔力を半分ほど抜き取ろうと思っているところだ。」

ヴァイオレットは瞬きをした。魔力を半分ほど抜き取る、つまり全身が鉛のように感じられるくらいになるのだ。

「承知いたしました。今からですか?」

アルテミスの無言の頷きに、ヴァイオレットは視線を遠くへと向けた。おそらく昼休憩まで走らされるのだろう。

 ヴァイオレットは体力の限界を感じていた。太陽はすでに、頭上にあった。おそらく、四時間以上走らされている。足もほぼ上がらない。今は魔力を抜き取られたくないという気力だけで走っている。ぎりぎり歩くのよりも速いくらいで、いつ魔力を抜き取られてもおかしくない。すでに全身を鉛のように感じているため、抜き取られれば倒れ込んでしばらくは起きないだろう。

「やめ。汗がひどいな。水飲んどけ。」

アルテミスの声に、だんだんと足を運ぶ速度を緩めていく。十歩ほど進んだところで、ぺたりと座り込んだ。水分補給は少量ずつだがこまめにしていたので脱水症状にはならないだろうが、それでも喉の乾きと疲労を感じる。水筒の栓をキュポンと取ると、ひっくり返して飲み始めた。

「こまめに水分を取っていたようだな。そこは褒めてやる。だが一時間走った程度で速度を落とし始めるなど、言語道断。午後は魔法の訓練に参加しろ。明日は走る速度を緩められないと思え。」

鬼か、と言いたいような訓練内容だが、たしかに体力をつけるにはうってつけなのかもしれない。専門知識がないから本当かどうかは分からないが、本当だと信じたいものだ。

「はい。」

未だに荒れている息を、数分かけてやっとのことで整える。支給されている手のひらサイズの水筒の中身がなくなる気配は一切ない。どうやら魔法がかけられているらしいが、魔法の分析をする体力は残っていなかった。

「すまない、ジニア。約束、守れなさそうだ…」

ヴァイオレットは、ため息をついて仰向けに寝転がり、空を見上げた。悲しいかな、今日の空は晴れておらず、爽快感はあまり感じられなかった。

 魔法の訓練は、あまり辛くなかった。辛いものといえば襲ってくる睡魔と疲労感、そして筋肉痛の予兆だけだ…本当はかなり辛かったかもしれない。

「ふぅん。で、私よりも先に寝ているということね。」

アルテミスは鬼だったが、上には上がいるものだ。怒っているジニアは、まさに魔王のような黒黒としたオーラを全身にまとわりつかせていた。

「あ、う、その、ジニア…」

普段は仏頂面のヴァイオレットも、これには申し訳ない、と体を縮こませている。

「いえ、別に私はヴァイオレットが先に寝たことを怒っているというわけではないのよ。約束を守れる確証はない、と言っていましたし。でも…」

怒りの頂点が来る予感に、ヴァイオレットはさらに体を小さくした。ジニアはすぅっと大きく息を吸った。

「泥をたくさん服につけたままでお風呂にも入らずにベッドに直行して寝るなんていう愚行を犯す人がどこにいますか!」

ジニアの怒りの焦点はヴァイオレットが予想していたものとは少しズレていて、服に泥がついた状態でベッドに入ったことに対しての怒りが最も大きいらしい。ヴァイオレットは僅かな時間の睡眠により回復したなけなしの体力で懸命にそれを聞いていた。しかし再び寝るのも時間の問題だ。

「ふぅ。これは洗っておきますから、今日はお風呂に入ってすぐに寝てください。」

一瞬で収まったジニアの怒りに、ヴァイオレットはほっとした。ジニアもそれは見逃してくれるらしく、すたすたと風呂に向かっていった。

「疲れているでしょうから、今日は私が洗ってあげます。」

え、というヴァイオレットの声は、どうやらジニアには届かなかったらしい。にこやかに笑いながら、ジニアはヴァイオレットを風呂の中に連れて行って体中を洗った。ヴァイオレットの目が死んだ魚のようになったのに、ジニアは風呂を上がった後にやっと気がついた。それを意に介せず、操り人形のようにベッドに入る。

 泥のように眠っていたはずのヴァイオレットはふっと起きて、首を傾げた。普段はまだ起きないのに、なぜか起きてしまったのだ。ベッドから降りようとして、数秒固まる。

「筋肉痛が、ない。ジニア…じゃないか。もっと遠くからかけられた…?」

どうやら起きたのは治癒魔法をかけられたからだと気づいたのはいいが、誰にかけられたのかもわからず、ヴァイオレットはただ首を傾げた。ふと思い立って荷物の中の箱を取り出す。中身が何かは分からないが捨てられずに物心付く前から持っていたものだ。それを見ていると、なんだか落ち着くのには理由があるのだろうか。魔法で何重にも封がされており、ヴァイオレットはそれを開けようとは思えなかった。母が作ったものだと昔聞いたことがあるが、それも本当かどうか怪しいところだ。



第三章 絶望と涙

 来る日も来る日も、同じ訓練内容が続いた。次第に息が切れることもなくなり、最後の方になると寝る前に感じていた筋肉痛の予兆もなくなり、ついには風呂にも自分で入らせてもらえるようになったのだ。

「今日からは他の奴らに混じって訓練しろ。途中で倒れることは許さない。」

ある日唐突に、やはり仏頂面でアルテミスは言い放った。その後は当然訓練を始めたのだが、たしかに体力をつけていなければ半分もできずに倒れていただろう。遅い、足が上がっていない、という注意はいつもされていて、遅いからと回数を追加させられたりもした。それでも、泣き言を言うわけにはいかなかった。

 アルテミスは眉をひそめてそんなヴァイオレットを見ていた。短距離を走らせれば騎士たちの中でも一位を取るヴァイオレットは、他の人達に比べて体力がない。体が小さいのもあるだろうが、幼いこともその理由の一つだ。魔法の精度は悪くないので後方支援に回すのももったいないと、体力をつけさせるために今までは午前中、ずっと走らせていた。泣き言を言えば後方支援に回そうと思っていたのだが、どれだけ辛かろうと歯を食いしばり、魔力を抜き取られる遅さでは走らなかった。取っ組み合いをさせると力の差で負けるが、剣を持たせて試合をさせるとその小柄さを活かしてちょこまかと動き回り、狙いを定めさせなかった。その力のなさからあまり威力は強くないが、その分遠心力を使った斬撃、速さを生かした突きなど、強みを活かした戦い方を選んでいた。

「へぇ。意外と優秀じゃないか。どうしたんだい、そんなに悩んで。ほら、眉間にしわができてるよ。」

背後から突如として声が聞こえて、アルテミスはぴくりと肩を跳ねさせた。その変化は声をかけてきたアイリス以外はわからないくらい小さかったが。

「いや…小さくて、どう接すればいいか…」

アルテミスのぼそぼそとした声に、アイリスはくすりと笑った。その動作は彼が物事を面白がっているときのもので、アルテミスは不満げに目を細めた。

「今まで女性を持ったことがなかったからねぇ。ま、頑張れよ。」

アイリスの軽い言い方に、アルテミスはため息をついた。すっと息を吸って、先程よりも大きな声で口を開く。

「そんな簡単なことじゃない。そっちの見習いは体力があっただろ。」

アイリスは肩をすくめた。ジニアはジニアでなにか問題があるらしい。

「いや、そうでもなくてね。体力はあるんだけど、攻撃は全部避けるし。ただ、かなり美人さんだからね、男子たちが組みたがるんだ。おかげさまで誰と誰を組ませればいいのかとかどのくらいの時間までなら組ませていいかとか、どうやったらできるだけ多くの人と組めるかとか、大変なんだよ。」

アイリスも相当苦労しているらしい。主に人間の感情の面で。アルテミスは体力の面で苦労しているから、ある意味正反対な悩みだろう。二人は解決策も見つからず、そろってため息をつくばかりだった。

「どうせなら、二人を足して二つに割れればいいのに。」

アイリスの適当な提案に、アルテミスは思わず頷いてしまった。二人の間に流れる暗い雰囲気に、遠くから見ていた騎士たちは戦々恐々としていたという。二人は、そろそろ訓練を終わりにしようと立ち上がった。

「そろそろおしまいだ。夜ふかしをせず、ゆっくりと休むように。」

「そろそろ終わりだよ!早めに寝て、ゆっくりと休んでね〜。」

アイリスとアルテミスの声が重なった。声の調子がだいぶ違うが、言っていることは同じだ。

「はい!ありがとうございました!」

騎士たちの声が重なり、二人は頷いた。声が小さければ、何回でも返事の練習をさせるところだった。ヴァイオレットは、今回は合格をもらえたことにほっとしながら寮へと帰り始めた。今日も今日とて体が重い。ジニアは体力的にヴァイオレットよりも多いため、終わったときには元気だったからすでに部屋に着いているだろう。

「ただいま。」

寮の扉を開けると、ジニアは窓の近くに座って本を読んでいた。ヴァイオレットが普通に立っているのを見て、口の端を上げる。ヴァイオレットの声はよく通るため、ジニアは彼女の帰宅に気づきやすかった。

「おかえりなさい、ヴァイオレット。今日はベッドに倒れる程は疲れてないのね。」

ヴァイオレットの苦笑いを見て、だいぶ打ち解けてくれたのだとジニアにも笑みが浮かんだ。

「まあ、そうだな。体力が少し増えたから。ところでどうした、ジニア。なにか楽しいことがあったのか?」

砕けた物言いになっていることに、笑みがさらに深くなる。ヴァイオレットの不審げな顔に、表情が豊かになったのか、それとも自分が表情を読み取れるようになったのか、と思考を深めるのも楽しいのだと気づいた。

「いえ。ただ、打ち解けてくれたということに気づいただけよ。」

困惑したような表情に、ジニアはくすりと笑った。ずっとにこにこと笑っているので、ヴァイオレットの顔にも次第にほほえみが浮かんできた。

「とりあえずお風呂に入ってきなさいな。相変わらず泥だらけよ?」

ヴァイオレットは一瞬きょとりとすると、自分の服を見下ろしてため息をついた。素材が工夫されているのか、汚れは洗えば落ちるのだが、その一手間が疲れているときは面倒なのだ。特にヴァイオレットは、毎日倒れる直前まで頑張っているため、日々疲労困憊だ。

「とりあえず、隊服は私が洗っておくわ。さっさと入って、さっさと寝ないと明日辛いわよ?」

ヴァイオレットは、ジニアが洗ってくれるということにホッとしながら風呂場へと歩いていった。ジニアはクスクスと笑いながら、本を再び開いた。

 再び夜がやってきた。手鏡に映り込む月は、ニタリと笑っていた。がちゃり、と部屋のドアが開けられて、ジニアは手鏡から目を上げた。今日も今日とて疲れ切っているヴァイオレットだ。これでも最近は良くなってきたほうで、過去には返ってきた途端に声もかけずに寝るということも多々発生していた。

「お疲れ様、ヴァイオレット。」

苦笑して声をかけるが、今日は体力的な疲労に加えて精神的な疲労もあるようで、ジニアに答えることもできないようだ。

「どうしたの、今日は。随分疲れてるじゃない。」

椅子に座り込んだヴァイオレットの肩を叩いた。すると、ヴァイオレットは無言でポケットに仕舞ってあった紙を取り出した。日常で使う紙とは違い、少し硬めで純白だった。底に書かれている文字は、黒黒と光っている。

「え?これ、もしかして任務?」

ヴァイオレットがコクリと頷くと、ジニアは目を見開いた。見習いになってから数ヶ月が経つが、見習いも連れて行かれる任務は初めてだった。と、コンコンコン、と窓をなにかが叩いた。魔法で作られた鳥が来たようだ。足には小さく折りたたまれた紙がくくりつけられている。繊維はきめ細かくて、見ただけで上質なものだとわかる。鳥からそれを取って開くと、そこにはヴァイオレットから見せられた紙と同じ内容が書かれていた。

「私も行くらしいわ。私は情報を持ち帰るための練習かしら。」

ジニアの言葉に、ヴァイオレットは目を丸くした。その瞳があまりに心配そうなので、ジニアはくすりと笑った。

「大丈夫よ、ヴァイオレット。私は攻撃を避けるのだけは得意なのよ。いざとなったら情報を持ち帰るために逃げるわよ。」

少しふざけた口調でいうが、それでも心配がなくならない様子のヴァイオレットに、ジニアは苦笑してその小さな頭に手を載せた。

「大丈夫、きっと大丈夫よ。最初からいきなり難しい任務になんて、行かせるはずがないもの。そう、大丈夫。大丈夫よ、ヴァイオレット。」

優しい声と温かい手に、ヴァイオレットの緊張でこわばっていた体の力がゆっくりと抜けていく。そして安堵からか、いつの間にか眠ってしまった。

「…大丈夫よ、ヴァイオレット。少なくとも私は生き残れる。それにあなたの魔法の精度なら、絶対に生き残れるわ。」

自分にも言い聞かせるように、小さくつぶやいた。

 特に夢を見ることもなく、穏やかな目覚めだった。魔物討伐をしにいく、ということを思い出すまでは。ヴァイオレットは、最初から難しい任務なんて行かせるはずがない、と何度も心のなかで繰り返した。ジニアは正しかった。見習いに、とりあえず戦ってみろ、後ろから支援するからと言うくらいには。

「この魔物に致命傷を与えれば、干からびて崩れる。わかってるだろうが、致命傷を与えられなければ反撃にあう。」

アルテミスの注意喚起に、ヴァイオレットは小さく頷いた。緊張で手が汗ばむ。ジニアは相手の様子や動きの癖を観察し、情報を持ち帰る練習だそうだ。ヴァイオレットは剣を抜き、魔物に近づいていった。それは大きめの狼のような姿をしていた。牙が異様に発達しているが、その他は普通の狼と同じだ。

―…ナイ

声が聞こえた気がして、周りの気配を探る。気配探知などまだあまり得意ではないのだが、それでも仲間以外の気配の片鱗も感じられなかった。

「気のせいか。」

つぶやいて、魔物の目の前に立った。構えて、その動きの遅さに拍子抜けする。組んだときの、騎士たちのほうが動きのほうが素早かった。一閃、頸がボトリと落ちて干からびて崩れたのを確認した。騎士たちがどよめいたのを感じた。

