ごぞんじでしたか? 南の海の水床島

茂村 拓時

第1話



       はじめに


 時間って不思議です。伸びたり縮んだり。あなたにとっての「今」は、他の誰かにとっては「今」ではない。そんなことだってあるんです。

あなたが今、胸の思いを叫ぶ時、あなたが眠っている世界も同時に存在すると言います。量子力学という学問が多世界解釈というものを、もたらしたからなのだそうです。

何それ? キモい。

いえいえ、そんなことはありません。だって、今、あなたが机に向かい、もう理科なんて考えるのもイヤ! と思ったとしても、あなたの知らない世界のあなたは、理科なんて超ヨユウ。得意中の得意、ということがあってもいいのですから。

 

今、この作品を読んでくれるあなたは、毎日がなんとなくつまらないのかもしれない。

そんな時、自分の知らない世界をのぞいてみませんか。現代にありながら、文明とは無縁の、時間が昭和の時代に逆戻りしてしまったような世界。そんな世界が、南の海に浮かぶ島にあったことをごぞんじでしたか? 

これはその島、水(み)床(とこ)島で暮らす少年たちの物語です。その少年たちの日々を、追体験するようなゲームを楽しむつもりで覗いてみませんか。

この、あなたの周りとは異なる時間の流れる世界を、風景の一部として眺めてもらえたらうれしく思います。



第一話 新しい先生


「あそこよ。あの菜の花の向こう」

 車がやっと一台通れるくらいの道で軽トラックが止まり、運転していた女の人がヤスノリに話しかけた。

 言葉の通り、菜の花の茂みを捜してみると、最後の一人が大きな体を丸めるようにして隠れている。

「ミツアキ、見ィつけた。ありがと、おばさん」

 ヤスノリが礼を言うと、女の人は軽く手を振って軽トラックを出した。

「ちぇっ、るびすやのおばさん、よけいなことを……」

 ミツアキは菜の花の茂みから、むすっとしたように言いながら出てきたが、顔は

笑っていた。

 去ってゆく軽トラックの助手席には、なじみのない顔の若い男の人がいたように思えた。

 ヤスノリは、軽トラックを目でやりながら、同い年のいとこのミツアキに話しかけた。

「なあ、さっき、助手席に誰かいたけど、誰だろう?」

「さあ……」

やがて、かくれんぼで先に見つけたミツアキの二人の弟、小学校四年生のヒロシと二年生のマサルも寄ってきた。

「おまえたち、さっきの男の人、知ってるか?」

 兄の問いに、二人の弟は、いや、と首を振るのだった。


ヤスノリたちは、黒潮の流れる南海の小さな島、水床(みとこ)島で暮らしていた。水床島は亜熱帯性気候に近く、本土からは連絡船で半時間程の距離にあったが、この島は、およそ文明とは無縁で、自動販売機もコンビニもなく、店と言えば、さっき軽トラックを運転していた女の人が営む、駄菓子屋も兼ねた食料雑貨店「ゑびすや」が一軒あるだけだった。この店には、いわゆるレジ袋というものが無かったので、ここでの買い物に、島の住民は、昭和の香りなつかしい買い物かごを持参するのだった。

さっき、ミツアキが言ったことからもわかるように、島の子供たちは、この店の「ゑびすや」と、昔の文字で書かれた看板を見て「るびすや」とふざけて呼ぶのだった。


水床島では時間が大変ゆるやかに流れる。世の中に携帯電話やインターネットが普及し始めても、島の住人等は、大人も子供もそのような文明の品々を持たなかったし、今や、一家に一台はある、といわれているテレビさえ、無い家が大半だった。テレビの無い家の情報源はラジオだった。

テレビが無い、といっても暮らし向きが貧しいからではなく、特に必要としな

かったからだ。

アナログ放送が終了し、地上デジタル放送に移行した時、島民の多くは、新型テレビに買い換えなかった。この島の住民は皆、身内のようなものだったし、テレビで映し出される世界は、なじみのない、遠い異質な世界でしかなかったのだ。

