第2話 家庭訪問
ヤスノリたちは、「起立、礼」のない授業に慣れ始めていた。河上先生は朝、教室に入ってくると出席は取らず、去年同様クラス委員のハナに全員いるかどうか聞くだけで授業に入ってしまうが、極端に生徒数が少ないこの小学校だから、話はこれで済んでしまう。
一学期が始まってから暫くたったある日のことだった。「帰りの会」の時間に、河上先生がプリントを見せながら言った。
「来週の水曜日は、午前中は授業で、午後からは家庭訪問となります。午後から皆さんの家に伺いますので、このお知らせをお母さんに渡して、都合のいい時間帯に丸をつけて明日返してください」
この島にはまだ昭和の名残りがあり、担任の先生がそれぞれの家庭を訪問して、父兄と話し合う家庭訪問が今でも行われていた。
お調子者のゾッピが妙に静かだ。家庭訪問といってもクラスが十一名なので半日あれば十分に事が足りる。その日の午後をつぶしてしまえば全員の家を回ることができる。今までずっと家庭訪問の時、ヤスノリは先生が家に来て母親と自分について話す、などというのはやはり気恥ずかしかったので、ミツアキとどこかへ遊びに行くのが常だった。ミツアキもやはり家庭訪問で先生が自分の家に来るのは気恥ずかしいらしい。その上三人兄弟なので、それぞれの担任の先生、合計三人が家に来ることになる。だから毎年この時期になるとミツアキは弟たちを連れて、二つ返事でヤスノリの誘いに乗るのだった。
翌日の朝。
渡された家庭訪問の時間表を先生に返す前に、ヤスノリはミツアキのを見てみた。訪問の希望時間の欄は一番最後の五時に丸が入っていた。
「そっちは何時だよ」
ヤスノリは自分のプリントを見せる。
「なんだ、一緒か。いつも通りだな。まあ、お前んとこからだと歩いて五分もかからないからな、うちまでは」
水曜日。
家庭訪問当日となった。学校が半日で終え、ヤスノリは家に戻るとお昼を食べた。
お昼をさっさと済ませると、ミツアキの家である島の駐在所へ行った。
この島には警官用の官舎も、アパートや貸し家も無かったので、ここの駐在所は他と違ってすぐ横に二階建て住宅が増築されており、さらに銭湯のないこの島での暮らしを考えて、風呂まで付いていた。この増築された住宅は隣接する二階建ての駐在所と一、二階でつながっており、ミツアキたち五人家族が暮らしても窮屈な思いをせずに済んだ。
駐在所のすぐ隣のミツアキの家の方の玄関で呼ぶと、奥から母親であるミチおばさんが出て来た。ミチおばさんはヤスノリの父の姉にあたる。
出て来たおばさんは半分あきれたような顔をしていた。
「ああ、ヤスノリ君。まあ、上がってよ」
ミツアキの父は、すぐ隣の駐在所にいるのが仕切り代わりのガラス戸越しに見えた。ミチおばさんに言われるままに二階の居間に上がって行くと、衝撃的な光景が目に飛び込んできた。一番末の弟マサルが母親と背丈が変わらないくらい大柄なミツアキにむしゃぶりついているところだった。ふだん仲の良い兄弟にしては珍しく
ケンカ(といってもマサルがミツアキに対して一方的に怒り、ミツアキは無言のままだった)の真っ最中だった。そばでヒロシがレフリーのように成り行きを見守っている。
同じく事の成り行きを見守るだけのヤスノリに、後から階段を上がって来たおばは言った。
「いえね、きのう、ちょうど今頃が産卵期で旬だから、と知り合いが子持ちキビナゴを宅配便で送ってきたの。それでさっき、揚げ物にしておかずに出したんだけれど、これがまた好評でね。いえ、好評だったのはいいんだけど、その前に、皆の皿に分けようとしたら、ちょうど一尾だけ余ってしまったので、それをマサルの皿に足しておいたのね。そしたらミツアキがマサルのを……」
おばの言葉が終わらぬうちに、この手が僕のを取って食べたのかよ、と叫びながらマサルはミツアキの大きな手を叩き、ミツアキはただされるがままにつっ立っていた。
「なあ、マサル。今日は家庭訪問だろ。もうそろそろ先生が来るから、それくらいでやめとけよ」
ヤスノリの呼びかけにマサルはしぶしぶ手を止めた。
「それよりさ、外へ行こうぜ。な、……」
マサルは、仕方ないか、と言いたげな表情でヤスノリにうなずいた。
こうして少年たちは階段を下りて行った。
「ヤスノリ君、お願いね。先生が来るにはまだ少しだけ間があるから、私、写経しようと思ってたの、その間だけでもお願いね」
ミチおばさんの言葉にうながされてヤスノリは玄関の戸を開けた。おばは脳の老化予防にと最近、般若心経の写経を始めたのだった。
