第一章 死にたい私と顔のない女

カンカンカンと音を立てて閉まろうとする踏切の音を聴きながら、周りに誰もいないことを確認するため首を左右に動かす。私は今、死のうとしている。ただ漫然的に、偶発的に死のうとしているのではなく必然的に、計画的に以前から今日、死のうと決めていた。私の人生はいたって普通だった。そりゃ、普通の定義なんて人によって違うけれど。私はたくさん愛されて、それなりに勉強をし、なんとなく高校まで進学して現在までただ漫然と日々を謳歌していた。ここだけを聞くと、では何故貴方は死のうとしているのか。と思う人がいるかもしれない。けれども、死にたい理由なんて人それぞれ。仮に言ったとしてもそんな理由で、なんてきっと言うはずだろう。そうこうと私が考えている内に自然と踏切へ視線を戻すと、もう頭の高さくらいまでバーが下がってきていた。よし、今日こそは。私は目をしっかりと瞑って一歩を踏み出す。さよなら、しんどい世界。今までありがとう。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 どれくらい時間が経っただろう。恐る恐るゆっくりと目を開けるとはっはっはっと自分の息が聞こえてくるのと同時にドクン、ドクン、ドクン、ドクンと素早く心臓が鼓動しているのが分かる。生きてる。私は、生きていた。気が付くと踏切は上がり、いつもと変わらない風景が、そこで私を迎えていた。

「はぁ」

少し時間が経って私はへなへなと意気地のない一歩を踏み出す。今日も私は死ねなかった。

 

 「ただいま」

 気の抜けた私の声が二階建て一軒家の廊下に響き渡る。

「おかえり。学校どうだった?」

「うん。楽しかったよ」

 表情筋に力を込め、せっせと洗濯かごを腕に抱えて玄関までやってきていた母に向かって、私は精いっぱいの笑顔をする。

「それはよかった。手を洗って、リビングに来なさいね。夜ご飯できてるから」

「うん」

 相槌を打つなり、母はまたリビングへと戻っていく。何が楽しかった、だ。一日中道草を食ってサボっていたくせに。もしかしたらサボったことがばれるかもしれないという恐怖と支援してくれている人達を裏切る行為をしているという罪悪感を両手に抱えながら、雑に散らばっていた自分の靴を揃えて私は洗面所へと向かう。

「もうどうすればいいか、わかんないよ」

 誰に聞かせようと思ったのかわからない私の言葉は、誰に聞かれることもなく玄関へと吸い込まれていった。 

 

  夕飯を食べ、勉強をやるからと嘘をついて二階の自室に戻るなり、数時間。今に至るまで私は、ぼーっとベッドの上で携帯とにらめっこをしていた。死にたいどうすればいい、楽な死に方、そんな曖昧で自己愛に満ち溢れた言葉達が携帯を介して眼の中をゆらゆらと泳ぐ。どうしたら、いいんだろうか私は。携帯をいじくる手を止め、電源を落として私は天井を見つめる。別に学校でいじめられている訳でもないし、いたって学業ができないというわけではない。ただ、あの頃に戻りたいとひたすらにいもしない神様に懇願する毎日、というだけ。ありもしない奇跡にひたすらにしがみつこうとする日々。不意にふああと情けない声が口から漏れ始める。初めは気にしていなかったものの次第に眠気が勝っていき、そろそろ睡眠をとれと体が催促をする。いったい今何時なんだろう。私は重い体を起こして壁にかかった電子時計を見る。時間を見るともうすぐシンデレラの靴がほどけそうな時間になっていた。そろそろ寝ようかな。私はゆっくりと立ち上がり、部屋の電気を切ってもう一度ベッドに入る。ああどうか、明日が来ませんように、そう願いながらゆっくりと目を閉じて。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  

  おかしいな、アラームが鳴らない。早起きし過ぎたのだろうか?目を開けると、日の光が少しカーテンをすり抜けて、体へと差し込んできていた。今何時なんだろう?私はよたよたと情けない手つきで枕元にある携帯を手に取り、時間を確認する。