 島の住民のほとんどは、ふだん、腕時計などは嵌めず、朝の七時、十時、十二時、十五時、十七時と一日に五回鳴らされる、島の役場のチャイムを頼りにしていた。

島の子供らの遊びと言えば、缶蹴りやビー玉、トランプなどと言った、昔ながらの遊びが中心で、世間で流行りのゲームが根付くということもなかった。

 島には学校は小学校までしか無かった。水床島小学校の創立は明治十二年と古く、もともとは木造校舎だったが、老朽化のため、時代が平成に入って、やっと鉄筋三階建ての校舎に建て替えられたのだった。

いくら極め付きの田舎の小学校であってもパソコンの授業はあったが、

インターネットに興味を示す子供はいなかった。

この小学校は生徒数が最も多かった時で、一クラスが五十名近くの、各学年二クラス編成だったが、現在では各学年は、わずか十名前後の一クラス編成となり、それによって六教室分の余りができてしまい、以前使われていた校舎の三階部分は今では使われなくなっていた。

 こうして三階へは行くことがなくなってしまったため、子供らは、あそこでは幽霊だの妖怪だのが出る、などと言って、ふざけ合うのだった。


 一学期の始業式の日の朝。

 ヤスノリは布団の中で目が覚めた。起きようとしたが、まだ眠かった。


 しきそくぜくう くうそくぜしき……。


 一階の、仏壇が置いてある居間から、母の朝のお勤めの声が聞こえてくる。般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えているのだ。

 ヤスノリの家は、村はずれの一軒家だったので、近所をはばかる必要もなく、家族の者は皆、家の中で自然と大きな声で話すようになっていた。

 薄いカーテンを引いただけのヤスノリの部屋の窓はほの白く、朝食の時間にはまだ少し早いことが直感でわかった。


 ぎゃーてい ぎゃーてい はーらー ぎゃーてい はらそう ぎゃーてい……。


 ああ、もうお経が終わるな。

 うとうととした頭で考えていると、おりんの鳴る音がした。

 朝の勤めを終え、朝食の準備が出来たので、母は二階のヤスノリを呼んだが、いくら呼んでも起きてこない朝寝坊に業を煮やしたのだろう、二階まで上がって来て、ヤスノリの部屋に入ると、開口一番、こう言った。

「もう、はよ起きない(早く起きなさい)」

 母の言葉に、ヤスノリは、眠気の支配する意識の中で答えた。

「あと五分。あと五分だけ、マム、プリーズ」

 ヤスノリは、いつか英語の時間に習ったフレーズを添えた。

「何言ってるの。そんな英語なんかで言ったってだめよ。今日は始業式でしょ? 何かあったの?」

「別に……。ただ眠いだけ」

本当だった。昨日、いとこのミツアキたちと遊びすぎて、今朝になっても疲れがまだ少し残っていたのだった。

 母はいきなりヤスノリの掛け布団を引きはがした。

「うわっ!」

「さっさとしないと味噌汁が冷めるわよ」

 母の言葉に、ヤスノリはしぶしぶ服を着替えて一階へ下りて行った。

英語担当のヤマムラ先生が、お母さんにものを頼む時は、こう言うんですよ、とさっきの英語のフレーズを説明し、さあ、口に出して言ってみましょう、と促したが、実際に使ってみると、その効果は期待できるものとは言えなかった。

  

 朝食を済ませると、ヤスノリは学校へ向かった。途中にある、いとこのミツアキの家に寄り、ミツアキ、ヒロシ、マサルと一緒に歩き出す。

校門を入ってしばらく歩く。校舎の入口の所で、今度四年生になるヒロシと、二年生になるマサルは、じゃあ、後でね、と言って、それぞれの新しい教室へ向かって行った。

水床島小学校では、新学年の始業式だというのに、他の学校では、あるはずのクラス替えもなく、ヤスノリたち、五年生の時とまったく変わることのない新六年生が次々と二階の新しい教室に集まって来た。新しい教室、と言っても、それまで六年生が