一日に数枚ずつ写経して、今、やっと百枚を超えたところだった。目標の千枚はまだまだ先だ、とこの間、ミツアキは言っていた。
ガラス戸を通して、隣の駐在所にいるミツアキの父が見えた。こちらと目が合うと、微笑んだ。
ミツアキはヒロシとマサルを目でやり、村の中心への道を指さして、口を大きく動かしながら、だけど声はささやくように父親に言った。
「ちょっと行ってくる」
ミツアキの声は聞こえていなかったはずだが、そのメッセージは駐在所の中の父親にはちゃんと伝わっていて、おう、と答えたのが口の動きでわかった。
僕も父さんと、こんなふうに話のやりとりができたらいいのに……
ヤスノリはちょっとうつむくと、右足をはらうように動かした。
四人の少年たちはぶらぶらと歩き始めた。いつの間にかふだん通っている小学校の、河上先生に言われるまでは気に留めなかった、「門扉のない」校門の前まで来ていた。
一行は校庭の中に入った。
ミツアキは植え込みに近づくと、剪定(せんてい)されて落ちていた柳の枝を数本取り、リース状に編んで輪を作った。
「これで『追わえご』するか?」
「追わえご」とは鬼ごっこのことだ。この島では「追いかける」を「追わえる」と言う。
ミツアキは、リース状に編まれた柳の枝の輪を見せながら、更に続けた。
「今、思いついたんだけどさ、追わえながらこれを相手に投げて当てる、ってのはどうだ? もちろん、当てられたら、そいつが今度は鬼になって……。これならよく飛びそうだし、当たっても痛くないし……」
「面白そうだな」
ヤスノリは答えて、皆を校庭の真ん中まで誘導した。
日の光がやわらかな、春の午後の青空の下で少年たちはじゃんけんを始める。
結果は一番幼いマサルが鬼になってしまった。
はばかりない はばかりない
お月さん いっつも桜色
行者様をしのんでか
全員で「呪文」を唱え終わると、ミツアキが言った。
「悪いな、マサル。十数えてから追わえてこい」
マサルはしぶしぶ目を閉じて十数え出した。ヤスノリたちは水を撒いたように散って行く。
十数え終わったのか、マサルが追いかけてくるのが背後の気配でわかった。マサルがミツアキをねらって走っているのを視界の片隅で捉えた。
次の瞬間、「輪っか」が飛んだ。「輪っか」は見事にミツアキの背中に命中した。
「くそっ」
ミツアキは立ち止まり、地面にぽとりと落ちた「輪っか」を拾う。その間にもヤスノリは今度は逆方向に逃げ出した。
同じいとこ同士でも、毎年運動会の徒競走では、いつも一番でテープを切る俊足のミツアキとは逆に、ヤスノリはいつも、ほぼビリでゴールしていた。
ヤスノリは逃げながらも、ミツアキが自分の方を追いかけて来ているのがわかった。
懸命に逃げたが、いつの間にか目の前は校舎に阻まれていた。
しまった、行き止まりだ……
ヤスノリはミツアキが「輪っか」を投げてくることを予想して、とっさに左に体をよじらせた。
次の瞬間、「輪っか」は飛んだ。それはヤスノリの右横を通過し、一度校舎の建物に当たって反射してからヤスノリの体に当たった。
「へっへーっ。すごいだろ。俺の技」
ミツアキは得意満面だ。
ヤスノリは、ちぇっ、と言うと、落ちていた「輪っか」を拾い、ぎゅっと目を閉じると十数え出した。
……九、十。
目を開けて見ると皆、一目散に逃げている。
ようし、これだったら足の速いあいつに勝てる……。
ヤスノリは「輪っか」を握りしめるとミツアキを追いかけ始めた。
「くそっ、ノリヤス、こっち来んな」
ミツアキはヤスノリの名をもじって叫んだ。走りながら、逃げまどう相手の背中をねらうのは結構足に力が要る。
ヤスノリはちょっと立ち止まるとねらいを定めて「輪っか」を投げた。
「輪っか」は宙を飛んで行き、逃げるミツアキの背中に見事に命中した。
「ちくしょう」
ミツアキが叫んだところで、遠くでチャイムが鳴った。役場の、五時を告げるチャイムなのは、西の淡い蜜柑色の空が教えてくれた。
少年たちはしばらく「輪っか」投げで遊んだが、やがてミツアキは大きな手をマサルの肩にやりながら言った。
「もう帰るか」
遊びに夢中になっているうちに、いつの間にか機嫌の直ったマサルは黙ってうなずいた。
あたりは、もううす暗くなり始めていた。
少年たちはまだ明るさが残っている夕空を見ながら、ミツアキの家である島の駐在所に戻って来た。
「ああ、もう半時間くらい前だったわね、最後の先生が帰って行ったの……」
帰ってきた四人を見てミチおばさんは言った。