「よし、今年は豊作だな。一人でもこれくらいの人間がいると、だいぶ違うからな。」

ぽんとアルテミスの手がヴァイオレットの頭に載せられた。小さいな、と言外に言われている気がして、仏頂面が不満顔になる。だが、あからさまなそれに気づいたのは、ジニアだけだった。

 小さい、と言外に言われたことを引きずって、やや強めにバタンとドアを閉め、椅子に座る。ちょうどよいところにあったな、と思いながら後ろから入ってきたジニアを見ると、疲労は少しも感じられなかった。

「ヴァイオレット、今日はとても楽そうだったわね。昨日あんなに緊張することなかったじゃない。ほら、最初っから難しい任務になんて行かせるわけがない、て言ったでしょう?」

ジニアの言葉に、ヴァイオレットはたしかに、とつぶやいた。緊急時以外、あまり難しい任務はないそうだ。窓から外を眺める。ジニアも椅子を動かして、その隣りに座った。月や星が輝いて、二人を照らしていた。

 任務の次の日は休暇である、と伝えられたのは、翌日の朝のことだった。体を動かしたくて、ヴァイオレットは鍛錬場に向かった。今日は訓練はしたい人が行い、疲れが取れていなければ休んでいても良いということだった。ヴァイオレットはあまり疲れていないし、他の騎士たちも疲れていないだろう。実際、大半が訓練場にいる。おそらく、普通の訓練とほぼ同じ内容になるだろう。

「よ! ラナンキュラス、昨日は普通に倒してたな! 見習いとは思えない太刀筋だったぜ!」

後ろからバンッと背中をたたかれ、ヴァイオレットはふらりとよろめいた。しかし、すぐに体勢を立て直す。訓練の賜物だ。

「ありがとうございます。ただ、あれは動きが遅かったので…えっと、シャジュマン、さん?」

シャジュマンは、ばんばんと彼女の背中をたたきながら頷いた。

「そうだ! よく覚えていたな! 一度聞いたかどうかだろうにな!」

常に大声なので、ヴァイオレットはもう少し音量を落としてほしいと思いながらも律儀にそれに答えた。

「いえ、何度か話しかけていただいたので。」

再び謙遜するヴァイオレットに、シャジュマンはがははと笑った。さらに声量が上がり、ヴァイオレットは身を引きそうになったが、失礼なのでギリギリのところでこらえた。

「謙遜のし過ぎもなんだが、お前はなんか悪い感じはしないな! 不思議だ不思議だ。お前も訓練しに来たのか? さ、入れ入れ。」

シャジュマンに背中を押されて、ヴァイオレットは騎士に合わせて早足で訓練場に入っていった。通路から出ると天井がなくなり、眩しい太陽の光が目を刺した。

「お前も来たのか。どっかの元見習いとは大違いだ。」

アルテミスの言葉に、ヴァイオレットは首を傾げた。対照的に、先程ヴァイオレットの背中を叩いたシャジュマンはふい、と顔をそらす。アルテミスの冷ややかな目に、ヴァイオレットは唐突に理解した。おそらく彼が見習いだったとき、簡単な初任務の後に訓練場に来なかったのだろう。

「いや、別に怒ろうとは思っていない。訓練に来なかったことを、怒ろうと思ってはいないぞ。」

続けて冷ややかに紡がれる言葉にシャジュマンはじりじりとあとじさっていた。それに対して、アルテミスは堂々と仁王立ちしている。ヴァイオレットはそれを放っておいて、訓練に向かうことにした。最終的に、昼休憩まで二人は訓練もせず、ずっとそれを繰り返していた。

 今日も今日とて訓練を終わらせて部屋に帰ると、鳥が中にいた。急に増援要請が入ったそうだ。強い魔物が出たわけではなく、その場にいた騎士たちだけでは対処できない量だった、とのことだ。夜であるにも関わらず急遽その場に向かったのだが、その量が問題だった。百体もいれば、人々を避難させるのにも苦労する。

「量が報告よりも多くなっている!各自、自分の力量よりも上の魔物と戦うな!」

アルテミスとアイリスの指示に、皆従った。ぴりりとしたなにかを感じ、ジニアはヴァイオレットを見た。しかし、隣りにいたジニア以外、誰もヴァイオレットの異変に気づかなかった。その菫色の瞳は魔物をじっと見ている。

「各自、騎乗!」

アルテミスの命令と同時に、ヴァイオレットは詠唱を始めた。その文言はいつもと一緒だ。

「戦地を駆け巡るは、魂の友。ソウル・パートナー。」

現れた馬に、ひらりと飛び乗る。シエルと名付けたその馬は、ヴァイオレットの言う通りに動いてくれる。それどころか、ヴァイオレットの戦闘が楽になるように動くことさえできた。ぽんぽんと首筋を叩く。その周りでは、次々に騎士たちが詠唱を始めていた。皆が馬に乗ったのを確認して、アルテミスは再び命令を下した。

「戦闘開始!」

同時に、ヴァイオレットは飛び出した。手には任務直前に配られた剣がある。それにはまだ、なんの魔法もまとわせてはいない。

ユ…ナイ。

近くから声が聞こえた気がしてさっと周りを確認するが、皆戦闘に夢中で、ヴァイオレットに話しかけてくる者は誰もいなさそうだった。

 ざん、と夢中で何体か倒したところで、一瞬剣を振るう腕が鈍る。それが疲労からだと悟った次の瞬間、対応しきれなかった魔物がその大きな前足を振り下ろしていた。

「ラナンキュラス!」

覚悟を決めた瞬間、障害物が広がって魔物の姿が見えなくなった。それがシャジュマンの背中だと気づいたのは、数秒後だった。身に生暖かいものがかかる。

「あ…」

魔物はいつの間にかしぼんでいた。おそらくシャジュマンがその身を犠牲にして倒したのだろう。シャジュマンが乗っていた馬が、パリンと砕けた。

―ユル…ナイ。ユルサナイ。ユルサナイ!

あの声が大きく聞こえて、ヴァイオレットの視界は赤に染まった。


 気がつくと、周りに魔物はいなくなっていた。血だけが地面を染めている。転がっているのは、仲間だろうか。そのうちの一つに銀髪が見えて、ヴァイオレットはそっと目を伏せた。その他の仲間は遠くにいて、ヴァイオレットは馬を操って彼らに近づいていった。そして、十分近づいたとき、その瞳の恐怖に気づいた。

「皆さん、どうされましたか?」

答えはなんとなくわかっているのに、思わず聞いてしまった。聞かなければよかったと、その直後に後悔した。

「化け物だ!」

ジーリッシュの大きな声が聞こえて、ヴァイオレットは身をすくませた。それに続いて、ルピナスとペステが囃し立てる。

「化け物だ! 化け物だ!」

「あいつおかしいぞ! 化け物!」

手を見れば、なにかの血で染まっていた。さらに馬に、青ではない、なにか変わった色が見えた気がしてよく見ると、いつの間にか朱に染まっていて。それはパラパラと消えていってようやく、それが何かがわかった。

「あ…」

魔物を大量に倒したのだと、直感的に理解した。ただ、そんな体力は自分にはないはずで。怒りがそうさせたのだろうか。何も覚えていない自分に恐怖した。

「今日は、撤退だ。近辺にもう魔物はいない。市民を守った仲間に、敬礼!」

馬から飛び降りて、皆戦いに散った仲間たちに敬礼をした。ヴァイオレットもそれにならった。横ではジニアがじっと下を見て肩を落としている。親しくしていた者が、あの中にいたのだろう。

 それから撤退を始めた炎・氷属隊の中で、ヴァイオレットは孤立していた。自らのしていたことが、魔物相手に戦っている騎士たちにも化け物だと言われるほどのことだったのだと、自分に恐怖していた。

『今日、最も多くの魔物を倒したのはお前だ。頑張ったな。』

撤退前にアルテミスに言われた言葉が、脳裏をよぎる。それを全く覚えていないということは、言い出せなかった。ジニアにも近づけなかった。もし自分が彼女にも怖がられていたら、という恐れが孤独を上回った。ヴァイオレットは自分のことで精一杯で、ジニアが悲しそうな目で彼女を見ていたことにも、気づかなかった。

 ヴァイオレットは部屋に帰っても、ジニアに話しかけなかった。彼女の顔も見れず、風呂の用意がされていることを確認して中に入り、ドアを閉めた。内側からは鍵がかけられ、ジニアはその間、風呂に入ることはできなかった。

 バシャバシャと何度も手を洗う。この手に血がついていたのだと思うと、何度洗ってもその色が落ちる気がしなかった。体中に飛び散っていた返り血も今は落ちているが、生臭さが未だに残っている気がして手で何度も擦る。

『化け物…』

その言葉が何度も脳裏をよぎる。あの声は、いつも休憩時間に優しくしてもらっていた騎士だった。自分の行為がどれほど残虐だったのか、覚えていないだけに恐怖が込み上げてくる。頭から水をかぶって、ヴァイオレットは唇を噛んだ。いくら流しても、あの血の匂いが体に染み付いて取れないような気がした。

 「遅いわね…」

ジニアは少しイライラしながらヴァイオレットが出てくるのを待っていた。いつもはもっと早く出てくるのに、今日に限ってとても遅い。しかしあの傷ついた瞳を見て、声をかけられる自信がなかった。顔も見てくれなかったのだ。何かに怯えているように見えた。顔も合わせてくれなかった。傷ついているなら、自分に相談してほしいと思うのに、そうしてくれないのは自分に対して怯えているからだと、なんとなくわかってしまっていた。

「なにか、言えばよかったのかもしれないけど…」

話しかけることができない雰囲気だった。それに、あまり長風呂をすると今度はジニアが風呂に入れなくなる。美容をかなり重んじているジニアにとって、それは致命的だった。

「…ヴァイオレット。そろそろ出てもらってもいいかしら。」

少し遠慮がちな声に、シャワーの音がすぐに弱まって消えた。僅かに間があって、声が聞こえる。

「はい。ではそろそろ出ます。」

数ヶ月でだいぶ打ち解けてくれたはずなのに、今日一日だけで再び最初と同じになってしまった。

「えぇ。待ってるわ。」

脱衣所から出ると、風呂の扉が開く音がした。ごしごしと強く体を拭いている音が聞こえて、はっと息を呑む。

「ヴァイオレット。そんなに強く拭いたら肌が痛むわよ。」

ジニアの声が聞こえなかったかのように、音は止まなかった。雨が窓を打ち付ける音に、やっと雨が降っているのだと気づいた。

 ジニアが風呂を出ると、ヴァイオレットは食堂にも行っておらず、ただ座って外を眺めていた。しかしその瞳は虚ろで、どこか違うところを見ているようだった。

「ヴァイオレット。ご飯を食べに行かないの?」

当たり障りのない話題で会話を試みるが、ヴァイオレットはただ無言で首を振っただけだった。どうやら食べたくないらしい。

「ねぇ。どうしてずっと黙っているのか、教えてくれない?」

ぴくりとヴァイオレットの肩が反応した。ジニアは、反応できないほど怯えているわけではないのだと少し安心する。カタリ、と椅子を動かしてその隣に座る。腰を浮かして離れようとするのを、話すのは今だと判断し、腕を軽くつかんで止めた。

「ね、ヴァイオレット。今怯えてるのは、今日のこと?」

体が見てわかるほどこわばった。この調子なら、返事がなくとも会話ができそうだ。今の反応は、おそらく肯定。

「他の人に、怖がられたからそんなに怯えているの?」

ヴァイオレットの目が初めて虚空ではなく雨を見た気がして、ジニアはこれも肯定なのだと思った。確証はないが、それでも数ヶ月で培った経験が、そう言っている。

「他の人のことが怖いの?」

ゆるりと首が振られた。どうやら否定らしい。今まで自分から動いたことはなかったので、おそらくここは間違えられたくないところなのだろう。

「自分のことが、怖いの?」

無言。肯定だろうか。いまだに怯えているのか、ヴァイオレットは強張った面持ちで窓に映っているジニアを見ている。それでも顔は見れないようで、見ているのは肩よりも下だ。

「どうしてか、教えてくれる?」

再び無言。教えたくないのか、それとも思い出したくもないのか。ジニアはしびれを切らして、その細い肩をつかんで強引に振り向かせた。

「教えて頂戴。じゃないと、何があってあなたがそんなに怯えているのかわからないじゃない! 私は友達がずっとなにかに怯えているのを無視できるほど図太くはないのよ!」

さっきまで抑えていた悔しさを含んだ叫びに、ヴァイオレットは目を見開いた。言葉を返してくれそうな反応に、ジニアはじっとそれを待った。

「覚えて、ないんだ。」

あまりにも弱々しい声に、ジニアは息を呑んだ。ヴァイオレットは罪を犯したのだとでも言うように俯いて、肩身を狭くしている。

「どういうこと?もう少し、詳しく教えてくれる?」

優しい声に少し安心したのか、今度は比較的すぐに口を開いた。ジニアはその小さな声をすべて拾えるよう、静かにしている。

「戦っている間のこと、覚えてないんだ。許さない、ってなんか聞こえた気がして。数回聞こえた後からはもう記憶がない。意識が戻ったのも、魔物を全部倒してからだ。自分がどうやって戦ったのかすら、覚えてない。全身に魔物の血が飛び散ってるのが見えて…馬にも…これじゃあ本当に、僕は魔物だ…」

怯えが戻ってきたのか、ヴァイオレットは自分の腕をつかんだ。震えるその体を、思わずジニアは抱きしめた。

「大丈夫。覚えていなくても、全身に魔物の血が飛び散っていても、ヴァイオレットはヴァイオレットよ。他の誰でもないわ。魔物でもない。大丈夫よ、そのことを私はしっかりと知ってるわ。」

とん、とん、と背中をさすると、聞こえてくる鼻を啜る音。しばらくするとヴァイオレットが重くなり、いつの間にか寝てしまっていた。まだ十五歳なのに、魔法騎士団に入り、魔物を倒す。それは、彼女にとっては整理がついているつもりだったのかもしれないが、本当は整理できていなかったのだろう。そして、親しかった人に恐れられるという恐怖に、彼女は準備をしていなかった。そしてそれは、心を開いた人の言葉でなければ、取り除けない。

「私が、守ってあげなくては…」

ジニアの声が、小さな部屋に響く。雨の音が室内に虚ろに響いて、二人の息の音さえもかき消した。

 チュンチュン、と鳥の声がして、ヴァイオレットは目を開いた。昨日は雨が降っていたが、今日はいつの間にか晴れている。ジニアはすでに起きていた。昨日の夜のことを思い出して思わず赤面するが、遅刻するわけにも行かないのでとりあえず隊服のボタンをとめる。