 「げッ」

 どうやらアラームをかけ忘れていたらしい。時間を見ると普段はもうとっくに制服に着替えて自転車に乗って学校へ向かっているはずの時刻になっていた。まずい遅刻ギリギリだ。(まぁ、遅刻といってもサボっているのをばれない為に学校に行く時間に家を出るだけなのだが)私は急いで制服に着替えて自室をでて、階段を降り、リビングへと向かう。

「ごめん、今急いでるから朝ごはんいらなぃ……って、あれ?」

 あれ?おかしいな。誰もいない。いつもは仕事に向かう前の父と朝ごはんを作って一息入れている母がいるはずのリビング。けれど今は人っ子一人いなかった。急用で二人ともどこかに行っているのだろうか?恐る恐る、私はそのままリビングの中央に頓挫する食卓へと向かう。しかし、机には何ひとつ置手紙などは置かれていなかった。ということはよっぽど急用だったのだろうか。

 だが、何があったにせよこちらとしても小言を聞かなくてすんで助かった。とにかく今は急いで家から出なければいけない。特にそれ以上は気にすることはなく、そそくさと寝起きの体を急かしながら私は玄関へと向かう。急げ、急げ。もっともっと。もたついた手で入学した時よりも少しきつくなったローファーに足をかけ、力いっぱいに扉を開く。瞬間、体に眩い日差しが差し込み、それと相対するように腹の底から暗い気持ちがのし上がり始める。ああ、今日もまた、地獄のような日々が始まるのか。心臓が無意識に鼓動を早め、目の前の現実に目を背けて逃げ出したくなる。けれども、

「え????」 

 そう考えていた私の思考はたった今、目の前の景色に奪われる。この時ほど、私は後にも先にも、こんなに驚くことはないだろうと思う。本当に。なぜなら、家の扉を開けた先、そこは私以外誰一人としていない世界だったのだから。


 「一体どういうこと?」

 家の鍵を閉め、自宅を挟んだ道路へと私は一歩踏み出す。いつもは通勤やら通学やらで車や自転車がひっきりなしに右往左往しているはずの道。でも今は、全く人の気配がなかった。何が起こったんだろう。頭の中で状況が上手く整理しきれない。とりあえず、昨日やったことを……頭がパニックに陥る前に私は寝起きですっからかんの頭をフル回転で稼働させる。えーっと、昨日私は何をしたっけ…学校をさぼってカフェを転々としながら七限が終わる時間までゆっくりと過ごして、その後家に帰ってご飯を食べてネットサーフをして……だめだ。なんでこういうことになったか、わからない。

 整理すればするほどなんだかまた頭の中がパニックになりそうだったので、もう一度落ち着くために私は試しに深呼吸をしてみる。二度、三度すーはぁ、すーはぁと繰り返す。しかし、それだけでは当然物足りず、何度も何度も、深呼吸をする。でも、繰り返し、繰り返し、やってもなんだか思うように呼吸をできた気がしない。だけど、やらないよりはマシになった、気がした。とりあえず、もう一度。今度はなるべくポジティブに考えよう。新鮮な酸素を取り入れた頭ならきっと、何か思いつくはず。私は再度、自身の状況を思考し直す。

 まず、たまたま近くに人がいないだけで私だけしかいない、なんてことはないだろう。きっと、そうだ。そうに決まってる。そうだ!SNS!それがあった!SNSで呼びかければきっと誰かとつながれる。とりあえず、それで状況確認を……私は手をポケットに突っ込み、入れたてほやほやの携帯を取り出す。きっと、誰かいる。きっと。吊るしだされた蜘蛛の糸をつかむ気持ちで携帯に電源を入れ、アプリを開く。けれど、

