第14話 体育館清掃 一日目
二月も後半になった。
「来週からは卒業式に向けて男子は全員、体育館の掃除をしてもらいます」
帰りの会の時、河上先生は言った。
男子の間で、微かなどよめきが起きる。体育館の掃除だなんて初めの体験だ。まだしたことのないことをするのは、期待も湧けば緊張もする。
「えーっ。じゃあ女子は?」
ワックがすかさず聞く。
先生は、大丈夫、と言って言葉を続けた。
「その間、女子はいつも通り、教室の掃除をしてもらいます。女子だけでは机を動かすなど、力仕事は大変でしょうから、教室の方は僕も手伝います」
先生の言葉が終わらないうちに、女の子の間で安心したような声が漏れた。
「男子の皆、体育館は広いけど、小学校生活最後ということで、気持ちを込めて取り組んでくださいね」
こうして帰りの会は締めくくられた。
翌週の月曜日。
昼休みが終わり、掃除の時間となった。河上先生に連れられてヤスノリ、ミツアキ、
ゾッピ、クマ、タルケ、ダスマの男子六名は体育館に向かった。
「はい。じゃあ、ここに手ぼうきがあります。まず始めに床の掃き掃除からしてもらいます」
体育館に着くと、ヤスノリたち男子は、先生から用意された手ぼうきを受け取った。
「先生、床にほこりなんかないよ」
いつも一言多いゾッピを、黙ってろ、とヤスノリたちが制するのを見て、河上先生は笑いながら答えた。
「僕はもう教室に戻って女子を手伝いますから、男子は男子でがんばってください」
しぶしぶながらもヤスノリたちが掃き掃除をし始めたのを見ると、先生は足早に去って行った。
先生の姿が視界から消えると、ゾッピは手ぼうきを床に置いて蹴りだした。
「おい、こうすると掃除したことになるぜ」
その言葉に他の男子もならう。
そうするうちにこの方式の掃除(?)にも飽きてくると、ゾッピがまた言った。
「なあ、このほうきで缶蹴り、しないか?」
缶蹴り、とは、鬼以外の子が、まず缶を思いっきり遠くへ蹴る。そして鬼が遠くへ飛んだ缶を元の位置に戻す間に他の子らは隠れる。鬼は隠れている子を捜しに行く、という日本全国で行われているあの遊びのことだが、この島のルールでは、鬼が隠れている子を見つけたら、その子の体にタッチする。見つけられた子はタッチされてしまえばアウトで、今度は自分が鬼にならなければならない。だから、見つけられそうになってしまった時は、けんめいに置いてある缶の所まで走り、缶を蹴る。うまく蹴ることができれば、また振出しに戻る。ただし、この缶を蹴る時、まだ見つかっていない他の誰かが隙を突いて缶を蹴ってもよい、ということになっていた。
その缶で行われていた遊びを手ぼうきでやろう、というのがゾッピのプレゼンテーションなのだ。
ヤスノリはそのプレゼンに胸が躍ったが、鬼を決めるためのじゃんけんをすると、自分が鬼になってしまった。
「おい、ヤス。がんばれよ」
ゾッピがにやにやしながら手ぼうきを体育館の中央に描かれたバスケットボール用の大きなサークル内に置いた。まるで土星の輪を真横から見たようなセンターラインの上に。
ヤスノリが運動会の徒競走で毎年ビリになるのは周知の事実だったが、そんなことを言ったにしても、ゾッピや他の少年たちに悪意などなかった。うるせ、とヤスノリが笑いながら言うと、ゾッピは、ほうきを思いっきり蹴り飛ばした。
ヤスノリはけんめいに遠くに飛んだほうきを取りに走る。ほうきを手に取って、陣である、巨大なサークル内のセンターライン上に置くと、逃げた少年たちの後を追った。皆は講堂の演壇に逃げたが、開放的な空間が広がる体育館の中で、隠れることができるとしたら、そこしかなかったからだ。
ヤスノリは直接演壇へ弾みをつけてなんとかよじ登った。演壇の両すそには、下の倉庫への下り階段と、体育館の壁の上部に巡らされた通路や、劇などの時に、演出用の紙の雪などを降らすために黒子が潜む、演壇の上に渡された渡し板に通じる上り階段があったが、ミツアキを含め何人かは下り階段を、残りは上り階段を行くのを、ヤスノリは視界で認めていた。
皆、学芸会などで演壇には上ったことがあったが、その両脇にある上りや下りの階段が導く先の世界へはまだ立ち入ったことが無く、そこは彼らにとっては、体験したことの無い、未知の空間だった。
ヤスノリは、演壇右端にある下り階段に進路を取った。階段を下りてゆくと、演壇の下は倉庫になっており、マットや跳び箱、その他に校庭にトラックの線を引くラインカーやパウダー、運動会で使う玉入れ籠や綱引きのロープなどがしまわれていた。倉庫に足を踏み入れると、マットなどにこびりついた、子供たちの体や足のにおいとでもいうべきだろうか、悪臭というほどではなかったが、独特のにおいがヤスノリの鼻の奥に触れた。ここには密閉された空間特有の気密性があり、倉庫は演壇の下を、体育館の壁のこちら側から向こう側のまで、まるでワームホールのように続いている。