使っていた隣の教室へ引っ越しただけのことだった。


 教室に入って席に着く。この小学校では新学期の席決めというものはなく、朝、教室に入ってどこでも好きな席に着けば、そこがその生徒の席となった。学年が

変わったというのに、クラス替え、席替えという、普通の学校にあるはずの高揚感が無かった。

ヤスノリは隣り合わせで席に着いたミツアキと冗談を言っていると、クラスの道化師、ゾッピが教室の後ろの入口から入って来て、いきなり大見得(みえ)を切った。

「絶景かな、絶景かな」

 

この台詞、「絶景かな」を初めて知ったのは、ヤスノリが一年か二年生の頃だった。水床島の漁港へ、クラスの男子連中と初めて遊びに行ってみると、漁から帰ってきた父親を見つけてゾッピが駆け寄った。開放的で、周りの人々と楽しみを分かち合う天分に恵まれたゾッピの父親は、歌舞伎役者がするように見得を切ってゾッピやその友達を楽しませるのだった。

 ヤスノリはその時、これが歌舞伎の「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」の中で石川五右衛門が南禅寺三門から満開の桜を愛でるシーンのセリフだとは知らず、家に帰り、夕餉(ゆうげ)の席で両親に、今日の出来事を話して、初めて教えてもらったのだった。

「でもね、あの、『絶景かな』の場面では、五右衛門は単にキセルを手に、あのセリフを言うだけで、見得、そう、あの歌舞伎特有の大げさな身振りは、特にしないなのよ」

 母にそう言われても、実際に歌舞伎を見たことがないヤスノリにとっては、ゾッピが父親の真似をした身振りが(正しい見得の切り方かどうかは別にして)歌舞伎というものの中で行われるらしい、と思うよりほかなかった。


クラスに集まったメンバーが、がやがやと騒いでいると、去年まで担任だった宇野先生が顔を見せた。

「あと少しで赴任式と始業式だから、皆、もう講堂に行きなさい」

「赴任式って何?」

 ゾッピがすかさず聞く。

「新しい先生がこの学校に来たので紹介する式のことだよ。そういえば、この島に新任の先生なんてしばらくなかったな」

「あれ? ひょっとして先生、今度、担任じゃないの?」

 宇野先生は、違うよ、ゾッピ、と首を振った。

 なんだ、違うのか、というつぶやきが、どこからともなく漏れて、またクラスはざわついた。

「さあ、もう式が始まる。静かに歩いて行くんだよ」


講堂に全校生がそろうと、新任の先生が紹介された。名前が呼ばれて、若い背の高い男の先生が演壇に上がった。

「あっ、あの人だよ。この前、かくれんぼしていた時、る(・)びすやのおばさんの隣にいた人」

 はっとなったヤスノリは並んだ列のすぐ前にいるミツアキにささやいた。


 自己紹介が済んで新任の先生が壇上から下りると、校長先生の長い話となったが、ヤスノリたちはろくに聞いておらず、講堂の壁ぎわに並んだ先生方の列にまた戻っていった、今度の新しい先生が気になって、そちらの方に、ちらり、ちらり、と視線を向けるのだった。

 

やっと式が終わって、今朝、皆が集まった新しい六年の教室に戻る。窓からの日ざしの中に、スチールではなく、木でできた十一台の机が置かれている。いったい、いつの頃から使われているんだろう、と思わせる、この木の目がくっきりと浮き出た凸凹(でこぼこ)の表面の机では、下敷きはなくてはならないものだった。

少ない生徒数のため、今までは、がらんとして見えていた教室の空間は、こうして始業式を迎えた後だと更にパキンと改まったように感じる。

ヤスノリたちが席に着き、今度の担任を待っていると、さっき紹介されたばかりの新顔の先生が入ってきた。講堂で見た時もそうだったが、こうして間近で見ると本当に背が高い。見ると腕に何か大きな封筒をかかえている。