「おはようございます。」

ジニアの声に、ホッとして振り向く。その瞳に宿るのは優しい光で、緊張に強張った顔も緩んでいった。

「おはよう…昨日、ありがとう。今日はなんとか、乗り切れそう。」

昨日の優しさが温かく、温かく、心を温めてくれた。それに、いくら感謝しても感謝しきれない。気恥ずかしさで頬を赤く染めて、お礼を言った。

「いえ、気にしないで。放っておけなかっただけよ。」

にこにことほほえむジニアに、つられてほほえみが浮かんでくる。もちろんそれはとても小さなものだが、ジニアにはしっかりとわかった。

「ううん、それでも、ありがとう。昨日食べられなかったから、食堂行こうか。」

食堂には、彼女の昨日の行為を知っている騎士たちが大勢いる。それでも、ヴァイオレットにはジニアがいる。

「そうね。行きましょうか。」

その心の中の覚悟を感じ取り、ジニアはふわりと微笑んだ。そして、彼女自身も覚悟を決めたのだ。

 食堂に行けば、騎士たちから好奇の目を向けられるのは当然だった。それは心に刺さるが、ジニアはそんな彼らを睨みつけていた。ヴァイオレットはそれに安心して、背筋を伸ばしたままでいられた。

「ヴァイオレットは、今日はうどんを半人前、食べるのね。私も食べようかしら。」

ふとこぼれたジニアの言葉に、ヴァイオレットは手を合わせていただきますと言った後、頷いた。

「いいと思う。このうどん、だしが美味しいんだ。」

好物を食べると、気を紛らわせることもできる。ジニアはほほえんで、それに頷いた。そして、彼女もヴァイオレットの十倍の量を頼んだのだ。

「あの!」

急に意を決したような声が聞こえてきて、ヴァイオレットは食べるのを中断して顔を上げた。すると、そこには初日に絡んできた三人組が直立不動で並んで立っていた。ヴァイオレットが身をすくませたのを見て、ジニアが対応する。

「どうされましたの?」

三人は顔を見合わせると、一斉に頭を下げた。

「昨日は!」

「ラナンキュラスさんを!」

「傷つけてしまい!」

「「「申し訳ありませんでした!」」」

ルピナス、ジーリッシュ、ペステが言葉をつなぎ、最後に一斉に謝る、という見事に心が通じ合っているとしか言いようのない連携に、ヴァイオレットとジニアは目をパチパチした。ジニアはすぐに驚きから回復し、ヴァイオレットの反応を見てにこりと笑った。

「別にいいわよ、この後関わってこないなら。ね、ヴァイオレット?」

話を振られたヴァイオレットは、いまだに三人組を怯えた目で見ながら、小さく頷いた。机の下でヴァイオレットの手を握り、微笑む。

「そろそろ食事を再開してもよろしくて?」

「「「はい!」」」

三人組はわずかに食い気味に返事をして去っていった。食堂を出ても寮の方向に向かわなかったのは、なにかあるのだろうか。ヴァイオレットは、僅かに首を傾げながら再びうどんを口に運んだ。

 怯えながら訓練場に来たのに、誰もヴァイオレットのことを気にしていなかった。無視していたということではなく、むしろ普段通りだったのだ。

「驚いた?」

後ろから急にアイリスの声が聞こえてきて、ヴァイオレットは飛び上がりそうになった。別に気配を探っていたわけではないのだが、足音も聞こえなかったせいで近づいてきたことに気づかなかった。無言で頷くと、アイリスはニコリと穏やかに笑った。

「ま、あの人たちは理性で感情を制御できるからねぇ。それに、アルテミスが随分と怒ってたみたいだし。」

え、と声が漏れた。ヴァイオレットからすれば、アルテミスはあの日、怒っていたように見えなかったからだ。アイリスはヴァイオレットの反応を見て、楽しげに笑った。

「アルテミスは本当に怒ってるとき、怒ってるってわかりにくいんだよねぇ。しばらく一緒にいたらわかるよ。なんかすごい無言になるというか、無表情になるというか。仏頂面から無表情になると、怖いものがあるんだよねぇ。」

そうなのだろうか、とヴァイオレットは自分の表情を思い出した。彼女も仏頂面だが、不本意なことを言われると無表情になることもある。しかしさすがに自分が怖いか、なんて聞くこともできず、ヴァイオレットはジニアに聞くことにしよう、とその疑問を胸にしまうことにした。

 訓練は当然のようにいつも通りに進んだ。三人組以外の誰かから謝られることもなく、慰められることもなく。そう伝えると、ジニアはふわりとほほえんでそう、と頷いた。

「そう、良かったわね。とすると、今日の朝じろじろと不躾に見ていたのは炎属隊の騎士たちかしら。あとでアイリスにお願いしないと。」

穏やかな笑みに妙な迫力を感じて、むしろ何をお願いするのか聞けず、ヴァイオレットは悶々としてしまった。ジニアはその心中に気づかず、きょとりと首を傾げた。

「どうしたの、ヴァイオレット?」

ヴァイオレットはジニアの純粋そうな目に気づき、口ごもった。ジニアは本当になぜヴァイオレットが口ごもっているのか、わからないのだろう。

「まあいいわ。今日の朝は精神的に疲れたでしょうし、訓練で疲れたと思うから、今日は私が洗ってあげるわ。」

何を、とは言われずともわかり、ヴァイオレットはヒクリと顔をひきつらせた。

「いや、自分で…」

「無理しないの!」

拒否権はすでにヴァイオレットにはない。ヴァイオレットはジニアに引きずられて、風呂に入らされた。

 風呂から上がったときには、ヴァイオレットは精神的にさらに疲れてぐったりとしていた。それを見たジニアは、曇りのない目でまた首を傾げた。

「どうしてヴァイオレットはぐったりとしているの?」

しかし、ヴァイオレットにはもう口を開く気力すらなくなっており、長く息をついただけにとどまった。ジニアがハイテンションでヴァイオレットを洗っていたからだ、とは言い出せなかった。



第四章 氷は解けて

 そんなこんなであっという間に冬になり、ヴァイオレットはため息をついた。冬の再来を悲しむそれすら、寒さを表すものになってしまう。いくら氷属性の魔法を使うとはいえ、寒さに強いわけではない。ヴァイオレットは、冬が苦手だった。雪は好きなので、暖かい日に雪が降ればいいのに、とすら思っている。もちろん、実現しないのも知っている。

「ジニアは明日から帰省するんだったっけ。」

お小遣いで買った、コップに入れると温かいココアになる粉の入ったスティックでつくったココアを飲みながら、ヴァイオレットは目の前のジニアに問いかけた。ジニアも同じココアを飲みながら頷く。

「えぇ、数日だけだけれど…ヴァイオレットは帰省しないのよね。じゃぁ、頑張ってね。この極寒の部屋で。」

「…。」

ヒューッと風が吹き抜けていったような気がした。もちろん壁に穴などあいているはずもなく、ただ寒いだけである。寮には冷房と暖房がない。なくても死なない程度の気温だからだが、今年の冬はなぜかとても寒い。ずっと雪が降っているのではないか、と思ってしまうほどだ。

「…なんでこの部屋暖房ついてないのよー!」

ジニアの声が虚しく響き、ヴァイオレットは再び体を震わせた。ジニアの荷物はすでにまとめられており、そのせいで部屋の中はからっぽ、というほどではないが、スカスカだ。

「人一人いなくなるとかなり寒くなるからな。」

まるでジニアがいなくなるからこごえてしまう、とでも言うように、ヴァイオレットはジニアをじとりと見た。ジニアはぷくりと頬をふくらませる。

「仕方がないじゃない。お母様から帰ってきなさいって催促がくるのよ。しかも一ヶ月に一回はね!これ、無視しなさいっていうほうが無理よ。」

久しく聞いていなかった母という単語に、ヴァイオレットは目を細めた。

「お母様…か。」

まるで何かを思い出すようなつぶやきに、ジニアは首を傾げた。しかし、その雰囲気がなにか儚げで、何も聞けなかった。

「ま、とりあえずココア飲みましょう…って、冷えてる!」

ジニアは場の空気を変えるための話題転換にココアを飲んだが、室内温度が低すぎてすでに冷えていた。こういうときに魔法を使えればよいのだが、残念ながら温めるだけの魔法はない。ジニアが使えば、カップごと消し炭になるだろう。

「僕が炎属性を使えたら、あと少し楽だったんだろうか…」

ヴァイオレットのつぶやきは、雪に吸い込まれて消えた。窓の外でしんしんと降る雪に、二人は寒さも忘れてしばらく見入っていた。部屋の中を、雪が降る音が満たす。歪む窓の外の景色に、ヴァイオレットは思わず顔をしかめた。依然として寒いのに、明日の朝はさらに冷え込むだろう。

 寒いのが苦手なヴァイオレットは、はぁ、とため息をついた。華やかなジニアがいないので、余計部屋が寒く感じる。ガチャ、ガチャ、と鍵を開ける音に、ヴァイオレットは扉へと目を向けた。

「ただいま!」

久しぶりに聞いた声に、ヴァイオレットは顔をほころばせた。遅れて見えた金色に、座っていた椅子からさっと立ち上がる。

「おかえり! 早かったな。」

ジニアは頷いてそれに答える。しかし浮かんでいたのはいつものほほえみではなく、苦笑だった。

「えぇ。実家が落ち着かなくて…お見合い写真を沢山持ってくるのよ。本当に大変だったのよ。鬱陶しくてもう耐えられないから、帰ってきたの…って、なぜ笑っているの?」

俯いていると思えば、肩が震えていたので、ジニアはヴァイオレットが笑っていたということにやっと気づいた。

「いや…さすが、美人なだけあるなと…」

ジニアは目を見開いて、そして吹き出した。ヴァイオレットは笑うのをやめてこちらも僅かに目を見開く。

「あなたもどうせ、家族にはかわいいとか言われてるでしょう? それに、この年頃になるとみんなお見合い写真のオンパレードよ。」

しかしヴァイオレットの目が細められ、そこに悲しげな光が揺らいでいるのを見て、ジニアははっと口を押さえた。

「ごめんなさい。家族、そういうこと言わないのね…」

ジニアの言葉に、ヴァイオレットは首を振った。顔にほほえみを浮かべながらも、どこか悲しげだ。

「いや…家族、いないんだ。」

ジニアは、思いがけない言葉に息を呑んだ。ヴァイオレットは、そのことを今まで一切感じさせなかったし、ジニアも事情はあるだろうが、家族はいるのだと思っていたからだ。

「昔…僕がまだ、六歳だったか…


 母のアルメリアは優しい人だった。髪も瞳も薄紫色で、風に翻るそのきれいな薄紫色だけは覚えていた。彼女の口癖は、大丈夫、なんとかなる、だった。父のランタナは厳しくも優しい人だった。髪は淡い水色で、瞳は吸い込まれるような、青みがかった灰色だった。その色合いがきれいで、いつも見ていたのをおぼろげながら覚えている。彼の口癖は、人は鏡、自分が笑えば、きっと相手も笑ってくれる、だった。いつも彼は笑っていた。魔法を暴走させてしまっても、二人は強くて、結界を張りながら優しく落ち着かせてくれた。そして、笑顔が見たいと、言ってくれた。なぜか黒い髪にも、なにも言わなかった。褒めてくれた。他の人達は、両親の色ではないと忌避していたにも関わらず。

 ある日、魔物が襲ってきた。偶然、魔法騎士団の人がいないときだった。皆すぐに追い詰められて、惨殺された。二人だけが、ヴァイオレットを守ろうとして戦っていた。一番鮮明な記憶は、周りに広がる朱色と、戦うランタナの影、自分に覆いかぶさるアルメリアの影だった。魔法騎士団に入っていたわけではないランタナは、魔法を得意とするとはいえすぐに殺された。アルメリアは魔法を扱うのが苦手だったため、一瞬だった。でも、少しずつ切り刻まれた。

「ナンダ、最後ハタダノガキカ。アンナニ必死ニ守ッテ、ドレダケ大事ナノカ卜思エバ。」

発音は少しおかしいが、なぜか魔物が言葉を話していた。それに構わず、ヴァイオレットは二人の死体にすがりついていた。

「マアイイ。食ッテヤルカラナ。」

ヴァイオレットはその声に思わずばっと顔を上げた。その顔に浮かんでいるのは、怯えだけではなかった。構わず、魔物は彼女に爪を伸ばす。

「目玉ノ色ダケハ綺麗ダナ。エグリ出シテソコカラ…」

目を見開いたまま、閉じることもできず―


 その後の記憶はない。いつの間にか、孤児院のベッドで寝ていた。おそらく魔法騎士団が助けてくれたのだろうが。」

ジニアははっと息を呑んだ。冬から一転して暖かくなってきた空を窓越しに見上げるヴァイオレットになにも言えず、目を閉じた。

「そう…」

ヴァイオレットの目の端を、風に舞う薄紫と水色がよぎった気がした。目を閉じれば、朱色が混じったそれは、未だに鮮やかに蘇る。

「しかし、記憶と言ってもおぼろげで、もうほとんど覚えていない。それに、それ以前の記憶もないから彼らは僕の中ではいないに等しいんだ。」

皮肉げな声音に、ジニアは目を開けて、口をきゅっと閉じた。急にヴァイオレットの目の前に、赤色が広がる。少し遅れて、ヴァイオレットはそれが隊服の色だと気がついた。

「覚えてる、覚えてない、いる、いない、じゃないの。あなたの心は、なにを叫んでるの?寂しさ?悲しみ?それとも怒り?」

ヴァイオレットははっと息を呑んだ。誰にもかけられたことのない言葉は、まるで、乾いた地面に染み込む雨のように温かく、彼女の心に染み渡る。

「私にはあなたの心の全部はわからないわ。だから、話してほしいの。」

しばらくの沈黙。ヴァイオレットの肩が小さく震えているのに気づき、ジニアは腕に力を込めた。

「僕、は…いつも、家族がいないって笑われて…ずっと、みんなが怖くて…誰にも、相談できなくて…理不尽な怒りを魔物にぶつけてた…」

震える声に、ジニアは目を細めた。彼女は、今までどれだけ辛かったのだろう、寂しかったのだろう…理不尽な対応をされてきたのだろう。ジニアにしがみつくその指はとても冷たくて、ジニアはヴァイオレットの体を離して、その手を包みこんだ。