ワームホール。はじめてその名を聞いたのは、ラジオ番組「全国子供質問室」を聞いていた時だった。それは時空間の中のある点と点をつなぐトンネルのようなものなのだという。このトンネルをくぐれば、光よりも速く進むことができるのだそうだ。現在の科学では、秒速三十万キロ、つまり一秒間で地球を七回半回ることができる光より速いものはない、とされているが、このワームホールを通れば、全宇宙でのス
ピードの限界を超えることができるらしい。
ヤスノリが階段を下りてこの『ワームホール』に足を踏み入れた時、ちょうど向こう側の階段をタルケが上ってゆくのが見えた。
急いで後を追い、向こう側の階段の上り口に近づいた時、ヤスノリの足がぴたりと止まった。
左側に跳び箱があるのが見えたが、その奥の様子が、何か奇妙なことに気づいたからだ。演壇の下にあたる、低く白っぽい壁に沿って高く積まれた跳び箱の奥に、闇のような小さな空間が見えた。
ヤスノリはタルケの後を追うのをやめて、その闇のような小さな空間の方へ近づいて行った。跳び箱は壁から少し離されて置かれていた。足元には、いろいろな小道具が置かれていて、前に進みにくかったが、演壇の下にあたる低い壁に近づいてゆくと、四角い穴が開いていた。まるで洞窟のような穴は、どうやら体育館の床の下に入る為のものであるらしい。
中に誰かいる。
洞穴のような入口の手前でヤスノリの足は止まった。ずっと前に、この島で唯一の寺、松浜寺の鐘をいたずら心でついたことがあったが、あの時の鐘のように、ヤスノリの胸はゆっくりと鳴り出した。
中に誰かいたとしても、僕らのうちの誰かに決まってるじゃないか……。
自分で自分を諭しながら穴の中に頭を入れてみる。
すぐ側の陰に、ミツアキが大きな体を丸めるようにして隠れていた。
ミツアキは顔を上げた。互いに目が合うと、どちらからともなく笑みが漏れた。
「ミツアキ、見ィーつけた!」
ヤスノリは仲良しのいとこにタッチする。
「くそっ」
しょうがないな、といった声でミツアキは穴から出てきた。
鬼になったミツアキとタッチをしたヤスノリは陣の手ぼうきの所まで歩いてゆく。 この島のルールではこういう場合、隠れている他の者はそのままずっと隠れ続けていてもよい。陣に着くとミツアキは目を閉じた。ヤスノリは思いっきり手ぼうきを蹴り、思いっきりのスピードで逃げだした。なにしろ相手は校内一足の速いミツアキだ。運動会の徒競走ではたいていビリになるヤスノリは何も考えずに夢中で走り、
やっとの思いで演壇の右端にある、演壇に上がるための入口に着いた。
さっき自分が鬼だった時は直接演壇によじ登ったが、今、それをやればミツアキに追い付かれてタッチされてしまう、と考えたからだ。
入口のドアを開け階段を上る。背後にミツアキが得意の俊足を生かして迫ってくるのが感じられた。演壇と同じ高さまで階段を上り詰めると、左は演壇で、目の前にはさっきと同じく上り下りの二つの階段があった。
同じ所へは捜しには来ないだろう……。
ヤスノリは直観でそう思うと演壇下の倉庫に通じる階段を下りようとしたが、その時、演壇上の渡し板への上り階段にゾッピがいるのが見えた。それまで上で身を潜めていたゾッピは様子をうかがいに下りて来ていたのだった。
よっしゃあ。ゾッピよ、おとりになってくれ。
ヤスノリは足音を立てないように気を付けながら素早く下りの階段を下り、倉庫に入り込んで身を隠したが、もう大丈夫、という安心感と、この時間は、いつもいるはずの教室から抜け出して、想定外の体育館に今はいる、ということが、ふと、一年生の時の学校での予防接種の時の、ゾッピの起こした事件を思い出させた。
だが、その、保健室から飛び出して運動場まで逃走し、ミツアキに御用となった珍騒動を思い出したのは、どうやらヤスノリだけではなかった。
地下の倉庫で身を潜めているヤスノリに、上の方でミツアキとゾッピのやりとりが聞こえて来た。
「おっ、いたな、ゾッピ。覚悟!」
「くそっ、ミツアキか!」
吐き捨てるように言ったゾッピに、ヤスノリは、あの珍騒動を改めて思い出し、危うく噴き出すところだった。
ミツアキの足も速いが、ゾッピのすばしっこさもなかなかのものだった。二組の足音が演壇の上の渡し板に上るための階段の方へ向かっているのが聞こえた。
ヤスノリは倉庫から音を立てないように気を付けながら、階段を上って演壇に出てみることにした。
「ゾッピ、お前!」
あきれたようなミツアキの声がする。
演壇から声のした方を見上げると、渡し板をゾッピが渡り始め、ミツアキも身を乗り出して、板に上り、先を行くゾッピの後に続いているところだった。