 「え……」

 どうして。開けたと思ったはずのアプリは起動していなくてずっとホーム画面のままになっている。どうして、どうしてなの。なんで。何度も、何度も私はアプリを押し続ける。しかし、起動しない。電波は繋がってるはずなのに……ふと、視界が逸れて画面の右上へ移動する。あ。あぁ、あぁ、あぁ。そういうこと、か。道理で、道理で。

 「ハ、ハハハ」

 不意に力が抜ける。抜けた途端に言いようのない恐怖が、体に襲い掛かってくる。山奥でも何でもないのに。昨日まではここで使えていたはずなのに。私の携帯の電波は圏外になっていた。本当に私は一人になってしまったのかもしれない。私はへなへなと地面に座り込み、思わず両手で頭を覆いかぶせてしまう。でも、よかったんじゃないだろうか。もともと消えたいと思っていたし。私が消えたところで悲しむ人間なんていないだろうし。

「アハハ、ハハハハ」

 今の自分の姿が滑稽で、情けなく見えて、なんだか可笑しくなってくる。

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ」

 ねえ、どうしたらいいの。

「ねぇ」

「ハッ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 久しぶりに大きな声を出したかもしれない。慣れていないからかせき込むようになる。

「ねえ、」

 これからどうしたらいいんだろう。

「ハハハハハハハハハハはははははぁぁぁぁ……」

 体中に残った酸素を全部吐きだすように大きなため息をつく。

「ねえってば!!!!!!!」

 今、肩を揺さぶられた?

「え?」

 誰か、いるの?

「誰?」

 羞恥と絶望とわずかな希望の狭間で、死にそうになりながらも恐る恐る私は顔を上げる。

「は?」

 訂正しよう。さっき私は、後にも先にもこんなに驚くことはないだろうと思う。と言ったがそれは嘘であったということを。なぜなら、私の肩を揺さぶったもの。それは人間ではなかったからだ。



  「どうして笑ってるの?」

 奇怪な姿をした化け物が私に疑問を投げかけてくる。

「あっ、えっ」

 なんだ、こいつは。逃げよう。反射的に私の足は動き、立ち上がろうとする。が、情けないことに腰が抜けて上手く立ち上がれず、思わず尻もちをついてしまう。

「ねえ?」

「ひっ……」

 尻もちをついたから猶予をくれるなんて別に思ってはいないが、俄然そんな事関係なく、容赦なく徐々に化け物は歩を進めて私へと近寄り始める。ごめんなさい、ごめんなさい。間違いなく殺される。遂に触れられる距離まで近づいて来る化け物。その右手は天へと掲げられ、すぐさま私の元へと振りおろされ、

「貴方、大丈夫?」

「へ?」

 思わず、瞑っていた目を開けると化け物は私の顔の前に手を差しだしていた。

「よかったぁ。私以外に人がいて。もう誰にも会えないのかと思っちゃったよ」

「人?」

 私は目をかっぴらいて上から下までなでおろすようにそいつを観察する。確かにそいつの体は、どこかで見たことのあるブレザーにスカートを着用した女性だった。だが、頭の部分は何だろうか?私はつま先まで見ていた眼球をもう一度上に追いやる。瞳の中に映るそいつの情報が間違っていなければそいつ。化け物の頭部は白い球体のようなもので覆われていて、その球体には漢字で大きく「不安」と書かれてあった。何、これは?意思疎通を図るための手段?少し目を引いて、私はもう一度その全体像を確認する。改めて見渡してみるとそんなに奇怪な化け物ではなく、ただの丸い箱を被った人間だということがわかる。さっき見たときは言いようのない強烈な違和感だったのに。なぜだろう。ファーストインプレッションの効果が恐ろしい。

「大丈夫?」

 手を差し伸べたまま化け物がまた一歩踏み出し、比喩なしで本当に目と鼻くらいまで私との距離を詰めてくる。パニックになっていてわからなかったが、化け物の声は顔以外の容姿にあった可愛らしくて明るい女性のような声だった。

