第15話 体育館清掃 二日目
翌日のお昼の掃除時間。
じゃあ、男子諸君、頼みましたよ、と河上先生は言ったが、他に代わりがいないからしかたがない、という、いわゆる消極的賛成であるのは、声の響きでよくわかった。先生の言葉に送られて男子六名は体育館に到着した。
少年たちは昨日と同じように異空間のような地下倉庫に足を入れた。例の物、持って来たか? とのヤスノリの問いに、ほら、ブツだぜ、といかにも警官の息子が言うにふさわしい言葉で、ミツアキは胸を張って答え、ポケットから大きな手で昔ながらの無骨な懐中電灯を取り出して皆に見せるのだった。
「ぅおーし、ぅおし」
ゾッピは奇妙な声を上げたが、よーし、よし、と言っているのは、すんなりと理解できた。
「ほら、ここだぜ」
ミツアキは跳び箱の後ろの低い壁の下の方の穴を指さしたが、それは前に、この学校の図書館で見た、小学生向けの宇宙図鑑に載っていたブラックホールを連想させた。一度吸い込まれたら、光さえも脱出不可能だというブラックホールを。
ミツアキは懐中電灯を点けると、ついて来いよ、と言って大きな体をかがめ、穴の中に窮屈そうに入って行った。ヤスノリたちも後に続く。
少年らは四つん這いになって中に入った。鼻の頭がなんだかひんやりとして、土のにおいが鼻の奥を突いた。日が当たらず湿った土が、四つん這いでぴたりと着けた手のひらに冷たく感じられる。全員が中に入ったのを確かめると、行くぜ、とミツアキは言った。
穴の中は、体育館の床を支えるコンクリートの土台が一つ一つ規則正しく並べられていた。
広い体育館の外壁面の下側に通風孔が点々と設けられており、それらから差し込む光で完全な闇にはなっていなかった。
「まるで迷路だな」
四つん這いになりながらも、懐中電灯を持った右手だけ器用に上げたミツアキの言葉に、皆がうなずく。
少年たちは外からの明るい光を求めて、無意識のうちに近くにある通風孔へ寄って行った。
いつの間にかゾッピが先頭になり、網目状のカバーの付いた通風孔に顔を近づけた。残りの少年たちもゾッピの肩越しに、光の方へ目を向ける。
「あれ? 中に誰かいる」
突然、外の世界で声がした。声の主は、校庭の掃き掃除をしていた一年生たちだった。
通風孔からの光で、ゾッピが呑気に、よう、と手を振るのが見えた。
まずいだろ、これ。
すぐに一年生たちは、いなくなった。
どうする、とヤスノリは隣にいたミツアキに小声で聞く。
まあ、いいさ、との答えが返ってきたが、ミツアキにしてみれば、用心をして、今、ここで引き返せば、もう永遠に体育館の床の下探検の機会は失われてしまう、と考えたのかもしれなかったし、あるいは単に、他に返答のしようが無かっただけのことなのかもしれなかった。
「行こうぜ」
ミツアキは、ささやくように言うと、また先頭に立った。
ついに少年たちは、さっき入って来た地下倉庫と正反対の位置にある壁、体育館の入口下のコンクリートの土台に到達した。体育館の床の地下を端から端まで進んで
行ったのだ。
少年たちは一人ずつ、到達の記念に土台にタッチする。そこでゆったりとしていたかったのだが、掃除時間に限りがあることは誰もが知っていた。
早くまた一番向こう側の地下倉庫まで戻らなければならない。さっきの一年坊主らが、先生に密告したかもしれないのだ。
ヤスノリが思っていると、もう、あまり時間がないぞ、とミツアキが言ったので、少年たちは、もと来た道を引き返し始めた。体育館の床の下は思いの外、暗くはなく、用心のために持って来た、ミツアキの手の懐中電灯は、必需品というよりは床の下探検の雰囲気をかもし出すアイテムのようになっていた。
少年たちが帰りの道のりの半分、ちょうど体育館の床の中央、そう、昨日のほうき蹴りの、陣の辺りに差し掛かった時、突然、頭の上で河上先生の大きな声がした。
「君たち、どこにいるんですか!」
うわっ、という声が漏れそうになるのを、ヤスノリは懸命にこらえた。先生に、どこにいるんですか、と聞かれて、はい、先生の足の下にいます、などと答えられるはずなどない。他の少年たちもそう思っていたはずだった。たった一人の例外を除いては……。
