第20話

 このミョルモルという島は、太古の昔、嵐のただ中で息絶えた鯨が島に姿を変えたものだと言われている。幾重にも重なる岩盤の層が波濤はとうに洗われる様は、確かに、横腹を晒す鯨のようにも見える。

 かつてここには、信仰に篤い民が暮らしていた。最初に月神を崇め始めたのがどの種族だったのかは定かではない。歌や物語、言葉そのものに力が宿っていた遙か昔には、だれが最初ということも無いほど当たり前に、月は愛されていたに違いない。わけてもこの島にある神殿は、原初の、そして極めて熱心な信仰を偲ばせる巨大な遺跡だった。

 いつ建立こんりゅうされたものなのかはわからない。自然石を重ね、隙間に貝殻混じりの砂礫を詰めて固めた素朴な建物だが、ダイラに点在する砦と比較しても引けを取らないほど広大で、強固だった。かつてはここに大勢の神官が住み、月に祈りを捧げていたのだろう。残されたもののほとんどは盗まれ、あるいはただ朽ちて損なわれてしまっている。だが、神殿の中央──遺跡の中で最も広く荘厳な場所にある巨大な祭壇は、しっかりと当時の姿を留めていた。

 屋根の無い開けた空間に、大きな矩形くけいの水盤がある。周囲に立つ石柱には、月神の象徴である狼や牝馬、そして竜を象った彫刻が施されていた。彼らはみな、水盤の中央に鎮座する祭壇に視線を注いでいた。かつてこの場所で、月神への生贄がささげられた。祭壇上で首を落とされた家畜や人間の血が水盤に流れ、水鏡にうつった満月を赤く染めていたのだ。

 その祭壇にヴェルギルは座って、西の水平線に沈みゆく夕日を見つめていた。

 戴冠の儀に必要なものは、冠帯ミンドと、そして導者ユールによる預言だ。カルタナの万神宮はあれ以来、〈陽神〉デイナ以外の全ての神を長い時間を掛けて放逐したから、今の世に『導者』は存在しない。だが代わりに、マルヴィナはハミシュを見つけた。依り代の力を持つ彼は、おそらく今の地上でもっとも神に近い存在だ。彼はマルヴィナに幻惑の魔法をかけられ、神殿の内部に監禁されている。

 必要なものはすべてそろった。あとは、日が沈むのを待つだけだ。

 エダルトはこの島で長い時を過ごしたと言う。ヴェルギルと別れてからずっとここをねぐらにしていたのだから、その期間は五百年以上にも及ぶ。だが、そんな痕跡は何処にも無かった。ここには寝台も、書き物机も、本も無い。壁の落書きも、食事の跡も無い。ただ『場所』があるだけだ。それに、途方もなく大きな虚ろ。

 エダルトは、朽ちかけた石柱の先端にしゃがみ込んでいた。何をするでもなく、落ちくぼんだ目で虚空を見つめてじっとしている。

 エダルトが最初にこうなったのは、変異から二百年ほど経ったころだ。呼んでも答えず、何の反応も見せない。いったいなにをしているのかと尋ねると、彼は今までに命を奪った者たちが自分の中で会話をするのをただ聞いているのだと答えた。

「皆、好き勝手なことをのべつ幕なくしゃべり立てているのです」と彼は言った。「僕はめったに話さない。でも、聞いているだけでいいんだ」

 不快では無いのかと聞くと、彼は微笑んだ。

「何故? 賑やかで、とても楽しいです。僕は独りでは無いのだという気がする」

 お前は独りでは無いではないかと言うと、彼は気遣うような笑みを浮かべて、「ええ、そうですね」と答えるばかりだった。そしてまた、自分の中に籠もった。何を間違えてしまったのかもわからないままの父親を置き去りにして。

「エダルト」

 呼びかけると、彼は一度瞬きをして、目だけをヴェルギルに向けた。

「何です、父上?」

「お前は何故、王になることを承諾したのだ?」

 エダルトはゆっくりと目を閉じてから、両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと押さえつけた。それから手を放し、柱の上から降り立つと、水の上を歩いてヴェルギルの傍まできた。

「何故って、それが僕の役割でしょう」

「役割……どうしてそう思う」

 エダルトは純粋な困惑の表情を浮かべた。「僕はエイルの王子だから」

「ああ。だがお前が望まぬのなら、王になどならなくてもいいのだ」

 すると、彼は気分を害したように顔をしかめた。

「ああ。ほら、まただ」

 その声に鋭い叱責を聞いて、ヴェルギルはぎくりとした。

「なにが、『また』なのだ」

 エダルトはふっと顔を背けて呟いた。「別に、何でもありません」

「王になってなにがしたい? お前の望みは何だ」

 彼は少しの間考え込んだが、やがてひとりでにふふっと笑った。まるで、別の誰かが口にする冗談を耳にしたかのように。

「そうだね」彼は、この場にはいないだれかに向けて頷いた。「マルヴィナは、人間を相手に戦争をしたがってる。それなら、しばらく彼女の言いなりになってみるのも楽しいかと思っています」