「ねぇ、貴方のお名前は?」

「………」

「貴方のお名前はなんて言うの?」

「……」

 私の決め込んだ無視に対して、何度も化け物は名前を聞き続ける。少しばかり、考えて欲しい。仮に人間だとしても、よくわからない赤の他人に名前を教える人間なんているだろうか。いや、そうそういないだろう。それにその謎の球体がある限り顔が全く見れないし、まだ人間であるかどうかなんてわからないわけだし。

「むぅ、こっちから声かけてるのに全然話してくれない………あ、もしかして貴方外国の人?ハロー、ナイストゥミィーツゥユー?」

「…………」

 でも何故だろう?不思議と声色から敵意はない気もしてくる。

「うーん。難しいなぁ」

 不意に化け物は首を傾げる。傾げた瞬間に化け物の顔面に書かれた「不安」という漢字は急に「難」へと変わり果てる。

「……ッ」

 なんだ、こいつ。やっぱり人間じゃないのか。

「あ、そうだ! 先に私の名前を教えてあげたらいいのか!」

 人間かどうか怪しむ私の思考に猶予を持たせることなく、すぐさま左の掌に右の拳を化け物が合わせると、顔に書いてある「難」という文字がくるくるとルーレットのように回転し、今度は「開」という文字が刻まれる。もしかして、自分の感情に合わせて顔に書いてある漢字が変化したりしているのだろうか?しかし、私のそんな考えを知る由もなく、そそくさと化け物は自己紹介をし始める。

「私の名前は姫山あずき! 歳は十七! あ、十七歳って言っても高校三年生ね! 趣味は休日に友達とカフェ巡りしたり、プリ撮ったりすることで将来の夢は~」

 名前以外、知らなくていい情報しか流れてこない。でも、さっき手を差し伸べたときといいなんだか思った以上に容姿と性格にギャップ差がありすぎる奴だな。調子を崩されてしまう。不意に今までの緊張もあって思わず私の口から疲れた、という小言と共にため息が零れだしてしまう。

「それで私、今は~って、あ! 貴方やっぱりわかるでしょ? 日本語!」

 その声に反応して化け物は私に会話の余地を差し出してきてしまった。しまった。ていうか、今の、聞こえてたのか?やってしまった。だけど、今のところこいつは口数がとても多いだけで、無害だし、会話は通じそうだからそろそろ話し合ってもいいかなと思ってたころあい。どちらにせよこのままいれば私が口を割るまでこいつは永遠に話しかけてきそうだし。仕方ない、重い腰を上げよう。私は意を決して軽く息を吸い込み、んんっと咳払いする。その様子にいつの間にか一人で話すのを止めた姫山あずきは、じっと私を見つめる。まず、話し合う上で私には彼女?に確認しとかないといけないことがある。