「ずっと、寂しかったのね…」

ヴァイオレットは目を見開いた。そして、染み込んでくるその言葉を噛みしめるように繰り返す。

「寂しかった…?そうか、僕は、寂しかったんだ…この感情は、寂しいっていうんだ…」

ヴァイオレットはぱちりと瞬きをして、視界が滲んでいることに気がついた。ジニアが片方の手でハンカチをとり、それをそっと拭く。涙を止めようとしているのか、目をギュッと閉じているのに気づき、ジニアは優しく微笑んだ。

「これからは、私がそばにいてあげるわ。だから、今は泣いていいのよ。」

思わず目を見開いて、後から後から溢れてくる涙に、ヴァイオレットはあれ、と声を漏らした。

「なんで?僕、今寂しくも悲しくもないのに…」

本当に不思議がっている声音に、ジニアは優しく笑った。そして手を離し、頭を抱き寄せる。

「ふ、服が汚れるから!」

焦っているのを感じながら、ジニアはその頭を撫で始めた。ぴたりと抵抗が止まったのに、苦笑する。

「いいのよ。今泣かなければあなたはきっと泣けないから。」

きっと心の奥底では覚えているのだろう、本当の母のぬくもりを。父の温かさを。それでも違和感を感じずに頭をあずけているのは、ジニアのぬくもりが母のそれに似ているからだ。

「涙は薬よ。心の薬。泣けるときにいっぱい泣きなさい。人に頼れるときは、精一杯頼りなさい。」

ヴァイオレットは、ジニアの胸に顔を埋めた。しゃくりあげる音はすぐに聞こえ始め、それからそう長くも待たず、彼女の泣き声が部屋に響いた。ヴァイオレットが声を上げて泣いたのは、彼女が覚えている限り片手の指で数えられるほどしかない。近くで慰めてくれる人は、一人もいなかった。皆が彼女を拒み、彼女も皆を拒んだから。

 数分経つと泣き止み、ヴァイオレットは恥ずかしそうにジニアから離れた。無言でしばらく顔を覆う。その耳が僅かに赤に染まっているのは、泣いた恥ずかしさからだろうか。

「…かわいい。」

ジニアがポツリと漏らしたつぶやきに、ヴァイオレットはさらに耳を赤くして風呂へ駆け込んでいった。ばたん、と普段は立てない音を立てて、自分でやったのに驚いてわっと小さく声を上げたのを、ジニアはクスクスと微笑ましく見守っていた。

「…〜!」

笑われていることに気づいたヴァイオレットは、扉の向こうで声にならない悲鳴を上げた。ジニアはヴァイオレットのその慌て具合に、さらに温かい気持ちになった。彼女がここまで感情を出したことは今までになかった。

 ヴァイオレットは、魔法騎士団に入ってから初めて、墓へ足を運んだ。魔法騎士団には専用の墓があり、いつも綺麗にされている。誰が綺麗にしているのかは誰も知らないそうだ。その中に目的の一つを見つけて、ヴァイオレットは花をその隣に供えてしゃがみこんだ。

「お久しぶりです、シャジュマンさん。ずっと来られなくて、ごめんなさい。お墓参りは初めてなので、作法が間違っていたら、ごめんなさい。シャジュマンさんのように戦闘で死んでしまう人がいなくなるように、僕はこれからもっと訓練して、もっと強くなりたいです…いえ、強くなります。どうか、見守っていてください。」

つぶやいて、おもむろに立ち上がる。墓地は本当に綺麗で、ろうそくからも煙が立ち上っている。ふと人の気配を感じて、ヴァイオレットは振り向いた。アイリスと、アルテミスだ。

「お、ラナンキュラスも来てたのか。もしかしてシャジュマン?」

アイリスの声に、ヴァイオレットは無言で頷いた。アイリスはそっか、と言って振り返り、アルテミスを見た。アルテミスはその視線を受けて、無言で前に出る。ヴァイオレットは無意識のうちに姿勢を正した。ついでに、自分の服装を見て乱れているところをさっと直す。アルテミスは数秒沈黙を作り、おもむろに口を開いた。

「お前の近くで戦っていたから、おそらく心への負担も大きいだろう。だが、この世界ではこれが当然だ。慣れろ、とは言わないが、暗い空気を仲間内に持ち込むな。もう一ヶ月も経つんだ。」

ヴァイオレットは、目を伏せた。彼の言い分は頭では理解できるが、心では理解できていないのだ。アイリスはそれを悟ったのか、アルテミスが次に口を開く前にさっと割り込んだ。

「心の整理はつきにくいだろうけど、切り替えることが大切なんだ。頭ではわかっているんだろう?」

ヴァイオレットは、再び頷いてちらりと二人を見上げた。二人共穏やかな笑顔を浮かべている。それでも、シャジュマンのことは悲しいのだろう。でなければ、墓参りなど来ない。ここは、寮から徒歩で数時間、もしヴァイオレットが全力で走っても、数十分はかかるのだから。

「はい。すみません。」

答えて、ヴァイオレットはシャジュマン以外の人の墓にも花が供えられていることに気づいた。しかしなにも言わずに視線を落とす。

「そろそろ帰るぞ。」

アルテミスの唐突な言葉に、アイリスは唖然として一瞬言葉を失った。ヴァイオレットも意図が理解できず、首を傾げる。

「アルテミス、急にどうした。」

アルテミスは答えず、くるりと身を翻した。当然、アイリスはそれを止めて理由を聞こうと振り向かせる。

「まだ花も供えてないだろ!なにやってんだよ。」

アルテミスは少し迷惑そうな顔をしながら、ヴァイオレットが供えた花を指さした。アイリスはその動作にため息をつく。

「あのなぁ…それはラナンキュラスが供えたやつだろ!花はいくつ供えてもいいし、こいつらには今の状況の報告もしなきゃだろうが…」

アルテミスが首を傾げてヴァイオレットを指さしたので、アイリスは頭を抱えた。

「ラナンキュラスはただの墓参りだ…俺らは報告だろうが…」

理解しようとしているのかそれとも理解できていないがとりあえずなのか、アルテミスはすっとシャジュマンの墓の前にしゃがみこんだ。そして口を開く。

「シャジュマン、お前が守ったのは市民の命だ。お前が守りたかったものは守れた。お前が倒したかった奴らも、お前が守った命で倒される。だから、安心して眠れ。」

ぽん、ぽん、と肩を叩くように、アルテミスは墓石を軽く叩いた。アイリスはその横で、花を供える。

「見習いたちは、誰も死なせないから。お前のように、立派な騎士になるまで絶対、死なせないから。今回のはかなり有能だから大丈夫だ。」

優しく、本人がその場にいるように、語りかける。ヴァイオレットは、ふと目を閉じた。

「そういえば、あの任務の次の訓練のとき、一番最初に話しかけてくれたのはあなたでしたね…ありがとうございました。」

ぽろぽろとこぼれ落ちてくる言葉をそのままに、ヴァイオレットは空を仰いだ。白い鳩の後ろに、黒黒としたカラスが空高く飛んでいる。

「あの…」

静かに佇む二人に、ヴァイオレットはそっと口を開いた。二人が同時に振り向いたので緊張を覚えつつも、大きく息を吸う。

「実は、相談したいことがあって…」

アルテミスとアイリスは、顔を見合わせた。

 何気ない会話を挟みながら寮の相談室に場所を移して、アルテミスとアイリスは、見事な意匠の白い机を挟んでヴァイオレットの反対側に座った。ヴァイオレットは何度か口を開こうとしては、首を振って閉じて、また開けて、閉じて、と繰り返していた。二人は、ヴァイオレットの様子に顔を見合わせてうなずき、話し始めるまで辛抱強く待っていた。

「僕、は…増援要請が入ったあの日、戦った記憶が殆ど無いんです。」

アルテミスとアイリスは、はっと息を呑んでヴァイオレットを見た。下を向いているヴァイオレットは、二人の様子に気づかない。

「シャジュマンさんが倒れたのを見て、それから誰のかはわかりませんが、声が近くで聞こえました…視界が真っ赤になって、気づけば魔物は全部倒されていて…」

二人は顔を見合わせた。ヴァイオレットの体験は、信じがたいものだった。しかし、彼女は人に誠実だ。嘘をつくことはない。

「そうか、それで…」

アルテミスの言葉に、ヴァイオレットは身を縮めた。アルテミスに責められるのか、怒られるのか。どちらも、ヴァイオレットにとっては嫌なことだった。それでも明かしたのは、ジニアが人に頼れと、言ってくれたからだった。

「すごかったな、あのときのラナンキュラスは。体力もないだろうに、たくさん魔物を倒していたし。」

ヴァイオレットは息を呑んだ。彼女が予想していたすべての言葉とは反対で、身構えていたところを温かく包みこまれたような、そんな言葉だった。

「しかし、あれは制御できないやつだったのか…」

アイリスの声に、アルテミスは頷いて思考する。ヴァイオレットは、魔法騎士団を抜けろと言われるかもしれない、と目を伏せた。

「その声は、魔物の前だけで聞こえるんだな?」

アルテミスの確認に、ヴァイオレットは無言で頷いた。アイリスはふむ、と頷いて口を開いた。

「なるほど。それに、シャジュマンの死によって声が大きくなったと。怒り、かな?それとも悲しみ?」

ヴァイオレットは、はっとして顔を上げた。真剣な二人の顔が見えて、すっと息を吸う。

「怒り、だと思います。ユルサナイ、と声は言っていたので。それに、魔物を見ると怒りが湧き出てくる気がして…」

アルテミスとアイリスは、納得したような顔をして頷いた。二人同時に口を開こうとして、アイリスが目で譲る。

「怒りを制御できるか?」

ヴァイオレットは息を呑んだ。考えたこともなかったので、一瞬その意味を考えてからすぐに理解する。

「怒りを、制御…ですか?次の任務のときは、注意してみます。」

二人は頷いて、すっと立ち上がった。そしてドアの外に行く途中で手を伸ばす。

「よく今まで堪えたな。相談してくれてよかった。」

とん、とん、と頭を軽く撫でられ、ヴァイオレットは目を見開いた。見上げると、アルテミスの背中がドアの外に消えるところだった。アイリスは部屋から出る前に軽く手を振り、すぐに身を翻して消える。

「怒られ、なかった…?」

ヴァイオレットはぼうっとして二人が出ていったドアを見つめていた。

 次の日、ヴァイオレットは指令を受け取った。ジニアもその紙を覗き込む。

「ヴァイオレット、アルテミスさんについていくことになったのね…相談してよかったわね。」

ジニアの声に、ヴァイオレットは微笑んで頷いた。経験を積めば怒りも制御できるようになるのではないかという、アルテミスとアイリスの配慮だ。今まで騎士見習いは、功績を立てないと騎士になれなかったが、ジニアとヴァイオレットは、五日後の任命式で騎士になることができる。功績というよりも、二人の力量故だ。魔法騎士団の中ではすでに、二人は騎士となっても申し分ないほどに強いのだ。

「騎士としての初任務だ。アルテミスさんは隊長と呼ばなければならないらしい。ジニアとは、合同にならない限りこの部屋でしか会わないということになるな。」

そっか、とジニアは小さくつぶやいた。アルテミスとアイリスの指令に、文句はない。しかし、寂しいものは寂しいのだ。

「氷属団長の任務は、基本的には増援要請対応と重要依頼対応でしょう?そんなに会えないものなの?」

ジニアの疑問に、ヴァイオレットはあぁ、とつぶやいた。そしてぱっと計算して疑問の答えとともに口にする。

「重要依頼は一日に一人につき平均一つかニつが基本、増援要請は数日に一つ。重要依頼の目的地が遠方にあることもあるから、常に万全な状態でいなければならない。一人が倒す魔物の数は、重要依頼だけに絞っても一年で平均して約七百五十体。増援要請は重要依頼がない人、または終わらせてから向かう…少なくとも三日に一日は休日を取れるようにしてあるそうだ。」

ヴァイオレットの早口の説明が終わった頃には、ジニアの目は遠くを見ていた。ヴァイオレットも、今後の忙しさに聞くだけで疲れた目をしている。

「え…そっちはそんなに忙しいのね…こっちは全然よ。増援要請対応と普通の依頼がたまにあるくらい。炎属性は人数が多いから、かなり余裕があるのよ。氷属性は、その予定の多さから察するに、半分くらいしかいないのよね。」

ジニアの言葉に、ヴァイオレットはため息をついた。基本的には二人で一組だから、余計に一人あたりの予定がどうしても多くなる。

「いや、人数はほぼ同じだ。こっちは二人で一組だから、どうしても一人あたりは多くなる。確か、炎属隊の騎士はある程度の功績を立てれば単独任務が多かったはず。もちろん、見習いや騎士になったばかりの人は隊長とか、上官と行動しなければならない。だから、当然シフトに余裕が出てくるんだ。」

なるほど、とジニアは頷いた。そしてふと宙を見ると、ふわりと微笑む。ヴァイオレットはなぜ微笑んだのか不思議に思ったが、とりあえずはなにも言わなかった。

 炎属隊、氷属隊、風属隊、水属隊、土属隊の隊長が全騎士と見習いの前に立っている。全員背筋を伸ばし、微動だにしない。すっと氷属隊の隊長、アルテミスが一歩前に出る。

「騎士見習い、ヴァイオレット=ラナンキュラスを、氷属隊騎士へと任命する。」

嬉しさを押し込めて、あくまで真面目にヴァイオレットは敬礼した。

「はい!」

アルテミスが元の位置に戻ってから腕を下ろすと、服にあたってぱっと音がした。アイリスも一歩出る。

「騎士見習い、ジニア=ツイーディアを、炎属隊騎士へと任命する。」

ジニアもぱっと敬礼をして、ヴァイオレットをちらりと見てウィンクした。

「はい!」

それでも真面目な声が出るのだから、大したものだ。そしてアイリスが下がると、今度は殉職者に黙祷を捧げる。みんなが黙って頭をたれ、手を合わせて仲間の死を悼む。普段は死を悼む暇なんてないから、みんなこの日に悼み、そして日常生活に戻る。それが、常だ。