ミツアキんとこは、毎年、先生が三人も来るから大変だよなあ……。
ヤスノリは思ったが、おばの話によると、まず最初に河上先生を迎え、それからすぐに集まって来た、残りの二人の先生、ヒロシの担任の米田先生と、マサルの担任の市原先生は隣の駐在所で待っていてもらい、ミツアキの父親が、お茶を勧めたのだと言う。
学校の先生に駐在所で警官がお茶を出した、だなんて…。
ヤスノリはおかしくなった。
なんだか、まるで先生たちが、何かの面接を受けているみたいだ……。
ヤスノリは思った。
ミツアキたちと別れるとヤスノリは自分の家に向かった。
ヤスノリの家は古くからある大きな農家で、父と母の三人で暮らしていた。家の電話は今でもダイヤル式の黒電話で、洗濯機は昔ながらの、洗濯槽と脱水槽が分かれた二槽式。これは母親が嫁入りする時に実家から持って来たもので、ヤスノリが生まれる前から動いていて、今年でもう二十六年間動き続けているのだそうだ。家にはテレビは無い。先にも触れたが、テレビが無いのはこの島の住民の大半の家がそうだった。ミツアキの家と言えば、警官である父親が、職業柄、本土のビジュアルな情報が必要とのことで、新型テレビに買い替えた、島でも数少ない家の一つだったが、ヤスノリはそんなミツアキを特にうらやましい、と思ったことはなかった。と言うのも、ミツアキの家でのチャンネル権は、父親である警官のミノルおじさんが握っており、子供が喜びそうな特撮ヒーローものなどは、ミツアキたち兄弟に見せなかったからだ。
この水床島は、夜、家の電気を消すと、神秘的なくらいに静かで、物音ひとつしなかったが、昔、ヒーローものを見た一番末の弟のマサルが、夜中、うなされて目が覚め、あそこに~が立っている、と番組の中で登場する悪役の名を言って、誰もいない部屋の隅を指さして怖がったため、チャンネル権はミノルおじさんのものになってしまったのだという。
「まるで、「魔王」みたいね」
話を聞いた、クラシック音楽の好きなヤスノリの母は言ったが、それ以来、ミノルおじさんが、こんなものはもう見るな、と悪役が必ず出てくるヒーローものは見せないようにしてしまったのだった。
そんなマサルも、今ではぐんと成長し、もう暗闇を怖がることはなくなったが、ヤスノリは、その時のマサルの気持ちが、わかる気がした。
(「ヤスノリの思い出」)
遠い夏のある日。ヤスノリは、古い自分の家の木の部分が、昼間は熱で膨張していたのが、夜になると冷えて収縮する時に、勝手に鳴ることを気味悪がった。人のいない階段を、まるで誰かが上がっているかのような錯覚が起きるのだ。
母は、夜に階段が鳴ると、まだ幼かったヤスノリを上り口まで連れて行った。明かりを消した暗がりの中で、誰もいない階段を見上げていると、音がした。まるで、階段を透明人間が上っているかのようだった。
「これはね、ただ木が鳴っているだけなの。古い木の家ではよくあることなのよ。音の正体がわかってしまうと全然怖くなんかないでしょう?」
母の言葉にヤスノリも不気味に思いながらも納得するのだった。
(「ヤスノリの思い出」了)
都会の人が聞けば、恐ろしく文明から遮断されたような印象を受けるが、水床島の豊かな自然の中、慣れてしまえばこのような暮らしも、それはそれで乙なものだった。島の住民らにとっては、テレビ番組に浸るよりも、昔から続いてきた自分たち同士の交流の中でくつろぐ方がしっくりとくるのだった。
「おかえり」
母は夕食の準備で広い土間にあるかまどの前に立っており、帰って来たヤスノリを見ると言った。
「先生がね、あんたのこと、ほめてたわよ。まじめだ、って」
ヤスノリは自分がそんな風に思われていたのかと思うと、なんだかむずがゆくなってくる。
僕だって、いつもいつもそんなに言うほどまじめじゃないんだけどな……。先生は他にほめるところがないから母さんの手前、そんなこと言ったのかな……。
「先生ね、ゑびすやさんの二階に下宿してるんですって」
「ああ、聞いたよ」
「ふふっ、今夜はいいことがあるわよ」
話題を変えると母は笑った。
「何?」
「あんたの好きな高野豆腐の卵とじ作ってあげる」
ヤスノリは顔をほころばせかけたが、やめた。
「どうしたの? 急に」
「別に……」
ふと目をやったガラス戸の向こうの居間では、父がワインのコルク抜きを手に取り、じっくりと眺めているところだった。
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