「ごめんなさい。私、さっきからあなたの言っている言葉全部理解してた」

「え!全部理解してたの?うーん、なんとなくそんな気はしてたけど……まさか、本当にそうだとは……ってまぁまぁ、それは置いといて。とりあえず、貴方のお名前を、」

「その前に。一つだけ私の質問に答えて」

「何、何?いいよ。どんなものでもきなさいな」

 姫山あずきはまだ質問の内容も聞こえていないのにさも自身がありげに胸を何度かとんとんと腕で叩く。

「貴方、それは何?」

 放たれた言葉を聞くなり、途端に姫山あずきの顔面の文字が「疑問」という漢字に変わる。

「何って?」

「その顔のこと。段ボールみたいな。それを取って顔を見せない限り、私は貴方を信用できない」

 姫山あずきは段ボール?ああ、フーンそういうことかと意味深なことを言った後、顔の漢字をまた変えてうーんと首を傾げ、考え込む仕草をとる。

「これは偶然拾ったの。面白いでしょ」

 姫山あずきは顔は見えないがいひひ、とはにかんでいるようなしぐさを見せる。

「何か、見せられない理由でもあるの?」

 なんだかはぐらかされそうな気がしたので、今度は単刀直入に突っ込む。

「まあ、そんなとこ」

 何度か姫山あずきは頭を掻いた。

「なら、私も教えれない。宇宙人かもしれないから」

「貴方、私のこと宇宙人だと思ってるの?」

 ぷっと噴き出して姫山あずきは笑う。何?そんな奇妙な箱被ってたらそうかもしれないじゃない。私は思わず、姫山あずきを睨みつける。

「悪い? 疑い深いの、私」

「いいや、全然」

 姫山あずきはたはーっ宇宙人、ミステリアスガールか、となにやら訳の分からないことを呟いた。いつの間にか顔の漢字もそれに呼応して「喜」に変わっている。やっぱり彼女は感情に呼応して顔の文字が変わるのか。だとしたら、この娘はなんだかコロコロと表情を変える不思議な奴、ということになる。

「じゃあさ。交換条件といこうよ」

 一通り天を仰いで笑い終えた姫山あずきは、その顔を私へと向けた。

「私の知っているこの世界の情報を全て君に教えてあげよう。その代わり君は私に名前を教えてほしいな」

 本当に?なんでそんなに私の名前が重要なのだろう。また負けじと私は姫山あずきを睨む。けれど、なにはともあれ交換条件か。だったら、こちらも色々と欲しい条件を付けなければ。

「なら、私にも条件がある。まず、貴方の知ってることを先に教えて。それから私の名前を教えてあげる」

「いいでしょう」

 むふんっと姫山あずきは胸に手を当てる。なんだかやけに軽い返答だな。

「いいの?そんなに即答で。私が偽名を使う可能性だってあるのに?」

 一応よくわからないやつとはいえ助け舟を出してやるのが礼儀だろう。けれど、

「いいよ」

 そんな助け舟すらさっと跨いで躊躇いなく柔らかい声で姫山あずきは呟いた。

「本当に?」

 正気で言ってるの?

「うん」

「本当にいいのね?」

「うん、だって」

 姫山あずきは何か言葉を発しようとする。その光景に私は少しばかり心臓がドキっとしてしまう。

「だって、貴方は絶対にそんなことしない。私の直感がそう言ってる」

 直感?なんたってそんなことが言えるのだろうか。人は見かけによらず、というのに。でも、信じられて悪い気は、しない。

「そう。」

「うん!」

 コクリ、と姫山あずきは頷く。それなら、私も直感で答えるのが礼儀なのかもしれない。よし、そうしよう。少し咳払いして、私は自分の会話のリードを握る。

「さっきはごめんなさい。意地悪なことを聞いて。箱のことはもう触れないことにする。絶対に、約束する。だから、あなたをいい人と信じて私の名前から先に言うことにする」

「いいの?」

 パッとあずきの顔が見えないけど明るくなった、気がした。

「ええ。私、貴方が素直でいい人だって信じてる。これは、私の直感だけど。だから、先に言わせて。私の名前は新堂(しんどう)京(みやこ)っていうの」

 



 「さ、知ってることを教えて?」

 自宅のリビングにある食卓の椅子に腰かけ、私とあずきは今、向かい合って座っている。あれから話せば長くなるかもしれないし、外にいれば何が起こるかわからないからと私はあずきを家へと招待した。だが、そんなあずきは、現在うーん。と頭の漢字を「悩」にして、文字通り悩まし気に腕を組んでいる。

「実は、ですね」

 腕を組んでから少し時間が進み、急に改まった口調になってあずきは姿勢を正す。いつの間にか頭の漢字は「悩」から「緊張」に変わって、何かを告白しようとする彼女の緊張感がひしひしと伝わってくる。そんなあずきを眺めつつも、さっきから私の頭の中ではある憶測が飛び交い続けていた。その憶測とは、彼女は私と同じくらいのタイミングでこのよくわからない世界にきたのではないのだろうか?というものである。この誤魔化し気な態度と行き詰ってそうな口調からして多分、そうだろう。だから、このことが仮に事実とするなら、あずきの知っていることはそんなに多くはないはず。けれど、まったく情報がないよりかは圧倒的にマシだし、少しでもこの世界についての状況を知れるならありがたい。