―ユルサナイ。

小さく声が聞こえて、ヴァイオレットは眉をひそめた。どうやら、怒りでなくともこの声はするらしい。魔物は目の前にいないのに。

―静かにしろ。僕は今、お前を求めていない。お前の出る幕ではない。

心のなかで、強く拒絶する。しかし、声はただ小さくなっただけで、ずっとつぶやいている。

―ユルサナイ。ユルサナイ。ユルサナイ。

―うるさい、なにを許さないんだ。他のことを言ってくれ。

拒絶しても、理由を聞いても、ずっと言葉を変えずにつぶやく。ヴァイオレットはそっと眉をひそめて、その声から意識をそらした。この声を無視する技術も必要そうだ。

「やめ。解散。」

事務的な声は、アイリスのものだ。今年は、炎属隊員の命が最も多く散っていった。彼はすべての隊員の顔を、名前を、覚えている。それでもこんな声が出せるのは、切り替えが素早いからだ。そうしないと、心が折れてしまう。

 ヴァイオレットは帰ろうと他の隊員たちの流れに沿って歩き始めたが、視線を感じて気配を探った。

「ラナンキュラス。」

直後聞こえたアルテミスの声に、ヴァイオレットはほっとして立ち止まり、振り向いた。隣には、アイリスとジニアもいる。

「単刀直入に言う。基本的には、俺たち四人は一緒に行動する。」

アルテミスは急いでいるのか、サラリと用件を告げた。アイリスもなにも言わず、にこにことしている。

「はい…え? 一緒に行動するんですか?」

急に告げられた彼女にとっては重要なことに、驚いて思わず聞き返してしまった。アルテミスとアイリスの後ろでジニアがいたずらが成功したような顔をしているのを見て、彼女がなにかしたのだと悟る。

「いや、ジニアに働きかけられてね。」

アイリスの言葉にやはりと思っていると、ジニアも口を開いた。

「えぇ。だって私、回避能力は高いけど戦闘能力は低いんですもの。だから、特例として一緒にいることを認められましたの。もちろん、戦闘能力が低いというのは、他の騎士たちに比べて、よ。」

ヴァイオレットは、ジニアのさっきの微笑みにやっと納得した。それと同時に、彼女の行動力に驚く。

「まさか、そっち方向で来るとは…」

ヴァイオレットのつぶやきに、ジニアは再びにっこりと微笑んだ。有無を言わさない微笑みに、おそらくアイリスとアルテミスは負けたのだろう。もしかしたら、隊長よりも上の団長にまで掛け合ったのかもしれない。

「忙しくなるけど、いいのか?」

ヴァイオレットの問いかけに、ジニアは微笑みを絶やさないまま頷いた。アイリスとアルテミスは、その隣で苦笑している。

「えぇ! 私が本来よりもたくさん働くことを条件に、これを許可してもらったの!」

ヴァイオレットは、ついに頭を抱えた。ジニアはどうやら、ヴァイオレットよりも無茶をするようだ。体力がついたとはいえ、他の騎士たちよりも体力が少ないヴァイオレットには、その体力に見合わない量の任務は来ないだろう。ジニアは、ヴァイオレットよりも体力があるという自信があってこの条件を出したのだ。ジニアはヴァイオレットよりも頭が回るらしい。

「ジニア…尊敬するよ。」

ヴァイオレットのつぶやきに、ジニアは微笑んだままでありがとう、と言った。ヴァイオレットが長々とため息をついたのは、無理もないことだろう。

 任務中の主な戦力は、ヴァイオレットだった。彼女が怒りに慣れるために任務にを始めたというのもあるが、彼女の魔法の精度、威力ともにこの中で一位二位を争うからだ。今日も今日とて、魔物を狩る。

「おつかれさま、ヴァイオレット。どう、調子は。」

ジニアが声をかけると、ヴァイオレットは消える魔物から目を離してジニアに微笑みかけた。

「ありがと、ジニア。うん、だいぶ制御できるようになった…多分。」

ヴァイオレットの周りには、数体の魔物が地面を踏み荒らした跡があった。数体の魔物を見ても声が大きくならなくなったのはつい最近のことで、彼女にとっては大きな進歩だ。

「動きもだいぶ慣れてきたな。」

アルテミスの言葉に、ヴァイオレットは軽く頭を下げた。帰るために馬を出す。訓練の賜物で、ジニアも馬を出せるようになっていた。夕日のような真っ赤な体と、炎のように揺らめくたてがみが自慢で、ジニアはエルドと名付けていた。しばらく馬に揺られていると、そういえばさ、とアイリスがつぶやき、三人とも彼に目を向けた。

「アルテミスって、色恋沙汰聞かないよね。少しくらいあってもいいと思うんだけど。」

アイリスの少し面白がるような声に、アルテミスはふん、とそっぽを向いた。ジニアも面白がるようにアルテミスの顔を覗き込む。ヴァイオレットは興味がなさそうにぼうっとしていた。

「別に。恋をしたことはないし、しようとも思わないな。」

アルテミスの仏頂面に、ジニアは吹き出しそうになるのをこらえていた。アイリスは唖然としてアルテミスを見ており、ヴァイオレットはいまだに興味がなさそうに目を閉じて体を休めている。俗に言うカオスである。

「たしかアルストロメリア教官には恋人がいましたよね、故郷に。」

アイリスはぎょっとしてジニアを見た。ジニアは相変わらず楽しそうに微笑んでいる。いつもとは違うような気がするのは、ヴァイオレットだけではないはずだ。

「なぜそれを…」

慌てているアイリスに、ジニアはくすくすと笑った。アルテミスも僅かに口角を上げている。

「帰省期間や休暇には絶対に女性向けのお土産をいくつか買ってるの、知っていますよ?髪飾りとか。ごまかすように、家族向けのお土産も買っているみたいですけど。」

ジニアの具体的な話しに、アイリスは腕を組んで唸ってしまった。アルテミスは俯いているが、よく見れば肩が震えている。ヴァイオレットはすでに船を漕ぎ始めている。器用なものだ。

「なんで知ってるんだ…美女の特権か…?」

ぐぅっと唸り、アイリスは黙りこくってしまった。反対に、ジニアはニコニコと勝利のほほ笑みを浮かべている。ふと寝ているヴァイオレットを見ると、とん、と肩を叩いた。

「ヴァイオレット〜!」

ジニアの声に、ヴァイオレットはぱっと目を覚ました。そして、嫌な予感に少し身をこわばらせる。

「どうした、ジニア。」

僅かに動揺を含んでいる声に、ジニアは有無を言わさない顔で微笑んだ。ヴァイオレットはジニアとの距離を僅かでも保とうとしたのか、背を反らせる。

「ヴァイオレットには、恋愛経験、ありますの?」

れんあいけいけん、と繰り返して、ヴァイオレットはしばらく考え込んだ。ジニアはヴァイオレットに逃げさせないためか、じっとそばにいる。

「れんあい?あ、恋愛か。な、い。」

少し詰まるような言葉に、ジニアは微笑んでヴァイオレットの肩に手をおいた。ヴァイオレットは圧力に負けて顔をそらす。

「本当は?」

ふるふると震えながら、ヴァイオレットは、ないと再度つぶやいた。しかし数秒後、ジニアの微笑みの圧力に負けて口を開く。

「昔…魔物から、助けてくれた人…子供をかばったとき…さっそうと、青い馬を駆って助けてくれたんだ。」

ずるっと馬からずり落ちそうになった音に、ジニアはピクリと耳を動かした。情報収集のために鍛えられた聴力が、今回は彼女に面白い情報を与えてくれる。

「よく覚えてないけど、しばらくはその人の姿が頭から離れなくて…顔は見れなかったけど、優しかった、と思う。今は、そ…」

今度はごん、と音が聞こえて、ヴァイオレットは言葉を止め、ジニアは笑いをこらえた。アイリスとアルテミス、どちらなのかよく分かる。少し待つと、音を立てた人の声が聞こえてきた。

「お前っ人の顔を忘れるなんて、馬鹿なことを…!」

アルテミスの怒鳴り声に、ヴァイオレットはきょとりと首を傾げた。ジニアはふるふると肩を震わせながら二人の間から抜ける。

「えっと…?どうしてハーデンベルギア教官が…?」

ヴァイオレットの心底戸惑った声に、アルテミスはさらに声を荒げた。

「そ、それは…!お前、本当に覚えてないのか!」

ヴァイオレットは固まった。本人の前で言ってしまったことと、本人が実は目の前にいることに気づいてしまったのだ。

「え…あ、ハーデンベルギア教官だ。」

気の抜けるような返しに、皆思わず苦笑した。それと、とヴァイオレットが続けたのに、アルテミスはぱっと彼女を見る。

「えっと、昔は恋してたと思っていたんですけど、今となっては尊敬、のほうが強かったのかな、と。」

皆がへ、と気の抜ける声を出した。さっきまでは恋愛の話だと思っていたのに、ただの尊敬の話しをしているのだ。

「そう、なの…」

ぐったりとしたジニアにヴァイオレットは首を傾げた。そしてアルテミスは、アイリスに肩をとん、とん、と優しく叩かれながらため息をついている。

「とりあえず、帰りましょうか…」

一人は頭の上にはてなマークを浮かべており、その他三人はぐったりと気疲れしているというカオスな状況に、出迎えた騎士たちは首を傾げていた。

 曇っているせいで暗い部屋の中で、アルテミスとアイリスは魔物の出没数を見て眉をひそめていた。彼らは今、氷属団長室にいる。基本的には団長以外の誰も入ってこないので、団長以外に聞かれたくない話しにはもってこいの場所だ。

「多くなってるな…なんの前兆だと思う、アルテミス。」

少し前まではもう少し個人の任務数に余裕があったのに、ここ数ヶ月は任務数が二倍にまで膨れ上がっている。

「魔王が復活、するかもしれないな。」

アルテミスのつぶやきに、アイリスもやはりか、とつぶやいた。魔物は魔王が統制しており、作り出しているのだとされている。この話は団長しか知らない。知らせてはいけないという規則はないが、知らせれば魔物に家族や友達を奪われた騎士が直ちに討伐に向かうだろう。それは、相手の能力がわからないうちは無謀というものだ。

「くそ…」

アルテミスが思わずこぼす。アイリスも、なにも言わなかった。ちらりと窓から空を見るが、最近はずっと曇っているせいであまり気分転換にはならない。

『魔王が復活したときは、あれが一番よ。わかっているわね?』

二人の間の机の上にいる小さな紙の鳥がつぶやいた。静かだが、有無を言わさない雰囲気に、二人はぐっと唇を噛む。頷いて、話を進めた。

 鳥が部屋から飛び立ってから、二人はほぼ同時に机を拳で叩いた。表情は険しく、ぎりりと強く唇を噛んでいる。

「くっそ…」

アイリスがぼそりとつぶやく。静かな室内にどっしりと降り立ったその言葉は、沈黙をさらに重くした。もとから薄暗かったのに夕立が降ってきて、部屋はさらに暗くなった。

「魔王復活までは、せめて…」

アルテミスのつぶやきに、アイリスはなにも言えなかった。ざぁざぁと、雨が降り始めた。その音は、二人を重く包み込んだ。



第五章 魔王の策略

 一日休んで、ヴァイオレットは任務に向かおうと身支度をしていた。日も昇っていないので準備はしなくても良いのだが、ふと目が覚めてしまったのだ。時計の針は、まだ四時前をさしている。

「まだ日も昇ってないの?なぜか起きてしまったのよ。ヴァイオレットも?」

ジニアの声に、ヴァイオレットははっと顔を上げた。ジニアも起きてしまったらしく、ベッドから身を乗り出している。普段はこんな時間に起きないはずのジニアも起きていることにさすがに不審に思い、うなずきながらヴァイオレットは周囲の気配を探った。しかし、特に不審な気配はない。しかし。

「嫌な感じね。」

いつもは微笑みをたたえている顔が、僅かに不安をにじませている。それを悟り、ヴァイオレットは確信した。

「あぁ。今日は、なにかある。」 ジニアはベッドから降りてきて、窓の前の椅子に座った。ヴァイオレットも、その隣の椅子に座る。空はどんよりと曇っていて、星はおろか、月の光さえ見えない。

「本当、嫌な感じがするわ。」

ジニアがもう一度つぶやいた。それに同意するように、ヴァイオレットは、曇っている空を睨んだ。

 ヴァイオレットは、今日は久しぶりに休暇をもらっていた。彼女が望んだわけではない、上層部の決定だ。鳥を使って言い渡されただけである。鍛錬もするなと言われてすらいる。休暇ではない、別の意図を感じるのはヴァイオレットだけではないはずだ。

「今日は暇ね。」

ジニアも今日は休暇をもらっている。二人で部屋の中で話していたのだが、話すこともほぼなくなってしまった。

「本当、なんでこんな休、か…!」

突如、本能が警鐘を鳴らした。二人は窓の外をちらりと見て、はっと息を呑んだ。灰色だった雲が、今は禍々しい黒に染まっている。光が全く届かない、暗闇になった。それがわかったのは、魔法のおかげで明るい部屋の中にいたからである。

「ジニア、僕から離れないで。鳥を飛ばそう。」

ヴァイオレットの魔力が多いとはいえ、無尽蔵ではないので、ジニアが紙の鳥を飛ばした。これまた休暇をもらっている、アルテミスとアイリスのところへ行ったはずである。二人は窓の外を睨みつけ、しばらく微動だにもしなかった。  返事が返ってきたのは、四時になってすぐだった。ずいぶんと時間がかかったように思えるのは、二人が緊張していたからだろうか。

『このあと、休暇中の者のみ本堂に集められる。その時に状況説明を聞け。』

手短に伝えられた言葉に、二人はちらりと目を合わせて頷いた。本堂はあまり遠くないので、着装を整えても十分なほど時間はある。  

二人が本堂に行くと、五〜六十人の騎士たちが集まっていた。着装は整っており、ヴァイオレットは服装を整えたことは正解だったのだとほっとした。後ろに二〜三人続いており、全員整列したところでアイリスとアルテミスが壇上に立った。しん、と静まり返る。誰もが、この異常事態への説明を待っていた。

「緊急事態により、簡潔に説明する。魔王が復活した。」

アルテミスの言葉に、衝撃が走った。風属性の騎士の誰かが風を吹かせてしまったらしく、突風に一瞬髪がそよぐ。アルテミスは、淡々と続ける。

「魔王というのは、魔物を生み出している存在だ。能力も未知数であるため、隊長以上の地位の者のみが知る情報になっていた。今までは完全に姿を現したことはなかったが、今、地上に姿を表した。」