前に、幼かったマサルがテレビに出てくる悪役を怖がったため、見られる番組が決められてしまっているミツアキの家で、ミツアキの父の許可のもと、これならいいだろう、と見せてもらった時代劇の捕物帳を見たことがあったが、あの時も、これと似たような光景がテレビの中で繰り広げられていたのをヤスノリは思い出した。
ゾッピは渡し板の向こう側へ辿り着いたが、ミツアキもすぐ後に迫っている。
「ゾッピ、観念しろ!」
ミツアキが叫ぶ。
渡し板の両すそには、上り下りのためのはしご階段が掛けられていたが、向こう側へ着いたゾッピはそのはしご階段を下りず、次の瞬間、渡し板から身を乗り出し、すぐ側に寄せられていた引幕を掴んで乗り移り、伸ばしたミツアキの手がぎりぎりで届かない所まで引幕を降りると宙に止まり、渡し板で悔しがるミツアキに、今度はそうは行くか、とばかりに、べぇっ、と舌を出して見せると、二年生の時に学校の教室のテレビで見た、子供向け教育番組の中の、消防士の出動のように、下の演壇まで幕を一気に滑り下りて行った。
これはクラスで一番身軽なゾッピだからできた離れ業で、大柄なミツアキは、さすがに幕が裂けると思ってか、渡し板を向こうまで渡り終えて、掛けられていたはしご階段で下りて来てゾッピの後を追うのだった。
ヤスノリは、まるでスローモーションのように目の前で展開される光景を見ていたが、ゾッピが引幕を滑り降りてくる途中、視界の片隅で、はるか後ろの体育館の入口に人影のようなものを捉えた。
やばい、先生だ……。
ヤスノリが思っていると、ゾッピが演壇に足を着けたのとほぼ同時に、大きな声がした。
「何をやっているんですか!」
河上先生が近付いて来た。
「全員出て来て、ここに並びなさい」
先生の声に、隠れていた残りの少年たちもしぶしぶ出てくる。
全員がセンターライン上に並んだところで先生は言った。
「ゾッピ君。あの引幕はもう古くなっているんですよ。いくら君が体重が軽いからと言って、あんな下り方をして、もしも幕が破れたら、そのまま下に落ちて、怪我で入院、ということになっていたかもしれないんですよ」
静かに、けれど諭すような先生の口調は、悪いことをした少年たちにとっては怒鳴られるよりもこたえるものだった。先生は何かを言おうとしたが、その時、五時間目のチャイムが鳴り始めた。
チャイムが鳴り終わったところで先生は言った。
「次の授業があります。急いで教室に戻りなさい」
下校時間となった。河上先生は、今日のお昼の件については何も言わなかった。明日も体育館の掃除はある。こんな事件を引き起こした場合、ふつうの学校では当然、要員交代なのだろうが、生徒数の極端に少ないこの水床島小学校ではそうはいかない。先生にとっては不本意ながら、そのまま同じメンバーで体育館清掃を続けさせるより他なかった。
全身を血が駆け巡るような、わくわく感をもたらせてくれたほうき蹴りは半ば不完全燃焼で終わってしまった。河上先生には申し訳ない気もあったが、それ以上に、体育館の掃除という、初めての経験は、まだ何か他にも冒険が残されているのではないか、という思いを少年たちにささやきかけていた。
ヤスノリも含めて、体育館掃除のメンバーの男子六名は、教室から校門へと無言で歩いていたが、ミツアキが最初に沈黙を破った。
「俺さ、昼のほうき蹴りの時、体育館の地下倉庫だったらどっか隠れる所があるだろうと思って入ってみたんだけど、跳び箱の奥の低い壁の下の方に、なんか四角い穴みたいなのがあるのを見つけてもぐり込んだんだ。けど、運悪く、こいつに見つ
かっちゃってさ……」
ミツアキは苦笑しながら、ヤスノリを見た。
ヤスノリは集まってくる他の皆の視線に、少しむずがゆさを覚えながらうつむいた。
「それで、その穴のことなんだけど、それって実は、体育館の床の下にもぐれる穴なんだ」
ミツアキの言葉に、他の少年たちが息を飲むのが見て取れた。
「おい、それって……」
ゾッピが顔を輝かす。
「なあ、明日も体育館掃除、あるよなあ……」
「ああ」
残りの五名が答える。
「体育館の床下探検か。なんかゾクソクするぜ」
ダスマの言葉に皆、うなずく。
「けど、灯りがいるよな」
タルケが言うと、
「懐中電灯なら親父のがあるぜ。明日、持って来てやるよ」
ミツアキが誇らしげに答えた。
台風が襲ってくる直前の、夜の見回り用に防水の効いた、昔ながらの武骨な懐中電灯を、駐在であるミツアキの父は持っていた。最新のLEDのものではなかったが、修学旅行から帰って来て、皆を送り届ける時にもお目にかかった優れものだった。
ヤスノリは白い歯を弾かせる同じ年のいとこを見て、少し頼もしく感じるの
だった。
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