私もあずきも悩まし気な状態のまままたもやしばらく沈黙が続いた後、ようやく覚悟を決めたのか堰を切らしたようにあずきは口を開けた。

「私がこっちに来たのは数日前で……」

 ほら、やっぱり。

「うん」

 一言一句逃さぬよう事あるごとに私は相槌を打つことにする。

「私が住んでたところはここよりちょっと離れた隣町で」

「うん」

「散策を始めたのも最近で」

「うん」

「ここについて知ってることは、まず私が歩いたこの近辺では乗り物とか人間を含めた動物を全く見かけなくて。植物とかはちょいちょい見かけるんだけど、もしかしたらいない植物とかもある、のかもしれなくて」

「うん」

 私は頷く。まだ、一歩も出歩いていないと言っても過言ではない私にとってそれは貴重な体験談だった。

「他には?」

 つい癖で私は前のめりになる。

「他?あー、えっとコンビニとかには行った?」

「まだ、行ってない」

 私は首を横に振る。なんせ、今来たばかりなのだから。そんな私の姿を見てか、こほん、と嬉しそうにあずきは咳払いをする。

「とりあえず、今はだけれどコンビニやスーパーに売ってあるご飯やスイーツ、飲み物とかは基本食べれるし、生活用品なんかも使うことができるんだよ」

 現に私はまだおなかを壊していません、えっへんとあずきはお腹に手を当てる。

「あと、まだ電気とかガスとかは使えるみたい」

「成程」

 私は今までで一番深く相槌を打つ。これもかなり重要なことだ。インフラがある程度整っているとなると最低限の生活はできる。あとはどうやって元の世界に帰れるか、か。改めて私はこの先のことについて、考える。とりあえず今はあずき以外にも協力者が必要。ということは探すしかない、か。

「他には?」

 でも、とりあえず今はあずきの持っている情報を全て整理してから考えることにしよう。私はまたあずきの声に聞き耳を立てることにする。

「他?他にはもう……ぐぬぬぬ。うーん。ほか。あーっと、その。ごめん!」

 パチンと音を立てて私の目の前であずきは両手の掌を重ね合わせる。

「私が知ってることはこれだけなんだ。ほとんど知ってることばかりだったよね。ごめん」

 重ね合わせた掌を申し訳なさそうにあずきはすり合わせる。なんとなく、もう他になさそうだと思っていた。でも、ポジティブに考えれば、多すぎても訳が分からなくなるだけだから、これだけあれば十分。丁度いい量と私は捉えることにする。

「そんなことないわ。私、実はここに自分がいるって気づいたのも今日で。外に出たのもさっきが初めてなの。だから、知らないことだらけで。十分な量だったわ。ありが、」

「そうなの!?」

 私が感謝の弁を述べる前に途端にあずきは立ち上がり、そうか、そうなのかぁとやけに嬉しそうに顔の文字を「嬉」にする。

「じゃあ、私の方が先輩ってことだよね???」

「先輩?同い年でしょ私たちぃ………あっ」

「ほんとに?!!!!」

 しまった。私は思わず口を押えてしまう。失言だった。だいぶ打ち解けたとはいえあずきはまだまだ謎だらけの人間。慎重に行かなければいけないのに。またもやそうか、そうか、とあずきは両腕を組んで感心する素振りを見せる。なんだかさっきまでと雰囲気が百八十度変わりそうだったので、んんっと大きく咳払いをして私は話題を逸らすことを計る。