「起立」

 と、去年まで学級委員だったハナが代表をつとめて号令をかけ、全員が立とうとした。

 現在、多くの小学校では、授業の始まりと終わりで、「起立」「礼」の号令は掛けないが、ここ水床島小学校では、昔ながらに、この号令が掛けられていた。

「ああ、そのままで」

 新しい先生はハナに言った。

「『起立、礼』、なんてしなくていいです。あんなの、時間のムダですから。ただし、他の先生の授業、例えば音楽や家庭科の時はちゃんとするんですよ」

 ヤスノリをはじめ、クラス中が驚いていると、新しい先生は教卓に封筒を置き、

チョークで黒板に、

「河上将彦」

 と大きく書いた。

「今日から、皆さんと勉強してゆくことになった河上です。この間、大学を卒業したばかりだから、僕は先生の一年生です」

 と自己紹介をした。

 今度はクラスで笑いが起きた。

「えっ、やっぱりおかしかった? 『一年生』って……」

「ううん、違うよ」

 すかさずゾッピが答える。

「この島じゃあ、大人の男は自分のことを言う時は、『俺』か『わし』だよ」

「えっ、そうなの?」

 先生の問いにクラス中が、そう、とうなずく。

「でも『僕』でもいいよ。無理に直さなくても……」

 ゾッピの言葉に皆笑った。

 河上先生もつられて笑う。

「わかりました。じゃあ、今から皆さんの顔と名前を覚えますから、名前が呼ばれたら、返事をして軽く手を挙げてください」

 河上先生は出席簿を見ながら全員の名を一人一人読み上げては、顔を確認した。

 名前が最後まで読み上げられると、ゾッピは言った。

「先生って、東京の生まれなの?」

「ええ。でも、僕は前から自然があふれる学校で教えてみたかったんです。だからこの学校に来ることになりました」

 ああ、やっぱりな、言葉で東京の人だ、ってわかる……。

ヤスノリが思っていると、ゾッピがこう言うのが聞こえた。

「ねえ先生。この学校って、実は『赤シャグマ』が出るって、知ってた?」

「何ですか、その……」

「『赤シャグマ』」

 河上先生の問いにクラス全員が口をそろえて答えた。

「『赤シャグマ』……? 何なんですか、それ?」

「ゆーれい」

 ゾッピは両腕を出して手をだらりと垂らして、ふざけて見せた。

「妖怪でしょ」

 シズがすかさず訂正する。

「いいじゃん、どっちでも」

 言い返したゾッピに先生が助け舟を出した。

「まあ、幽霊も妖怪も、怖いと思う人間の心が作り出すものですからね」

 そうかもね、とゾッピはうなずいてみせる。

「『赤シャグマ』はね、髪の毛が赤くって、子供の幽霊なんだ」

「妖怪」

 シズがまた訂正する。

 うるせ、とつぶやいて、ゾッピは話を続ける。

「そいつはね、ふだんは人の家の仏壇に住み着いてて、夜になったら現れて、寝てる人の足の裏をくすぐるんだ。いたずらするのが大好きなのさ。『赤シャグマ』は、実はこの学校にも住み着いてて、この教室のちょうど上、そう三階に、夜になったら現れて,三階から二階、二階から一階へと……」

「先生、こんなの相手にしちゃだめよ」

 河上先生が反応する前に、おませなワックがゾッピを指差して言った。

 開放的な南国気質の子供たちが次々と話しかけてくる。ふだん、島の住民以外の人と話す機会が無いこともあってか、皆、この東京から来た新しい先生に興味津々だ。

「あのね、これって、もう一年の時から変なんです。授業中、勝手に席を立って教室の中を歩いて、入学早々廊下に立たされたんですよ」

 と、ゾッピを指差しながらワックが言うと、河上先生は、言葉が見つからない、といった表情になった。

ゾッピは、へっへー、となにやら得意そうな顔だ。

「それから後も、私たち女子にもいろいろといたずらをしてきて、私、スカートめくられたんで、その時の担任の先生に言ったら、ギロチン台の刑になったんです」

「ギロチン台?」

 けげんそうな声で先生が聞くと、

「理科室の実験台の横に付いている、大きな水道のことですよ。ああ、この島ってね、床屋さんが無いんです。だから島の人たちはたいてい自分の家で誰かに刈ってもらうんですが、男だったら、大人も子供も、頼めば、学校の理科室で、丸刈りにしてもらえるんです。実験台の横の水道に大きなビニール袋を掛けて、そこで男の先生がバリカンを持って……。ちょうど、あの時、この子、けっこう髪が伸びていたから、おしおきもかねて、丸刈りにして

