『女の子』なあなたを愛してあげる

濃支あんこ

入栄湊

「……あれ、やっぱり鍵開いてる。誰か、いるの?」


 やっと聞き慣れてきた可憐な声が、僕の鼓膜をつく。いつもなら喜んで応じる相手だが、残念ながら今の僕はその声に返事をすることはできなかった。部室のカーテンにくるまり、抱え込んだ膝と邪魔っけな胸に顔を埋めたまま、黙りを決め込む。


「うーん。昨日部長が鍵返すの忘れちゃったのかなあ。でも、それなら鍵がかかってるはずだよね」


 授業中故にがらんとした職員室にこっそり侵入して、部室の鍵を持ち出したのは僕だから、悪いのは部長じゃなくて僕なんだよな、なんて現実逃避気味に考えてしまう。そんなことを考えている暇はないぐらい、現状はどうしようもないのに。

 だって足音は、不思議なほど僕に向かって一直線に近づいて来ているのだから。


「あ、あった。良かった〜」


 先輩の足音が、僕のすぐ横でパタリと止まる。先輩の安堵したような声で、やっと僕は「先輩は単に物を取りに部室に来ただけ」であることに気がついた。そういえば今僕が隠れている場所には、部員ごとに与えられたロッカーがあるのだ。


「うーん……部活用のノートと授業用のノート、見た目似てるし、間違えちゃったのかも。もうちょっと別の見た目のものにした方が良いのかなぁ」


 どうやら先輩は目的を達成したらしい。ならばこのまま、立ち去ってくれることを祈るだけだ。さっき鳴ったチャイムから察するに、今は授業と授業の間の短い休み時間なのだから、先輩もすぐ教室に戻らないといけないはずだ。だから、何故鍵が開いていたのかなんてどうでもいいことを調べる時間はな


「ねえ、君はどう思う?」


 カーテンが、持ち上げられた。


「……ぇ」

「えへへ、見つけちゃった」


 一切の予兆なく行われた動作に、反射的に顔を上げれば。いたずらっ子のように笑う先輩がそこにはいた。

 城ノ崎きのさき姫華ひめか先輩、学校一の美少女であると持て囃されている、僕の想い人が。


「どうしてここに?あなた、文芸部の部員じゃないでしょ」

「……」


 先輩が少しかがみ、色素の薄い柔らかな長髪がパサりと落ちる。それこそ僕を覆い隠して、外界から隔絶してしまうかのように。僕の鼻腔をふわりと心地よい匂いがくすぐる。それだけで、この場所は先程とは一転して僕にとっての天国と化す。

 普段の僕ならその時点で、この先絶対にしてもらえないような幸運をとにかく堪能する方向性に舵を取るのだろうけど、今の僕にとってはそれすら意識の埒外に行ってしまっていた。なにせ僕は。見つけられてしまった事に驚いているような素振りをしながら、全く異なることに関心を向けていたのだから。



 先輩の優しげな眼差しが向けられている先が、どう捉えても学ランに無理矢理押し込められてはち切れそうになっている、僕の乳房でしかなかったことへと。



「ていうかなんで学ラン?うちの学校の女子制服って確かセーラー……」


 ああ、そうだ。なんで忘れていたんだろう。ほんのちょっとの欠点を理由に手を出さないマヌケ共をシカトして、わざわざ同じ部活に入って、じわじわと距離を詰めて、やっとこさ二人きりでいても文句を言われない程度にまで親しくなって、何度も何度も何度も何度も告白したのに受け入れてくれなかった先輩が、ありとあらゆる手を使って問い詰めた末にやっと吐いた、ゴミみたいな理由を。


『女の子しか好きになれないから』とかキモい上に女としての自覚のかけらもない事を言いやがったのだ、この女は。


 でも今となっては好都合だ。先輩がゴミで助かった。


「……あの」


 上手い事機能しない喉をどうにか動かす。いい感じに可愛らしく震えていて、か弱い女の子みたいな出来に満足感と絶望感を同時に覚えながら、僕は言った。


「僕、です。入栄いりえみなと、です」

「……え?!い、入栄くん?!ってことは……」


 先輩が目を丸くして叫ぶ。どうやら、その一言だけで彼女も僕の状況を正しく把握してくれたらしい。それでも改めて、僕は認めたくない、しかし利用するべき現実を口にした。


「先輩と、おんなじです。女の子になっちゃいました」


 学ランの上からも容易にわかる程豊満な乳房と、優雅な曲線美を描く肢体。いつの間にか肩ほどまで伸びていた髪と、その下にある不安げに歪んだ可愛らしい少女の顔。それが、今の僕であるらしい。数日前は、ただの一般的な男子高校生であったと言うのに。