「それで、姫山さんはこれからどうするの?」

「どうって?」

「これから先、何をするかってこと」

「これからか……」

「そう」

 私に協力してくれるんでしょ?というニュアンスで私はまずあずきに軽いジャブを打つ。

「そうだねぇ、これから、ね」

 今度はうーんと腕を組んであずきは悩み始める。

「一人でいるのも寂しいし、せっかく『みやちゃん』と会えたからなぁ」

「みやちゃん……???」

 ミヤ、チャン。みやちゃん。もしかして、私?自分だろうか?というジェスチャーを取るために私が自身を指さすとあずきはyesと言わんばかりに頷く。

「うん。みやこちゃん、だから親しみを込めてあだ名はみやちゃん。ダメ、かな?」

「いや、問題はないのだけれど」

 古びたロボットのように私はゆっくりと首を横に振る。呼び方は人それぞれだしなんて呼ばれてもかまわない。流石に誹謗中傷を連想させるような言葉はNGだけど。それよりも今は、本題に戻らなければ。また自然に私はあずきの会話のペースに呑まれてしまっている。

「それで、あずきちゃんはこれからどうするの?」

 協力関係を構築しなければいけないので、早速私はあずきに言われた通りに彼女の読んで欲しい呼び方で呼ぶことにする。

「おおぅ。早速呼んでくれた。ありがと。そうだねぇ、これからか。特にやれることもないし……逆に聞くけど、みやちゃんはどうするの?」

 キタ!と言わんばかりに私は椅子から立ち上がり、更に前のめりになる。

「私はこれから私たちと同じようにここで彷徨っている人たちを探そうと思ってるわ。そして、私達の協力者になってもらおうと考えてる。最終的にゆくゆくは、その人たちと一緒にここから脱出するためにね」

 だから協力して、と私は今度は強めのストレートな言葉ををあずきに放つ。

「なるほど。うーんどうしようかなぁ」

 再度腕を組み直して、あずきは椅子に沈み込む。

 幾分か経って、ヨシと何かを決めたようにあずきは立ち上がった。

「決めた。私、みやちゃんに協力するよ。だって、私もここから出たいもん! まだまだやりたいこと沢山あるし!」

 よしきた!上手く乗せれた!おもわずガッツポーズしてしまいそうになる手を私はなんとか抑える。いやしかし、やりたいことか。元の世界に戻ったときのことを私は思い浮かべる。あずきはやりたいことが沢山ありそうだ。その明るい性格だと友達もさぞかし多いことだろう。当の私と言えば、別に元に戻ってもやりたいことなんてないし、それだったら誰にも愚痴も何も言われないここで、密かにゆっくりと過ごすのも存外悪くないのかもしれない。でも、代わり映えのない日々というのは少し面白みがない気もするし……うぅん。と唸っているとその代わりと言ってはなんだけど、とあずきが何か言おうとしているのが耳に聞こえてくる。

「どうしたの?」

 私が顔を上げてあずきをみると顔に書かれている文字が「緊張」になっていた。今から、何か余計なことを言わなければいいのだが。

「いやぁ、せっかくだから観光しながら協力してくれる人を探したいなと思って」

 たははとあずきは笑った。流暢なことをしている暇はない。もしかするとタイムリミットもあるかもしれないし、一刻も早くここから脱出する算段をつけないといけないのに。尖った言葉が喉を掠める。でも、ありかもしれない。と思う自分もいた。だってせっかくのチャンス。観光地に行くなら何をせずともVIP待遇。何よりここで否定してしまえばせっかく協力してくれるあずきのモチベーションを下げてしまう要因になりかねない。これはあずきへの対価、付き合ってくれる報酬。私は臍を固める。

「かまわないわ。だってあずきちゃん手伝ってくれるんだもの。さっき教えてくれたこともそうだけど今の私はあずきちゃんに頼りっぱなしだし。それに、意外と私達以外のここに来てしまった人もそういったところに赴いてるかもしれないからね」

 自分に言い聞かせるように、なだめるようにして、私は言った。

「ほんと? ありがとう! やった!!!! じゃあまずは、いろいろと行く場所を決めないとね~」

 いやっほーいとあずきは立ち上がる。

「ええ」

 なんだか嫌な予感もするが、その時はその時だ。私はゆっくりと椅子に腰を下ろした。 

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