もらったんです。あんたのお母さんだって喜んでたじゃない、『散髪してもらえて

助かった』、って」

 ゾッピが、へへっ、と頭の後ろに手をやった。河上先生は、ギロチン台の正体がわかったので、ななあんだ、といった顔になっている。

「ね、スカートめくりだなんて、今時古いでしょ? ほんと、時代遅れなんだから、これ」

 ワックは前の席のゾッピを目で押し返すようにしながら言うのだった。

「ああ、でも一番傑作だったのはやっぱり、あれ(・・)よね」

 ワックが、今。思い出してもおかしい、といった表情でつけ加えた。

 あれ、の意味がわからず、無言のままの河上先生に、カーチーが答える。

「あのね、先生。この島には診療所が無いの。だから、もう本土ではやっていない集団予防接種が特別に行われているのよ、今でも……。だって、もし集団感染、なんてことになったらパニックでしょ? 完全に密室状態(じょうたい)だからね、この島は。それで、一年生だった時なんだけど、この子ったらね、緊張のあまり保健室を逃げ

出して……」

 そこまで言うとカーチーは、「この子」と呼んだゾッピを見て、くっ、くっ、

くっ、と咳き込むように体を曲げ、まるで何かの発作をこらえていた。

 やがて発作(?)が治まると、笑いながら話を続けた。

「この子ったら、保健室逃げ出して、運動場へ飛び出して行ったの……」

 河上先生は、ただあきれたという表情で聞いている。

「それで皆で後を追っかけて……。で、この子が(と言ってカーチーはミツアキを見た)学校で一番足が速いんだけど、現行犯で捕まえたのよ。さすが駐在さんの子

でしょ?」

 そう言ったカーチーにミツアキは、おい、よせよ、とささやく。 

「それでね、後から追いついた皆でゾッピを保健室へ連れ戻したんだけど、今までさんざんいたずらばかりしてきた罰として、注射を肩じゃなくて、お尻に打たれたのよ、ゾッピって……」

 言葉が終わらないうちに、周りの皆は笑いだす。ゾッピも少しもこたえた様子もなく、それどころか、自分が注目を浴びて何だかうれしそうにさえ見える。

「何? 今言った、ゾッ……?」

 初めて聞くその名に河上先生は聞き返した。

「ゾッピ」

 と当の本人が答える。

「えっ? 君、どうしてそう呼ばれてるの?」

 そう聞いた河上先生に、再びカーチーの解説が入る。

「『ゾンビ』がなまったものなの。そんなおしおきをされても、少しもへこたれないのを見ていた宇野先生が『ゾンビみたいだ』って言ったんだけど、この子、その名が気に入って、自分でも自分のことを、ゾッピ、ゾッピって……」

 この島では、テレビの無い家庭の子供がほとんどだったが、見たことも聞いたこともない「ゾンビ」という言葉に、最初は皆、何のことだかわからずにいたが、何か、尋常なく異様なもので、その言葉が、その驚天動地ぶりを表すのにぴったりの表現だ、ということだけは直感で理解でき、結局ゾッピというあだ名が付いたのだった。

 先生はここで話題を変えようとして言った。

「でもそれはさておき、初めてこの学校に来た時、僕は校門に門扉、つまり門を閉める扉が無いことに驚きました」

「えっ、そうなの」

 ヤスノリが心の中で思った通りのことをゾッピが言う。ほかの皆も、それがどうしたの、といった顔つきだ。

「ええ。普通、小学校の校門には、門を閉めるための扉があるんです。扉といっても、たいていは重くて大きな引き戸のようなものですが……」

「ふーん。でも、この島じゃあ、夜、家に鍵を掛けない家なんてざらにあるぜ。だから、こいつの父ちゃん、活躍できなくてさ。というか、だいたいこの島に悪いことするやつなんていないし」