「どこですか?」
もう一度先生の大きな声がした時、ヤスノリの目の前で信じられない出来事が起きた。
ゾッピがこぶしで頭上の木の床を叩き出したのだ。
おい、やめろ、と少年たちは小声でささやいて、ゾッピを制止した。
こいつ、本当にトンチキだな。
信じられない行動をとったゾッピを心の中で毒づきながら、ヤスノリはゾッピをにらみつけた。
ゾッピは何を思ってか満面に笑みをたたえている。
もう、本当に状況判断が出来ないのかよ、こいつ……。
ヤスノリは思わずため息をついた。
「おい、早くここから出ようぜ」
ミツアキがそう言わなければ、ヤスノリは取り留めもなく舞い上がる砂の嵐のような頭の中の混乱を収拾できなかったかもしれなかった。
少年たちは素早く床の下から抜け出し、地下倉庫から出て来た。
ミツアキは懐中電灯を懸命に上着の中に隠している。
昨日に続いて二度目だもんな。先生、何と言って怒り出すんだろう……。
ヤスノリは他の少年たちを促して河上先生の前で整列した。
ひょっとしたら、ぶたれるかもしれない……。
ヤスノリの思いとは裏腹に河上先生は拍子抜けするくらいに穏やかだった。
「もう時間がない。早く教室に戻りなさい」
学校から帰っても、ヤスノリの憂鬱は治まらなかった。
先生、言ってたわよ。あんたのこと、まじめだって……。
去年の家庭訪問の時の、母の言葉がよみがえってくる。
先生、僕のこと、失望してしまったのかなあ……。去年の家庭訪問で母さんに言ったこと、あれは単なる社交辞令で、もう、とっくに忘れてくれていたらいいんだけど……。
二階の部屋の机で肘をついていると、あれこれと取り留めもない考えが浮かんでは消える。
「ごはんよ」
母の声でヤスノリは階段を下りて行った。
食卓に着いても、なんとなく気が晴れなかった。
夕食後、風呂に入る、と父が席を立った。ヤスノリの父は大変な風呂好きで、「超」の付く長風呂だった。ありがたいことに当分は出てこない。
ヤスノリと二人だけになると、母は言った。
「何かあったの?」
ずっと何も言えずに憂鬱そうにしているヤスノリに母は気付いていたのだった。
ヤスノリは、いや、この島の子供たちは皆、憂鬱な気分を溜めておくなど性に合わなかったので、体育館の掃除をさぼってしまったことを話すことにした。ただし、「さぼった」という言葉に「盛大に」という修飾語は付けずおいたが……。
「なんだ、そういうこと……」
「えっ、がっかりしないの?」
ヤスノリの問いに母は怪訝そうな顔をした。
「どうして?」
「だって先生、去年の家庭訪問の時、僕のこと、まじめだって、母さんに……」
母は一笑した。
「ええ、確かにそう言ってたわね。でも、だからって、先生はあんたこと、がっかりしてないと思うわよ」
今度はヤスノリが怪訝そうな顔をする番だった。
「……どうして?」
「あたしね、聞いたの。ゑびすやさんから……。河上先生、ゑびすやさんに下宿してもう一年近くもなるから、いろいろと身の上話をされたんですって。その話によるとね、先生のおうちは、先祖代々、生粋の江戸っ子で、先生も、あんたくらいの頃は名うての腕白坊主だったんですって。人は見かけによらない、って言うけど、本当ね」
まったくだ、とヤスノリは思った。
母は更に続ける。
「だけど、ほら、都会の学校って、昔はどこにでもいた腕白坊主って、ただの悪い子としかみなさないようなところがあって、先生、それがいやで、大きくなったら、昔の暮らしが残っている所で教師になろう、って決めてて、それで、この島を選んでわざわざ赴任して来た、ってゑびすやさん、言ってたわ」
なんだ、そういうことだったのか……。先生って、昔は結構ワルだったんじゃない……。
ヤスノリは心と体がふわり、と軽くなった気がして言った。
「ねえ、母さん。ミツアキんちに電話してもいい? あいつもきっと同じこと悩んでると思うから、今の話、聞かせてやりたいんだ」
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