 僕は今朝、起きたら女になっていたのだ──目の前で驚いている先輩と同じ、急性性転換病、なんていう率直すぎるアホみたいな名称の病気のせいで。


「その、起きた時、パニックになっちゃって。時間的に親はもう仕事行ってて家にいなかったし、どうすればいいかわかんなくって。とりあえずいつも通りに過ごそう、って制服着て学校に来たんですけど……こんな見た目で、教室なんか入れるわけないじゃないですか。でも帰る為に外に出るのも怖くて。とにかく誰にも見られないように、って部室に逃げ込んだんです……本当、バカみたいですよね」


 わざと辿々しく状況を語りながら、不安げにぶかぶかのスラックスを握りしめる。ちなみに嘘は言っていない。パニックになったのも本当だし、ほんの数十秒前までは自分を呪っていたとも。ただ、今の僕は驚くほど冷静で、思考が冴えていて、ついでに言えば天が与えた不幸中の幸いに心の底から感謝を捧げているだけで。


「すみません、突然こんなこと言われたって、わけわかんないですよね。でも本当に、どうすればいいかわかんなくって……!」


 都合良く、言葉によって騙されてくれた情動がぽたり、と涙をこぼしてくれた。これは説得力も上がる事だろう。心の中でほくそ笑む。


「大丈夫だよ。自分を責めないで。入栄くんは、何も悪くないから。怖かったよね、不安だったよね……私も、そうだったから」


 先輩は僕を慰めるように、白魚のような手で僕の頭を優しく撫でる。……初めて、僕に触れてくれた。あんなに僕のことを拒絶してたくせに、女になった途端これなのだから。単純すぎて笑えてくる。結局こいつも、どんなに見目麗しい男の夢みたいなツラをしていても、中身は男なのだ。

 まあ、僕にとってはその方が都合が良いんだけど。僕が好きなのはあくまで先輩の顔と体だけだし。表面上は優しい先輩でいてくれるなら問題ないし。


 本当、この程度の欠点で先輩を遠巻きにしていたガキ共が馬鹿すぎて、笑えてくる。


「だから、泣いてもいいんだよ」

「……っ!」


 柔らかな声を合図にしたかのように、ぶわり、と僕の両の目から涙が溢れるのを、他人事のように眺めていた。僕はこんなにも冷静で、むしろこうしてかつてないほど先輩を堪能できていてこれ以上ないほどの喜びを感じているというのに。まるで心と体が乖離してしまったかのような心地を覚えながら、それでもどうしようもない安心感には抗えず、安堵に緩んだ涙腺は涙を止める気配を見せない。


「……すみま、せん」


 耐えきれず、先輩の胸に飛び込むように泣きつく。フリをして、今の僕と比べればささやかだが、確実に存在する彼女の柔らかな双丘に顔を埋めた。男だった頃の僕には一生叶わなかったであろう行為だが、先輩は拒絶するどころか、むしろ緩く抱きしめるように腕を回した。……本当、馬鹿みたいだ。


 しばらく、僕にとっての至福の時間は続く。けど、流石にずっと先輩の胸を借りているわけにはいかない。男として情けなさすぎるだろう。名残惜しいが、ほどほどにして立ち上がる。

 僕の考えが正しければ、先輩に甘える機会は今後たくさんあるのだから。今に固執する必要はない。


「……ありがとうございます。ちょっとだけ、落ち着けた気が、します」

「そっか。良かった……!」


 ほ、と先輩が安堵に表情を緩める。続けられた言葉は、完全に僕の予想通りだった。


「困ったことがあったらなんでも言ってね?入栄くんより先に女の子になった先輩として、私にできることならなんでもしてあげるから!」


 ……本当、この人、無防備だよな。男がどんな目で自分を見てるのか知らないわけじゃないだろうに。心まで女の子になっちゃって、まるっと忘れてしまったのか?まあ、僕としてはそっちの方が好都合なんだけど。僕だってなるべくこいつの中身が男である、なんて現実を認識したくはない。せっかく僕が高校生になる前に女の子になってくれたんだから、その幸運をありがたく甘受しなくては。


 そんな、愚かで可愛くて危うい先輩に、僕は言ってやったんだ。


「なら、僕と付き合ってください」


 きっと、彼女は予想すらしていなかったであろう告白を。


「……ごめん、その、上手く聞き取れなかったかも。もう一回言ってく」

「僕と付き合ってください」


 きゅ、と萎縮した先輩の瞳孔が僕への恐怖を訴えていることぐらいわかっている。きっと本当に先輩のことを想っているならば、ここで身を引くべきなんだろうけど。女のくせに僕を何度も何度も振ったこいつに、慈悲をかけてやるつもりなんて毛頭なかった。