 ゾッピはミツアキを指さしながら言う。

「えっ、そうなの? えーっと、君の……、そう、寺野君のお父さんて、警察官なんですか?」

 まだなかなか受け持った生徒の顔と名前が一致しないでいる先生が出席簿を見ながら聞いた。

「だって、さっき、カーチーが『さすが駐在さんの子』、って、こいつのこと言ってたじゃん」

 おい、と横から口をはさむゾッピを、苦笑いをしながら制して、ミツアキが答える。

「ええ、まあ……。ああ、それから、今度から俺を呼ぶ時は『ミツアキ』でいいです。その方が慣れてますから」

 笑いながらうなずいた河上先生にハナが聞く。

「先生。ずいぶんと背が高いけど何センチですか? あと先生の好きなものって何ですか?」

「まず身長だけど一メートル八十三センチです」

 そう答えた時、大きい、というつぶやきがあちこちで聞こえた。

 この新しい先生は続けて答える。

「それから好きなものっていうのは僕の趣味ってこと? うーん、そうだな。僕は写真を撮るのが好きだな。それとあと旅行も。まあ、旅行と言っても、写真の撮影のためにあちこち

行ってるようなものだけど」

「海外旅行なんかもするんですか?」

 ハナの仲良しのミッコが聞く。

「ええ、この前も大学の卒業旅行で北欧、つまり北ヨーロッパを回りましたよ」

「へえ、すごい。じゃあ、先生、英語はペラペラ?」

 ゾッピの問いに、河上先生は笑いながら答えた。

「いや、そうなりたいんですけどね、実は海外旅行といっても一人旅じゃなくて、

パックの団体旅行だったんです。だから何もかも添乗員さん任せで、英語は話す必要はなくて……」

 なーんだ。

 誰かがささやく。

「ところで僕の趣味の写真のことなんだけど、今日はこんなのを持ってきました」

河上先生は笑いながら、さっき教卓に置いた大きな封筒を立てると、中から大きく引き伸ばされた写真を取り出してこちらに見せた。

「これは今まで僕が国内、国外、いろんなところを旅して撮った写真です」

 うわぁ。

 驚きの声が漏れる。

 石造りの建物の手前の川に架かる石造りの橋。墨汁を流し込んだような夜の川に、石橋の欄干の灯りが散らばっている写真だった。

「これは北欧を回った時に写した、ある街、えーっと、名前はもう忘れてしまいましたが、その街の夜の風景です」

 先生は写真を皆に暫く見せると、次の一枚を取り出した。

 ああ、見たことある。

 誰かの声がした。

「そうでしょう。今度は国内になりますが、これは京都の八坂の五重の塔です」

 クラス中が写真に見とれていたが、やがて先生が言った。

「写真ってね、実はこんなテクニックも使えるんです」

 そう言って、五重の塔の次に見せてくれたのは、全体が濃い灰色で、白い二本の線が光るようにして奥に向かって伸びている写真だった。

 ヤスノリも他の連中もその写真の少し異様な感じに言葉が喉の奥で止まってしまっている。

 こんな写真は初めてだ……。

「これは北海道を旅行していた時のものなんですが、もう使われなくなってしまった鉄道の線路を撮ったものです。白黒フィルムを使って、色のついていない、昔風の写真にしてみたのですが、現像の時にネガを反転させてみました」

「先生、そのネガの反転って、何か意味があるんですか?」

 ハナが少しいぶかしげに聞く。どうやらハナもネガの反転された写真に違和感を覚えているようだ。

「そうですね。こんな風にすると、まず見る人の注意を引くでしょう? だから、このようにネガを反転させるのは、何かを伝えたい時なんかに使うテクニックなんです」

「じゃあ、先生はこの写真で何を伝えたかったんですか?」

 ハナが続けて聞いた。

 河上先生は、なかなか鋭いな、この子、といった表情を浮かべて、答えた。

「そうですね。使われなくなってしまったこの鉄道の歴史ですね。今までいろんな人のいろんな思い出がつまっているはずの時の流れ、とでも言うか……」

 先生がそこまで言った時、チャイムが鳴った。三時限目の終わりを告げるチャイムだった。

「起立」

 と、つい習慣でハナが言い、他の皆も立ち上がろうとしたので、先生はハナを手で制して

笑った。

「だから、いらない、って」

 