魔王に対して家族を失った恨みをぶつけようとする者もいれば、どのくらいの力量を持っているのかと考える者もいる。ジニアとヴァイオレットは、顔を見合わせた。おそらく今日の早朝に感じ取った嫌な予感、それが魔王復活だ。アルテミスは口を閉じ、アイリスが続きを話す。

「これに伴い、討伐隊を編成する。重要なことなので、団長自らが来られた。主要メンバーに選ばれた者は、このあと団長室に来るように。」

二人は、それだけ話すと整列している騎士の前に並んだ。カツン、と二人が立ち止まった音の後は、静寂が降りた。しかしそれは、アルテミスたちの前に歩いてきた女性の声によって破られる。

「休暇中ではありますが、よく来ましたね。私が、団長のプロテア=ツイーディアよ。」

騎士たちがざわめいた。口に出したわけではない、気配がざわめいたのだ。隣のジニアが、はっと息を呑んだ。

「魔王復活に伴う魔王討伐隊メンバーに呼ばれた者は出てきなさい。リーダー、アルテミス=ハーデンベルギア。副リーダー、アイリス=アルストロメリア。」

二人は背筋を伸ばし、数歩前に出た。次は誰が呼ばれるのか、と皆耳を澄ます。 「戦闘員、ヴァイオレット=ラナンキュラス。斥候員、ジニア=ツイーディア。」

皆の視線が二人に向いたのがわかった。緊張しながらも前に進み出る。

「治癒員、エリカ=アマランス。」

どこかで聞いたことのあるような名前が出てきて、ヴァイオレットとジニアはそれぞれの心のなかで記憶をたどっていた。前に進み出てきた女の子は、濃い紫色の髪をポニーテールで揺らしていた。横顔が少ししか見れなかったが、美少女なのだとわかる。

「汝らを、魔王討伐隊に任命する。また、出発は二日後である。心して取り掛かるように。」

「御意。」

プロテアの言葉に五人の声が重なった。声も可愛らしいエリカは、わずかに微笑んでいた。  

出発が二日後と急であるため、急いで準備していた。そんな中で、エリカはヴァイオレットとジニアの部屋を訪れていた。

「エリカ=アマランスよ〜。よろしくね〜。」

柔らかな微笑みとともに自己紹介をするエリカに、ジニアも釣られるように微笑んだ。

「ジニア=ツイーディアよ。こちらこそよろしくお願いします、アマランスさん。」

エリカはジニアにペコリとお辞儀をすると、きょろきょろと部屋の中を見渡した。荷物もまとめられ、ずいぶんと少なくなっている。

「エリカと呼んでね〜。ところで〜、ヴァイオレットは〜、どこにいるの〜?姿が見えないけど〜。」

ジニアは苦笑して、たしか、と窓を見た。そこには竜胆が一本だけ、花瓶に飾られていた。

「魔法騎士団のお墓参りよ。」

エリカは首を傾げて窓の近くの竜胆を見た。そして、納得したように頷く。

「なるほど〜。恋人でも〜、いるんだっけ〜?」

エリカの問いに、ジニアは首を横に振った。しかしエリカは納得していない様子で、少し興味深そうに竜胆の花を見ていた。

「竜胆の花言葉は、『誠実』と『勝利』、『正義』。勝てるように、という願掛けなのだと思うわ。」

ジニアの言葉に、ふぅん、とエリカはつぶやいて窓の外に目を向けた。なにを言おうとも、彼女は納得しないのだろう。年頃の女の子らしいな、とジニアは苦笑した。その瞳の鋭さにも、気づくことなく。

 ヴァイオレットは、エリカの訪問を知ることもなく魔法騎士団の墓を歩いていた。手には、近くで摘んだ竜胆の花を持っている。墓石の一つにシャジュマンの名を見つけて、ヴァイオレットはゆっくりと腰を下ろした。

「これは、竜胆の花です。たまたま近くに咲いていたんですよ。」

話しながら、優しく置く。そして、練習してきた笑みを披露した。いつも微笑んでいるジニアに協力してもらったのだが、それでもまだ僅かに強張っている。

「笑うのも、練習したんですよ。まだうまくはできませんが…それから、明後日から魔王討伐に行きます。僕は戦闘員で、ジニアは斥候員です。ハーデンベルギア教官はリーダーで、アルストロメリア教官は副リーダーです。治癒員はエリカ=アマランスという方です。僕は、魔法騎士団は、きっと勝ってきます。だから、安心して見ていてください。」

頭を下げて、すぐに立ち上がる。竜胆の花を数秒眺めて、すぐに背中を向けた。風が彼女の背中を押すように優しく吹き、漆黒の髪を舞い上がらせた。ヴァイオレットは、足を強く踏みしめながら歩き始めた。

 部屋の中に見知らぬ気配を感じて、ヴァイオレットは剣に手を添えながら扉を勢いよく開いた。

「ジニア!」

え、と小さく声を漏らして振り向いたのは、ジニアだった。その隣には、目を見開いてヴァイオレットを見るエリカがいた。

「アマランス、さん?」

ヴァイオレットが確認するように小さく問いかけると、エリカは小さく頷いた。ジニアはにこりと微笑み、問いかける。

「ヴァイオレット、どうしたの?なにかあったの?」

心配そうな声に、ヴァイオレットは小さく首を振った。剣から手を離し、なにもなかったかのように口を開く。

「いや…急いで準備したいが、なにから準備すればいいのか聞こうと思って。」

ジニアは訝しむようにヴァイオレットを数秒見ていたが、意見を変えないヴァイオレットに折れたのだろう、ふわりと笑って頷いた。

「後でリストを作りましょう。」

ヴァイオレットは、うん、と頷いた。エリカはまだ不思議そうな顔をしていたが、二人の間でなんとなく解決したのを見て、なんとなく理解したような、していないような、よくわからない顔をしていた。

「私のことは、エリカと呼んでね! ところで、えっと〜…? ヴァイオレット、であってます〜?」

エリカの確認に、ヴァイオレットは頷いた。そして小さく首を傾げる。

「どうかしましたか?」

エリカはぷくり、と頬を膨らませて、じっとヴァイオレットを見た。ヴァイオレットは、驚いてエリカを見る。

「こんな仏頂面の人だったなんて…憧れてたのに…」

失礼ともとれるその言葉にジニアは言い返そうとしたが、ヴァイオレットのほうが早かった。

「すまない…この表情は昔からだ。」

微妙にずれている答えに、エリカは唖然とした。ジニアは、苦笑して額に手を当てる。

「エリカ…ヴァイオレットは最初からこんな子だったでしょう?気にしないであげて。」

ジニアはフォローしようとしたのだろうが、ヴァイオレットは不満顔を作った。 「こういう子ってどういうこと?」

本気ではないだろうが文句をいうヴァイオレットの背中を、ジニアはぽん、ぽん、と軽く叩いた。

「まぁまぁ。いいじゃない、そんなこと。小さなことを気にしていると、あとで大変よ?」

そうなのか、と納得するヴァイオレットに、ジニアは頷く。エリカは、本当に不思議なものを見るような目で二人を見ていた。

「え…? 強い人のほうが、なんか翻弄されてる?」

その声は、二人には届いていなかった。

 五人で身支度を整えて街に出ようとした時、ルピナスとジーリッシュ、ペステが駆け寄ってきた。真剣な顔をしており、もう嫌がらせをするつもりはないようだ。

「ラナンキュラス。今まで、本当に悪かった。」

ルピナスが最初に口を開き、ジーリッシュとペステが続く。

「俺達はここで待ってることしかできないけどよ、頑張れよ。」

「絶対生きて帰れよ。言いたいことがあるんだ。」

ペステが顔を赤くしているのを見て、ヴァイオレットはよくわからないながらも小さく笑って頷いた。ジニアも横から微笑んで見ている。

「あぁ。待っていてくれ。絶対に、魔王を討伐して、生きて帰ってくるから。」

ジーリッシュが、ヴァイオレットに右手を差し出した。ヴァイオレットが戸惑っていると、ジニアが助け舟を出してくれる。

「握手よ、握手。

」 なるほど、とつぶやいて、ヴァイオレットは握手に応えた。ルピナスとペステも同様に握手をする。その手はとても温かくて、ヴァイオレットは笑みを深めた。そして、歩き出したアルテミスとアイリスに続いて街に続く門をくぐる。

「頑張れよー!」

「待ってるからなー!」

「絶対に生きて帰ってこいよー!約束だかんなー!」

三人の応援が、ヴァイオレットの背中を押す。ぐっと顔を上げると、騎士団の皆が見送りに来ていた。さらに、王都から来たのだろう、立派な衣装をまとった団体がトランペットやシンバル、太鼓を持っている。そのすべてを認識した時、ファンファーレが響き渡った。さて、出立しよう、というとき、ヴァイオレットははっとして顔を上げた。そして、遠くに高くそびえる山を見据える。他のメンバーも気づいたようで、山を鋭く見据えていた。ファンファーレが鳴り止み、見送りに来た人も、何かを感じて水を打ったように静まり返っている。

「アルテミス!」

「! ああ。俺らが出たら門を閉めろ! 騎士団は一般人を守れ! 魔物が出たら即座に討伐! 自分の実力よりも高い魔物とは戦うな! 複数人で組を作れ!」

一瞬反応が遅れたものの、アイリスに促されて、アルテミスはすぐに指示を出した。

「戦地を駆け巡るは氷の友! リエス・パートナー! 行くぞ、ケルレウス。」

「戦地を駆け巡るは炎の友! エルド・パートナー! 行くよ、ブレイズ。」

「戦地を駆け巡るは魂の友! ソウル・パートナー! よろしくな、シエル。」 「戦地を駆け巡るは心の友! イグニス・パートナー! 行くわよ、エルド。」

それぞれが馬を呼び出す。治療に特化しているため、馬を呼び出すことができないエリカは、アイリスの後ろに乗る。

「それぞれ、絶対に死ぬな! エリカ、山に着いたら、ジニアの後ろに乗れ!」

「「「「はい!」」」」

声が重なる。四頭の馬は、一斉に走り出した。赤色と青色に一瞬見とれていた騎士たちは、すぐに行動を開始した。  ガシャン、と外門が降ろされた音に、ヴァイオレットは一瞬目を閉じて、すぐに大きく開いた。きちんと見ていないと、魔物が攻撃してきたときにわからない。

「深追いはするな! 魔王討伐のために、魔力は極力使うな!」

「はい!」

カカッカカッと蹄の音を響かせながら、山へ近づく。

「あれは…多すぎる。」

アルテミスは、ぼそりとつぶやきを漏らした。ヴァイオレットも絶句してそれを見る。山は、うごめく魔物に覆われていた。木々は枯れており、落ち葉すら見えない。

「いつの間に…」

後ろから追いついてきたアイリスが、ぼそりとつぶやいた。ジニアはその禍々しい雰囲気に飲まれて、固まっていた。

「ジニア!」

ジニアの様子に気づいたヴァイオレットが、鋭く声を掛ける。ジニアはその声に、我を取り戻して手綱をしっかりと握った。

「突入するぞ! ヴァイオレットは後衛、魔王討伐まで体力温存! 俺が前衛、アイリスが続け! エリカとジニアはヴァイオレットとアイリスの間で、怪我をした人の治療! 行くぞ!」

「「「「はい!」」」」

全員で頷いて、馬を駆る。いつの間にか、エリカはジニアの後ろに乗っていた。

―ユルサナイ

声が聞こえた。ヴァイオレットは小さく首を振って、それを抑える。

「お前の出番は、魔王と相対したときだ。黙っていろ…!」

小声で叱るように呟けば、声は小さくなった。ほぼ聞こえないが、それでもユルサナイ、と言っているのがわかる。

「来たぞ!」

声とともに、アルテミスの氷が宙を舞った。一瞬で魔物は倒されて、氷が顔に当たる。山なので足場は悪いが、魔力をできるだけ消費しないために馬は浮かせてはいない。

「アイリス!」

何回か倒した後にアルテミスが叫べば、アイリスが入れ違いになるように前に出た。その見事なコンビネーションに、二人は本当に仲が良いのだと理解する。

「エリカ、アルテミスの治療!」

ジニアがエリカに声を掛けると、エリカはすぐに発動させた。

「川のように水に流して! フリーガ・リントゥ!」

アルテミスを、淡い水色の光が包み込む。アルテミスはアイリスに声をかけて、すぐに交代した。主に広範囲で攻撃するのは、氷属性の得意技だ。炎は火力が強い代わりに、あまり広範囲攻撃ができないのだ。

「アルテミス、無理はするな!」

アイリスが声を掛けると、アルテミスはちらりと振り向いて頷いた。青い髪が風になびいて、氷の粉と混じった。その中に朱色を見た気がして、ヴァイオレットはひっそりと顔をしかめた。彼は強いのだから、両親のようにならないと心のなかで自分に言い聞かせる。  禍々しい気配に満ちた城の建つ頂上にたどり着いたのは、一時間も後だった。山にいる魔物はすべて彼らに襲いかかってきたので、もう魔王の側近たち以外はいないだろう。

「気配が…一つしかない?」

ジニアが思わずつぶやくと、アイリスも眉をひそめて頷いた。エリカの声がしない、と思って振り返ると、彼女はそびえ立っている城を、目を細めて見ていた。

「三つ、約束してくれ。一つ、無理をしない。二つ、仲間を気遣え。三つ、必ず生きて帰れ。わかったな。」

「「「…! はい!」」」

生きて帰れ。アルテミスの言葉に、皆再び覚悟を決めた。しっかりとした光がそれぞれの瞳に宿るのを見てアルテミスは頷き、馬を降りた。

「この後は建物の中に入るから徒歩で行く。体力がなくなった者は、すぐに言え。行くぞ!」

無言で頷いて、歩き始める。その城の静けさに、誰もが不気味だと感じていた。  城の中はぼろぼろで、これでいいのか、と思うほどだった。いわゆる魔王城なのだからイメージ的にはあっているのだが、なぜこんなぼろぼろのところに住んでいるのだろう。住むならば、清潔なところのほうが良かったのではないだろうか、とヴァイオレットが思考を巡らせているうちに、謁見の間まで来ていたようだ。

「覚悟はいいか。」

アルテミスの短い問いかけに、皆大きく頷いた。

「行くぞ!」

勢いよく扉を開ければ、そこには怪鳥がいた。禍々しい色合いで、ギャーッと鳴いている。

「「炎の軌跡は空高く、その獲物へとまっすぐに。フレイム・アロー!」」

示し合わせているわけではなかったが、アイリスとジニアの声が同時に響いた。 「お前ェ…よくもォこのォトネリコ様のォ翼をォ焼いてくれたなァ!」

怒鳴り声と同時に、たくさんの羽が飛んできた。ジニアがはっとして、叫ぶ。

「敵を妨げ活路をひらけ。ファイヤー・ウォール!」

カカカカカッと羽が結界に当たる音がして、エリカは身を縮こませた。ヴァイオレットは、そんなエリカを後ろにかばう。

「大丈夫、あの三人は、強いから。」

安心させるように小さく呟いても、エリカの体の力は抜けなかった。強くても魔王には叶わない、そう思っているのだろう、とヴァイオレットは思う。

「ヴァイオレット! 交代しろ!」

抑えきれなくなったアルテミスが、叫ぶ。見れば、ところどころに血が滲んでいた。結界を張っても、いくつかはすり抜けてしまったらしい。

「はい! みんな下がって!」

―ユルサナイ!