「……ぇ、と。その、ど、どうして?」

「聞かなくてもわかってますよね?僕が何度も何度も何度も何度も先輩に告白してあげたんだから。忘れたなんて言わせませんよ?あ、もしかしてまだ足りませんでしたか?」


 でも、もし本当に足りないって言われたらどうしよう。流石に土壇場だから、先輩に言ったことのない愛の言葉のストックは精々五個ほどしかない。目新しさのないそれが、大した足しになるとは思えないんだけど。


「た、足りてる!足りてる、から……そうじゃ、なくて」

「なら、なんですか?何が足りないって言うんですか?」


 畳み掛ける。僕から目を背けようとした先輩の頭を、片手でがっしりと掴んで、こちらに固定した。もう片方の手で、先輩の手を掴み、僕の体へと引き寄せる。


「ほら、先輩の大好きな『女の子』ですよ?何が不満だって言うんですか?」

「……ッ?!」


 むにゅり、と僕の胸部に備わってしまった邪魔っけな膨らみに彼女の手を押し込む。途端に、わかりやすいほどわかりやすく先輩の頬が赤く熱を持った。本当、単純だなあこの人。

 そのまま変わってしまった僕の体をなぞるように、先輩の手を動かしていく。胸から始まって、腰、下腹部へと。女の子の一番大事なところ。決定的な男女の違いを示す、その場所に触れた時。


「っ、ぁ……?」


 僕の体にぞくり、と嫌な感覚が走った。反射的に小さく声が上がる。嫌悪と正体不明の感情に眉を顰めた。

 感覚自体は知っているけど知らないものだ。ラベリングしようと思えばできるけど、ラベルごとぶっ壊したくなるような二文字だから、見なかったことにする。


 ──そうして僕が心中で葛藤している間、ほんの少しだけ口角を釣り上げた先輩の姿は、残念ながら僕の認識には入って来なかった。


「ねえ、先輩」


 認識したくないモノから逃げるように、掴んだ手を動かして僕の太ももへ持っていく。無理矢理ベルトで締め上げたスラックスの上に先輩の手をのせて、先程の快感と紙一重の不快感を隠し、問う。


「僕と、付き合ってくれますよね」


 疑問符なんてつけてやらない。確定系だ。先輩は僕の告白を断れない。その目に孕んだ劣情だけは誤魔化せやしないんだ。……本当なら、これを男の僕に向けて欲しかったんだけど。性転換病にかかってしまった以上、どう足掻いたって完全には元に戻れないし。先輩が女として劣っていることに今ばかりは感謝しておこう。


「……それが、入栄くんのして欲しいことなの?私が入江くんと付き合ったら、入江くんは元気になれるの?」

「当たり前じゃないですか。女になったおかげで先輩と付き合えるなんて、むしろラッキーまでありますよ」


 何を今更なことを聞いてくるんだか。というか、そうとでも思わないとやっていられない。一瞬で人生がぐちゃぐちゃになってしまったのに、何の恩恵もないとか受け入れられないだろう。


「……ふうん。そっか」


 何かを考え込むように目を閉じた彼女が、ぽつりと呟く。そして、覚悟を決めたような顔で言った。


「わかった。いいよ、入栄くん……ううん、湊くん。私、あなたの恋人になってあげる」

「……!」


 カッコつけたような口ぶりで言ってるくせに、微かに声が震えている。きっとこれは、理想的な告白の返事というものではないんだろうけど、世間の理想なんて僕には関係がなかった。

 だってあの先輩を、僕の告白を断りやがった女を、僕は手に入れたんだ。元男だから、なんて言って遠巻きに眺めているだけだった阿呆共を出し抜いて、彼女の一番の座を奪えたんだ。これ以上の喜びはないだろう。


「っ、先輩……!ありがとう、ございます!大好きです!」

「わっ?!いり、み、湊くん?!」


 感極まった勢いのまま、先輩に抱きつく。ついでに先輩の為のサービスとして、胸を思い切り押し付けておいた。思いの外単純な先輩なら、この程度で有耶無耶になってくれるだろう。


「だめでしたか?恋人なら、こうやってくっつくのは普通だと思うんですけど」

「そ、そうだけど、その……突然だったから、びっくりしちゃって」


 馬鹿な先輩。自分に言い寄ってきた男が突然女になったからって、その中身まで急に女の子にならないってことぐらい、知ってるくせに。それでも受け入れちゃうんだ。


 でも僕は、僕だけは、そんな愚かでカワイイ女の子なあなたを愛してあげる。

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