 次の四時限目は学活だった。ハナはもう、「起立、礼」の号令は掛けなかった。最初、去年までクラス委員だったハナが気を利かせて号令を掛けたが、選挙をすることもなく、もう今期もクラス委員はハナ、ということに自然に決まった。この日は始業式だったから、皆、半日で帰ることができるうれしさでいっぱいになっていた。新しく来た先生とクラスの皆との会話で時間は過ぎていったが、まだ四時限目の途中というところで、少しくぐもった感じのチャイムが聞こえてきた。

 あれ、とけげんそうに河上先生は腕時計を見る。

「先生、これは役場のチャイム」

 ハナがなんだか得意気に言う。

「そうでしたね。この島では役場がチャイムで時間を知らせてくれるのでしたね」

 小さな水床島では役場のチャイムはどこからでも聞こえた。教室の中で聞く時は、学校のチャイムはスピーカーから流れるので、はっきりとした音だったが、離れた場所にある役場のチャイムは少しくぐもったように聞こえる。だから慣れてしまえばもう間違うことはない。

「なれないうちは役場のチャイムなのか、学校のチャイムなのか間違いますよ、と今朝、職員室で聞いたばかりなのに……」

 先生が残念そうにしていると、ゾッピがふざけて言った。

「こうして授業はいつも中断させられるのであった、てんてんてん」

 すかさず先生の解説が入る。

「それは『てんてんてん』、ではなくて三点リーダーと言うんです」

「三点リーダー?」

 聞き返すゾッピに河上先生は答えた。

「そうです。三点リーダーです。ちょうどいい機会だからこれについて少し話しておきますね。『てんてんてん』で、すでにおなじみのこの三点リーダーは、まず文の最後で余韻、つまり、何かが終わった後に、心に残るものを表す時に使います」

 と言って、チョークを取り、黒板に「そして誰もいなくなった……」、と書いた。

「今、彼が言った言葉も含めてね」

 ゾッピはへっへー、とまた頭に手をやってみせる。

「それから、文の省略を表す時にも使います。例えば、新見南吉の『ごんぎつね』の最後の場面で兵十がごんに言う台詞を敢えて略して三点リーダーを使って表すとこうなります」

 そう言うと、河上先生は黒板に、『ごん、お前だったのか……』、と書いた。

「この『お前だったのか……』の後にはどんな言葉が入りますか? まあ、原作を読めばわかりますが。『ごんぎつね』は、おはなし会なんかでおなじみのはずですよね。さて、誰に聞こうかな、じゃあ、中田君」

 先生は出席簿を確かめるようにしながら言った。

ヤスノリは、最初自分が呼ばれていることに気づかずにいた。さっき、始業式が済んだ後、この教室で、全員の顔と名前を覚えるから、と出席簿を見ながら先生が点呼した時も、中田康範君、とフルネームで呼ばれたのに。

苗字で呼ばれるなんて、先ほどの点呼の他には、一年生の入学式の時しかなかった。一、二年生だった時の担任の女の先生、市原先生は「ヤスノリ君」、三、四、五年と担任だった男の宇野先生は「ヤスノリ」と名前で呼んでいた。