心の声に、耳を傾ける。

「許さない…ユルサナイ!」 心の声と同時に叫ぶと、視界が赤みがかった。しかし、理性を保ってそれを制御する。

「戦場を疾く駆け巡れ、血の滴る獲物はすぐそこに。グレイシャル・ウォルブス!」

呪文を詠唱する。その間にも、トネリコは羽を飛ばしている。狼が、羽とトネリコに食らいついた。

「ふん、狼か…」

トネリコはいとも簡単にそれを払いのける。だが、本命は狼ではなかった。

「走れ鷹よ、空を飛べ! ソコール・ミチオール!」

ヴァイオレットの出せる、最大級の鷹がトネリコに向かっていった。その姿は、この地に降り立った鳥の神のようで、皆目を見開いた。

「ギィャァーッ!」

最後まで汚い声で、トネリコは消え去っていった。あまりにもあっけなくて、ヴァイオレットは思わず首を傾げる。しかし最大級の鷹を出したせいか、わずかにふらついた。支えようとしたのか、駆け寄ってきたエリカに目を向けた。

「危ない!」

唐突にアルテミスがエリカとの間に入ったので、ヴァイオレットは目を見開いた。一瞬アルテミスの体がこわばり、崩れそうになるのを慌てて支えて、耐えきれずに自分も崩れ落ちる。

「エリカ…?」

思わずつぶやく。エリカは、短刀を持っていた。漆黒で、テカテカと光っている。切っ先が奇妙に曲がっている。そのせいで、抜くときにより大きな傷跡になるのだろう、と予想できた。

「アハハハハッ! だ〜れも気付かないんだもの! 驚いちゃったわよ!」

皆が絶句した。彼女の声がしんとした城の中で響く。しかし、よく考えればわかったはずだ。エリカに反応して、ヴァイオレットはジニアを助けようと警戒して部屋に入った。馬を作ることができなかったのは、実力が足りないからではない、作れば、水色ではないのでばれてしまうからだ。

「ヴァイオレットには初対面で魔王だってばれたかと思ったけど、案外思い込みってすごいわよね! あ、苦しんでる! アハハハハッ!」

狂ったように笑うエリカに、皆絶句した。ヴァイオレットだけは、半分はなくなっている魔力を彼女に向けて放つ。

「すべてが凍る、銀世界…氷の精よ、静寂を…!アイス・シュティレ!」

低く叫んで、全力で相手に魔力を叩きつける。しかし、エリカは片手を軽く払うだけでそれをいなした。

「「炎の軌跡は空高く…!?」」

ジニアとアイリスに至っては、呪文を唱え終わる前にそれを消されている。練り上げた魔力を消すのはかなり大変な技なのに、軽々とこなすエリカはさすが魔王、と言ったところか。

「…、飛べ。ソコール・ミチオール…!」

アルテミスの、苦し紛れの大きな鷹がエリカに向かう。しかしそれは、ヴァイオレットのものよりも遥かに小さかった。当然だ、魔法の制御に関しては彼のほうが上手なのかもしれないが、魔力量で言えばヴァイオレットのほうが遥かに高い。たとえ彼が万全な状態で、全力で鷹を出したとしても、ヴァイオレット全力の半分にも及ばないだろう。

「鬱陶しいわ。さっさと消えてちょうだいな。デビル・エルシオン!」

「悪魔を砕き、平穏を! ラヴィーニ・ウォール!」

エリカが唱えた、人間を粉々にする魔法を、防御魔法で受け流そうとする。しかし、その威力はヴァイオレットの想定よりも高く、全員が一瞬で血まみれになり、崩れ落ちた。

「アハハハハッな〜んだ、ただの蠅じゃない。さて、残るはヴァイオレット、あんたね。デビル・アーミー!」

エリカが呪文を唱えた瞬間に地鳴りがして、ヴァイオレットは目を見開いた。一気にその場が暗くなったかと思えば、エリカの周りには大量の魔物がいる。

「逃げ、ろ…!」

アルテミスの言葉に、ヴァイオレットは首を振った。

「逃げて…!」

「逃げろ…!」

アイリスとジニアも、同じように声を絞り出してヴァイオレットに叫ぶ。しかし、ヴァイオレットは逃げなかった。仲間を捨てて、逃げられるわけがなかった。

「戦地を、駆け巡るは…心の、友…イグニス・パートナー。」

ジニアの突然の詠唱に、ヴァイオレットは目を見開いた。

「エルド…みんなを乗せて、逃げて…」

アイリスとアルテミスが絶句したのが、気配で伝わってくる。ヴァイオレットはジニアにしがみついた。ジニアが顔をしかめたのを見て怪我に触れてしまったのだと思い、パッと離す。その途端浮遊感を感じて、ヴァイオレットは手足をばたつかせた。エルドにくわえられていた。

「やめて! 離して! ジニア!」

ジニアは一瞬目を閉じて、大きく息を吸って開いた。その表情が冷酷なものに変わり、ヴァイオレットは息を呑む。

「今の、あなたの、役割は…エリカ…魔王の、情報を…伝える、ことよ…行って!」

ジニアの振り絞るような叫びが、魔物の雄叫びにかき消される。エルドは、いつの間にか走り出していた。その背中には、アイリスとアルテミスも乗っている。しかし、気を失っているようだ。彼らなら猛反対するだろうから、ジニアがどうにかして気絶させたのだろう。

「やだ! やめて! エルド! 離して!」

何度言っても襟を離さないエルドに、ヴァイオレットは唇を噛んだ。だらんと手を垂らす。

「ごめんなさい!」

剣を抜いて、エルドの体に思いっきり突き立てた。バランスを崩して、アルテミスとアイリスをかばいながら倒れ込むのを目の端で見ながら、襟を剣で切る。地面に降り立つと、怒りで体中が熱くなるのがわかった。それが誰への怒りなのかはわからないが、今は関係ない。

「シエル!」

怒りのままに叫び、現れた飛び乗る。パキパキと音がして下を見ると、シエルの走っているところは凍っていた。それは気にせず、全力で走らせる。  

馬を使ってたどり着いた広場は、魔物で埋め尽くされていた。ジニアは結界を張ってぎりぎりまで耐えようとしているようだった。しかし魔力が切れたのか、倒れ込む。

「ジニア!」

「ガアァァァッ!」

ヴァイオレットの声と、一番近くにいた魔物の雄叫びが重なった。なんとか転がって避けたが、血しぶきが飛ぶ。周りの魔物が、歓喜に叫んだ。

「ジニア!」

もう一度叫び、ヴァイオレットは魔物を飛び越えた。途中でシエルを消して、落下に任せる。ジニアの上に着地しないようにはしたが、そのせいか直ぐ側に迫っていた魔物が襲いかかってきていた。即座に剣で叩き切り、ジニアに駆け寄る。手を握りしめると、ジニアはヴァイオレットに気がついた。

「ヴァイオレット…? ごめん、なさい…」

ジニアの体の力が抜けたのを見て、ヴァイオレットは目を見開いた。視界が真っ赤に染まる。

『この技は、使ってはいけない。』

『使えば最後、大半の人が死ぬ。』

『良くても、魔力の枯渇、または昏睡するんだ。』

この技を習った時、アルテミスから何度も言い聞かされてきたことが、脳裏をよぎる。しかし、彼女は今、それを振り払っていた。

「クリスタル・ギャラクシー!」

もはやただ単語を叫んでいるだけの、詠唱とは言えないひどいものだった。しかし、彼女の魔力は爆発した。

「なにを! お前も死ぬかもしれないのに!」

エリカの上ずった声が遠くに聞こえる。しかし、ヴァイオレットは魔力の放出をやめなかった。周囲が氷に包まれる。パキパキとからだが凍っていくのに悶えて、近くの壁や天井を破壊しようとするものの、すでに固まっているため破壊できない。魔物たちの断末魔は、あまり聞いていて気分のよくなるものではなかった。力の弱い魔物から全身が凍りつき、割れて小さな氷の破片となっていく。エリカは最後の最後まで抵抗し、魔法を放とうとするものの痛みでうまく魔力を操作できていないようだ。すべて凍りつき、パリンと軽い音を立てて割れる。小さな氷の破片が飛び散り、キラキラと降り注いだ。ジニアとヴァイオレット以外、広間に生命がいなくなったのを感じる頃には、周囲が静寂に包まれた。ヴァイオレットは、ジニアを見て唇を噛み、うつむいた。その体は朱に染まっており、体に力は入っていない。

「ジニア…そうだ…雪解けの時、癒しの力。アイス・アルカディア…アイス・アルカディア。アイス・アルカディア!」

何度も唱えるが、ジニアに変化はない。ぎり、と奥歯を噛み締めたとき、ジニアがわずかに目を開けた。ハッとして上から覗き込む。

「ジニア!」

彼女は弱々しく微笑んで、ヴァイオレットの頬を軽くなでた。ヴァイオレットの頬に涙が伝う。

「ヴァイオレット…ごめんね、勝手に…」

ジニアの手を握り、ヴァイオレットはどんな言葉も聞き逃すまいと耳を傾けた。これが、彼女の最期の言葉になるかもしれない。

「よかった、本当に…今回の任務は、成功だよ!」

ジニアは急に上半身を起こし、ヴァイオレットに抱きついた。ヴァイオレットが目を白黒とさせている間に、ぱっと立ち上がってヴァイオレットの手を掴む。

「え? えっ?」

もうなにがなんだかわからずしきりに瞬きを繰り返すヴァイオレットを、ジニアはその細腕のどこから出てくるのかと思うほどの力でヴァイオレットをくるくると回す。

「さっきヴァイオレットが治癒してくれたおかげで、治ったのよ! ありがとうね、本当に!」

なんだかなんでも良くなってきた気がして、ヴァイオレットも笑顔で頷いた。そして、先程の魔法の反動でくたりと気を失ってしまった。

「ヴァイオレットー!?」

ジニアはヴァイオレットが唐突に倒れたので、驚愕に叫んだ。



第六章 菫の奇跡

 魔物が彼女に爪を伸ばす。

「目玉ノ色ダケハ綺麗ダナ。エグリ出シテソコカラ…」

目を見開いたまま、閉じることもできず、絶叫する。

「いやーっ!」

唐突に、魔物の動きが止まった。周りの温度が急激に下がっていき、魔物の苦しむ音が聞こえる。数秒経つと、それもなくなった。はっはっと息を荒くしながら、あたりを見渡す。大勢の人が、朱に染まって倒れていた。

「許さない…許さない。許さない! こんなことをするなんて! ユルサナイ!」

叫んで、魔力を全開にした。風が逆巻く音が聞こえる。足元は青く氷り、砕けてを繰り返していた。しかしそれもやがて消え、その場に倒れた。彼女の周りは更地になっており、遠くから心配する人々の声が聞こえてきていた。


 ヴァイオレットは、はっと目を覚ました。見知らぬ天井に、首を傾げる。そして、唐突に流れてきた記憶に目を見開いた。

「これは…」

失っていた記憶だと、すぐにわかった。なぜか空白を感じて、ヴァイオレットは眉をひそめる。薬品の匂いから病院のようなところだと推測するが、なにせ周りがカーテンで囲まれているので、今の状況が全くわからない。

「起きましたか。」

急にカーテンが開き、女性の声が聞こえて、ヴァイオレットは上半身を起こそうとした。しかし、うまく動かない。女性は慌てたようにヴァイオレットに近寄る。

「まだ動かないでください。二ヶ月も寝ていたのですよ。私は魔法騎士団治療隊看護婦、カンネです。落ち着いてください。」

ヴァイオレットは動こうとするのをやめて、カンネを見た。よく見れば隊服を着ており、さらに治療関係者の証であるアキレアのバッジをつけていた。

「帰ってきた…?そうだ、みんなは?」

はっとして上半身を起こそうとして今度はベッドから落ちそうになるヴァイオレットを、カンネはさっと支えた。こなれた手つきでヴァイオレットをベッドに戻すと、布団をかけ直しながら口を開く。

「ジニア=ツイーディアは帰還当時から怪我もなく、元気です。あなたをここまで運んできたのも、彼女ですよ。アルテミス=ハーデンベルギアとアイリス=アルストロメリアは重症でしたが、ジニア=ツイーディアの魔法でその日のうちに全治しました。すでに世界中を周り、魔物が一体もいないことを確かめています。」

ヴァイオレットは、ほっとして目をつぶった。しかし数秒してふと首を傾げ、カンネに問いかける。

「僕は、どうして今まで寝ていたのですか?」

カンネは、少し目をそらして言葉を濁した。ヴァイオレットが眉をひそめて彼女を見ていると、カラカラと扉が開く音が聞こえた。ヴァイオレットが目を向けると、ジニアが立っていた。花束を持っており、どうやら見舞いに来たらしい。