「おい、ヤスノリ、ヤスノリ」

 隣の席のミツアキがささやく。

ヤスノリはやっと自分が呼ばれていることに気づくと立ち上がった。

「ごんぎつね」の話は知ってるけど、、ラストのセリフまでは覚えて

いない……。

 ヤスノリが答えられずに、もじもじとしていると、ゾッピが言った。

「先生。これからは苗字じゃなくて、下の名前か、あだ名で呼んだほうがいいよ。その方が通じるし……」

 教室に笑いが起きる。

「じゃあ、中田君、じゃなくてヤスノリ君。どうだろう? 『ごんぎつね』の話は

知っているよね?」

 ヤスノリは、ええ、まあ、と恥ずかしそうにうなずいた。

「そう。でも、細かいセリフまではいちいち覚えていないかな。じゃあ、もう座って。代わりに誰か知ってる人? ラストで言う兵十のセリフですよ」

ヤスノリがゆっくりと腰を下ろすと、ハナが手を挙げた。

「じゃあ、増田さん、じゃなくて、名前の方がよかったかな?」

河上先生の問いに、きりっとした声がした。

「はい。ハナでいいです」

「じゃあ、ハナちゃん」

「『いつもくりをくれたのは』、です」

「そうですね」

先生がうなずいて三点リーダーの説明が一区切りつくと、ゾッピがまた言った。

「ところでさ、先生。この島には呪文ってのがあってさ。俺たち、よく何かを始める前にそれを唱えるんだよ。この呪文のことは聞いてた?」

「呪文って、たとえば『開け、ゴマ』、みたいなやつですか?」

 と聞いた先生に、ハナが笑いながら答える。

「いえ、違います。呪文って言っても、伏魔殿の扉が開くものではなくて、もともとはこの島に伝わる歌だったみたいなんですけど、今では、その歌詞の方だけが呪文と呼ばれて伝わっていて、何かを始める前に、私たちよく唱えるんです。この呪文」

 ハナが言い終わらないうちにゾッピが聞いた。

「何? さっきの『フクマデン』、って……」

 問いを投げかけてきたゾッピに、それくらい自分で調べなさいよ、と言いたげにハナは答えた。

「悪者のアジトのことよ」

 先生も、そうです、とうなずき、更に尋ねる。

「それで、その呪文というのは、どんなものなんですか?」

 ゾッピの、せーの、の掛け声でクラス中(といってもわずか十一名)が声を合わせて唱えだした。


 はばかりない はばかりない

 お月さん いっつも桜色

 行者様をしのんでか


 河上先生はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「なんか面白い呪文ですね。でも『お月さん 今夜は桜色』、じゃないのかな? 『いつも』、じゃなくて……。だって、『いつも』だと雨や新月など、月が見えない晩も含まれてしまうでしょう? そんな時はお月さんが桜色になっていることがどうやってわかるんで

しょう? 逆に『今夜は桜色』、だと月が見えている夜のことになるから、まだ意味が通っていると思いますよ」

 クラス中が黙りこむ。

 今までそんなこと考えたこともなかった……。

 ヤスノリが思っていると声がした。

「でも、とにかく、こうなの、この呪文。これで合ってるの」

 ゾッピが口をとがらせている。

「わかりました」

 河上先生はゾッピをなだめるようにして言うと続けた。

「それから、さっき言った呪文の最初の言葉。『はばかりない』って、『はばかりなさ

い』ってこと?」

「ええ。このあたりの方言で『~なさい』ってのを『ない』って言うんです。たとえば、『早く起きなさい』は、『はよ起きない』になります」

 ハナの説明が偶然、今朝、母から言われた言葉と重なって聞こえたヤスノリ首をすくめそうになった。

「じゃあ、はばからない、つまり、本当に、はばかろうとしない、って時はどう言うの?」

「その場合は、『はばからん』ですね」

 二度にわたるハナの説明に、なるほどね、と先生が笑ったところで、またチャイムが

鳴った。今度はより大きく、はっきりした音だったので、教室のスピーカーからのものと

わかった。

「じゃあ、今日は半日ですから、これでおしまい」

「やったあ」

 クラスがいっせいに歓声を上げた。

「あれっ? そう言えば、先生って、どこに住んでるの? この学校には宿直室なんてないよ……」

 好奇心の強いゾッピが聞く。

「ああ、僕は『ゑびすや』さんの二階に下宿させてもらってるんです……」

 なあんだ、だから、あの時、軽トラに乗っていたんだ……。

 ヤスノリは、この間ミツアキ兄弟とかくれんぼをしていた菜の花畑での出来事を思い出した。

「じゃあ、安心だね。る(・)びすやのおばさん、世話焼きだから……」

 ゾッピの言葉に皆笑う。

 席を立つと生徒たちはそれぞれの家路に就いていった。

「バイよ」

「バイよ」

 教室を出る時、ヤスノリたち男子は声を掛け合った。これがこの島の少年たちの「さよなら」だ。

外に出ると、春風が校庭の土を巻き上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る