「…ヴァイオレット?」

パサリ、と花束を落として、ジニアはヴァイオレットに駆け寄った。手を握っただけだったが、その本心は抱きつきたかった。

「もう! 心配かけて! なんでこんなに寝てたのよ! みんな心配してたんだから!」

ヴァイオレットはうまく動かない腕をゆっくりと伸ばして、ジニアを抱きしめた。

「ごめん、心配かけて。でも全部思い出したし、一石二鳥だ。よかった、ジニアが生きてて。あんなこともう一回したら、今度こそ許さないから。」

ジニアを喪うかと思っていたヴァイオレットは、その存在を確かめるように腕に力を込めた。しばらくは離さないと、涙を流しながら微笑む。

 数日経つと、ヴァイオレットは日常生活を送る分には支障のないくらいには動けるようになっていた。暇があればジニアが治癒魔法をかけ続けていたし、ヴァイオレットは必死にリハビリをしていたからだ。しかし、ヴァイオレットの表情は沈んでいた。

「走れ鷹よ、空を飛べ! ソコール・ミチオール!」

鍛錬場の壁に向けて、もう何度も唱えてきた呪文を今唱えても、なにも起こらない。ジニアにはまだ言っていないが、そろそろ潮時だ。

「やっぱりだめか…でも、仕方がないか。二回も使ったんだ、当然だろうな。むしろ、一回目でこうならなかったほうが、奇跡的…」

「なにが、奇跡的ですって?」

唐突に怒りをはらんだ声が背後から聞こえてきて、ヴァイオレットは振り返りながら前方に大きく跳んだ。声の主が誰なのかはわかってはいたが、過剰な対応をさせるほどに、ジニアの怒気が伝わってきたのだ。

「あ、あぁ、ジニア、」

「なにが、奇跡的ですって?」

同じ言葉をもう一度繰り返し、ジニアはヴァイオレットに詰め寄る。昔ほどは動けなくなったヴァイオレットはジニアから逃げ切ることはできず、鍛錬場の隅に追い詰められていった。

「最後にもう一回、聞くわよ。なにが、奇跡的、ですって?」

ジニアがにこにこと微笑んでいるのを見て、ヴァイオレットは目をそらした。彼女の目は全く持って笑っていなかった。

「クリスタル・ギャラクシー。知ってるよね?」

ジニアは、はっと目を見開いた。この魔法は、土、炎、氷、水、それぞれの魔法の中で、最も威力が高く、危険な技と言われている。そして使用者がどうなるのか、誰もが知っていた。

「まさか、ヴァイオレット!」

「うん。使った。」

ジニアは、あっさりと答えるヴァイオレットに絶句した。その表情は、まるで仕方がないと言っているようだった。

「ヴァイオレット…あなたは!」

ジニアは、ツカツカとヴァイオレットに近づいていく。すぐ近くで止まったので、ヴァイオレットは殴られるのを覚悟して歯を食いしばり、目を閉じた。

「ばっかじゃないの!?」

しかし、ジニアは、ヴァイオレットに抱きついた。ヴァイオレットがバランスを崩さないように気をつけながらジニアを見ると、肩口に埋めているその横顔は、涙に濡れていた。

「なんで…なんで、そんなの使ったのよ! 死ぬかもしれなかったのよ!?」

「それは、ジニアもじゃん!」

ジニアの声に被せるように、ヴァイオレットは叫んだ。ジニアの肩を掴んでその青い瞳と目を合わせる。

「ジニアも! どうして、ジニアも一緒に逃げなかったんだ! あの瞬間! ジニアと一瞬でも離れたことを、僕がどれだけ後悔したか…わからないだろう!」

ジニアは、はっとしてヴァイオレットを見た。その瞳には、光るものが溜まっていた。怒りの表情がどんどん崩れていき、語調も弱々しくなる。

「ジニアに、死んでほしくなかったんだ…」

ヴァイオレットはジニアに頭をあずけ、目を閉じた。そうでもしないと、ジニアにしがみついて泣き叫びたくなってしまう気がしたからだ。

「ごめんね、ヴァイオレット。ごめんね。」

ジニアは何度も謝り、その背中をなでた。

 しばらくすると、ヴァイオレットは泣きつかれて寝てしまった。当然だ、まだ十六歳にもならない少女なのだから。

「どうにかして、魔力を取り戻す方法はないのかしら。」

「あるよ。」

急に背後から声が聞こえて、ジニアはぎょっとして振り返った。すると、そこにはいたずら成功、と顔に書いてあるアイリスと、ため息をついているアルテミスがいた。

「教官!」

ジニアは、ぱっと表情を明るくした。二人共寝ているヴァイオレットを見て、苦笑している。

「あちゃー。寝ちゃってたかー。」

頭をがりがりとかきながら、アイリスはヴァイオレットを穏やかな目で見た。アルテミスは相変わらずの仏頂面だ。しかし、彼らの瞳には安堵があった。ヴァイオレットの睡眠時間は、動けるようになってからは極端に減った。おそらく、魔力の枯渇を本能で感じ取っていたのだろう。寝ていても、ジニアとアルテミス、アイリス以外の誰かが同じ部屋に入ってきたら起きるようになってしまった。

「ヴァイオレットにはあとで伝えておいてくれ。魔力の枯渇を、治す方法をこれから伝える。」

その続きを聞いて、ジニアは目を見開いた。

 ヴァイオレットが起きると、隣にはヴァイオレットの右手を握り締めて眠っているジニアがいた。苦悩しているような表情に、僅かに目を見開く。左手で頭を撫でると、その表情が和らいだ。髪の毛の触り心地が意外に良くてヴァイオレットがなで続けていると、ジニアのまぶたがぴくぴくとし始めてしまった。そろそろ起きる兆候だ、と左手を元の位置に戻す。あまりかからず、ジニアのまぶたがゆっくりと開いた。

「おはよう、ございます…」

まだ眠そうな声に苦笑して、ヴァイオレットは握られている手を揺らす。ジニアはぼんやりとその動きを見ており、まだ寝ぼけているようだ。

「おはよう、ジニア。」

ぱちぱち、と瞬きをして、ジニアは上半身を起こした。そしてヴァイオレットの腕を優しく撫でる。

「ヴァイオレット…あのね、魔力の枯渇を治せるって言われたら、どうする?」

ヴァイオレットは、目を見開いてジニアを見た。一瞬冗談を言っているのかと思ったが、その真剣な光を灯す瞳にそれは違う、と理解する。

「本当に、そんなことできるの?」

声が震えるのがわかった。ジニアは静かに頷く。息が、止まりそうになった。動揺して、なにも言えない。しかし、ジニアの悲しそうな瞳に、目を見開く。

「代償が、あるの。他の誰かの魔力を枯渇させ、」

「いやだ。それなら、静かに生きたい。魔法なんていらない。またいつか、返ってくるかもしれない。だから、今はいい。」

ジニアは、ふわりと微笑んだ。そしてヴァイオレットの頬を撫でる。

「そうね。そう言うと、思ってたわ。だから、対策を用意してきたの。」

ヴァイオレットは、ぱちぱちと瞬きをした。今日は何度ジニアに驚かされるのだろうか。

「要は、大量の魔力が必要ってことなの。だから、氷属隊と炎属隊全員の魔力を、枯渇しない程度に取ってヴァイオレットに入れる。」

ぽかん、としてヴァイオレットはジニアを見た。ジニアは相変わらず微笑んでいる。

「迷惑じゃ…」

「大丈夫よ! 生き残ったみんなは、ヴァイオレットに協力してあげたいって言ってくれたもの!」

言葉を遮ってまで言われてしまえば、押しに弱いヴァイオレットは納得するしかなかった。しかしその中に気になる言葉があったのに気づいて、再び首を傾げる。

「ねぇ、『生き残ったみんな』ってどういうこと?」

ジニアは、気まずそうに視線をずらした。しかしヴァイオレットも逃避を許すはずがなく、ずらした視線の先にひょい、と移動する。何度かそれを繰り返して、ジニアはやっと諦めた。

「私達が出発した後、門を突破されちゃったらしいの。アルテミスの指示のお陰で民間人の被害はなかったけど、何人か亡くなられたって。」

ヴァイオレットは、絶句してその訃報を聞いた。そう言えば、最近見かけなかった人が数人いた、と思い出す。

「そうか…そうだったんだな。それで…」

二ヶ月で、おそらく葬儀まで終わらせたのだろう。一年に一回だけでなくてもよいのだ。魔物はもう、いないのだから。

「えぇ。後で、お墓参りにいきましょう。」

ヴァイオレットは目を閉じると、数秒してしっかりと開いた。いつもの顔に戻り、そうだな、とつぶやく。

 四日後、ヴァイオレットは渡されたネックレスを見て首を傾げていた。それを渡したジニアは、その様子を嬉しそうに見ている。

「この宝石は、氷属隊全員の魔力を詰めて圧縮したものよ。」

なるほど、と納得したうえで、ヴァイオレットはその早さに驚いていた。ジニアがこの計画を知ってからすぐに行動に移したのだとしても、一週間も経っていない。

「早いな。」

ジニアはにこりと笑ってなにも言わなかったが、どうやったのか聞くことはできなかった。感じていた空白がなくなったのを感じて、わずかに微笑む。そう言えば、と母の形見である箱を取り出す。いつの間にか箱の魔法はすべて解けており、蓋は開かれていた。

「魔力の枯渇、死、昏睡…まさか!」

ヴァイオレットは急にその箱を抱いた。ジニアは突然の行動に、首を傾げる。

「どうしたの?」

ヴァイオレットは、涙の溜まる瞳でジニアを見返した。そっと箱を離し、優しく眺める。

「お母さんが、僕を守ってくれたんだ。この箱にかけられていた魔法は、すべてこの箱の中の魔力を封じ込めるためのもの。そしてそれは、僕がクリスタル・ギャラクシーを使った時。僕が魔力の使いすぎで死なないように、守ってくれてたんだ…」

ヴァイオレットの言葉に、ジニアは目を見開いた。箱にいくつかの魔法がかけられていたことは知っていたが、まさかそんな内容のものだとは思っていなかったのだ。

「ここには、お母さんの魔力の大半が入ってる。たぶん、自分の魔力を減らしてまで僕を守ってくれたんだ…」

ポタポタと、膝の上に雫が落ちる。ジニアは、ヴァイオレットをそっと抱きしめた。

「よかったわね…お母様は優しかったのね…」

ヴァイオレットが落ち着くまで、ジニアはその背中を優しくなでていた。外では春のあたたかな太陽が大地を照らしていた。

 ヴァイオレットは、竜胆の花をいくつか持って歩いていた。風が吹き抜け、在団中に長くなった髪を揺らす。一つの墓石の前にしゃがみ込むと、おもむろに口を開いた。

「みんなを守ってくださり、ありがとうございました。」

数秒黙祷を行い、竜胆の花を一輪置いて次の墓石の前に移動する。何度か繰り返した後、知っている名前があった。その前には、ルピナスとジーリッシュがいる。

「あ…ばれちゃったか。」

ルピナスがヴァイオレットに気づき、不器用な笑みを浮かべていた。左足を骨折しているらしく、松葉杖を持っている。その左でルピナスに寄り添うように立っているジーリッシュは、左腕を吊っていた。

「こいつさ、俺らのことを守ってくれたんだよ。」

ジーリッシュは、小さくつぶやいた。ヴァイオレットは口をつぐんでそれを静かに聞く。

「最後の方に魔物が強くてさ。覚悟を決めた時、こいつが前に出てきやがったんだ。馬鹿だよな。」

ルピナスは俯いて唇を噛んでいた。松葉杖を強く握りしめているのだろう、腕が細かく震えている。

「ペステは、ラナンキュラスのことが好きだったんだ。最期は、お前みたく強くなりたかったって、お前を守りたかったって、つぶやいてた。泣くだろうから、伝えるなって言われてたんだけど…」

ヴァイオレットは、ペステの墓石の前にしゃがみ込んだ。その墓石はとてもきれいで、毎日磨かれていることがわかる。ポタポタと、雫が滴り落ちた。竜胆の花を丁寧に置いて、手を合わせる。

「ありがとう…ありがとう、ありがとう。みんなを守ってくれて。ありがとう、こんな僕のことを好いてくれて。」

風が、ざぁっと吹き抜けていく。それに揺られた髪が、ヴァイオレットの表情を隠した。二〜三秒手を合わせて、ヴァイオレットは唐突に立ち上がった。ルピナスとジーリッシュは驚いて、わ、と声を漏らす。

「いつまでもうじうじしてられない。ペステが守ってくれた命、大切に使おう。笑って、生きていこう。」

ルピナスとジーリッシュは顔を見合わせて、くしゃりと笑った。涙で濡れていたが、それでも眩しい笑顔だった。

「ありがとう。」

歩き出したヴァイオレットの背中を追いかけるように発された声は、どちらのものだったのだろうか。雲が流れて、木に止まっていた鳥たちがさえずった。いくつか墓石を通り越して、何度か来た墓石の前にしゃがみ込む。竜胆の花を数輪、優しく置いた。

「シャジュマンさん。少し遅くなりましたが、報告に来ました…今まで、長かった戦いが終わりました。魔王を討伐することが、できました。仲間に裏切られましたが…」

ヴァイオレットは、目を伏せてエリカの顔を思い浮かべようとした。しかしそれは、ぼんやりとしてうまく思い出せなかった。

「終わりましたよ。魔物が、皆倒されました。」

ヴァイオレットはしばらく黙祷していたが、その後はすぐに立ち上がった。すたすたとその場を後にする。この場所に来るのは、この後は年に一度のみに減るだろう。

 ヴァイオレットは、ふわりと微笑んでジニアを見た。いつの間にか彼女は、感情をすなおに表情に出すことができるようになっていた。

「ヴァイオレット。見て、菫の花よ。こんなにたくさん咲いてるわ。」

ジニアに引っ張られて、ヴァイオレットは彼女の指差す方を向いた。そこには濃淡様々な紫色の花畑が広がっており、ヴァイオレットは目を奪われた。

「すごいな。これは、どうやって…」

ヴァイオレットが見とれていると、ジニアは手を引いてその中に駆け出した。根気強く植えたのだろうか。それとも、自然に生まれたのだろうか。

「行きましょう!」

ふわりと微笑んだジニアに、ヴァイオレットは微笑み返した。そして、同じように駆け出していった。

「あぁ!」

少しスピードを上げて氷の花を左手に出し、ジニアの髪にさす。その花は、陽の光できらきらと虹色に光った。二人の周りを、紫色の花びらが舞った。

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菫の花よ、咲き誇れ 華幸 まほろ @worldmaho

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