「いたずらに戦争をしかけるのはよせ。王は自分の楽しみのために戦争をするのでは無い──民を守るために行うのだ」

 すると、彼の口から笑いが吹き出た。

「ごめんなさい。父上」口元を拭う。「なつかしいですね。千年前にも、そんなことを教わった気がします」

「ああ。たしかに教えた」ヴェルギルが言った。「わたしは可笑しいと思ったことはなかったが」

 エダルトはヴェルギルを見てため息をついた。

「父上は変わりましたね。とても変わった。昔のようになってしまった。あの人狼のせいですか?」彼は、不意に何かを思いついて表情を明るくした。「そうだ! あいつの血を吸い尽くせば、何が父上を退屈にしたのかわかるかも知れない」

 理性が押しとどめる前に、ヴェルギルは息子の腕を掴んでいた。

「やめろ」そして、自分のしたことに気づいて、手を放した。「その必要は無い」

「ふうん」エダルトは釈然としない様子で呟いた。それから、頭の中に住まう誰かの冗談にまた笑って、言った。「くくっ、そうだ。だって僕は王様になるんだ。もう〈災禍カル・ノグ〉なんかじゃない! 王様なんだ!」

 エダルトは満面の笑みを浮かべて走り出し、沈みゆく夕日に向かって叫んだ。

「誰の指図も受けない! 戦をして、大勢殺す! ご存知ですか父上? ひとり殺しただけではただの殺人者でも、戦では殺せば殺すほど英雄なんです!」

 彼は赤々と燃える落日がはなつ光の中でふり返った。

 その目はほとんど赤黒く光り、人間であった頃の面影を狂気で塗りつぶしていた。

「僕は王様になる。英雄になるんだ!」


            †


「ヴェルギルって言ったのかい、あんた!?」

 魔女は、目と口をかっと開いてクヴァルドに詰め寄った。黄色の目をして、豊かな白髪をうしろで引っ詰めた彼女はまるで、今まさに鼠を食おうとするフクロウのようだった。

 だが、そんなことを考えている場合ではない。ヴェルギルの名前で魔女の機嫌を損ねるとは思ってもみなかったが、よく考えれば、あの男は何百年も前から贅沢病の蚊のように血を吸って回っていたのだ。恨みを買っている可能性は限りなく高い。

「あ、ああ。そうだ」

 クヴァルドは、河口に集った仲間たちの視線が自分に注がれているのを痛いほど意識した。なんとかこの場を収めなくては、島に渡る手立てを失ってしまう。

「あなたの腹立ちは理解できる……と思う。だが、どうか手を貸して欲しい。全てのナドカの命運がかかっているのです」

 魔女はフン! と鼻を鳴らし、黒いローブの裾を払った。彼女が身に纏うローブにはひとつの皺、ひとつの埃さえ見当たらなかったのだが。

「腹立ちなんてもんじゃないよ、本当のところ」ブリジットという名の魔女は首を振った。「あれだけキツく言い渡しておいたのに、あたしの孫に手を出して、あの男──次に会ったら、いちもつを氷漬けにして、ひと思いにもいでやろうと思ってたのさ」

 それは、無理もない。クヴァルドは重々しく頷いた。

「我々を彼の元へ届けてくださったら、その機会もあるかも知れない」クヴァルドは言った。「新月が昇るまで、あと幾ばくもない。なんとしてでもハルヴァルズを──あの海賊たちを出し抜かなくては」

 老婆はクヴァルドの肩をぽんぽんと叩いた。

「キックリーの〈コヴン〉が私利私欲で約束を違えるなんて思って欲しくないよ。あたしだってね、昔は歴とした貴族だったんだ。没落寸前のゴドフリー家を、真っ当で正直な商売で立て直したのはこのあたしだよ」

 ゴドフリー? どこかで耳にしたことがある名前だ。

 瞬きを二つしたところで、クヴァルドは思い出した。

「もしや、ボルドニーのゴドフリー? 孫娘の名前はエリアナですか?」

 魔女の眼光が鋭くなった。「どうしてそれを?」

 ヴェルギルと最初に出会ったのが、彼とあなたの孫娘が逢い引きしている現場だったからだ──などと、言えるわけがない。

「う……紆余曲折あって」

 自分もすこしは嘘が上手くなったと思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。

「紆余曲折。そうかい」魔女は微塵も納得していないからねと言うように目を眇めた。「まあいいさ。あんたが生きて帰れば、聞き出す時間はたっぷりある」

 彼女はふり返り、若い魔女たちが集まっている海岸線に目をやった。「そろそろ、準備が出来そうだ」

 魔女たちは五日かけて、砂浜に大がかりな魔方陣を描いていた。島に到る海上にだけ、冬を呼び戻すための魔法だ。

 クヴァルドはホッとして息をついた。ようやく、島に渡ることが出来る。

「本当なら、新月が再び肥えるくらいの日数が必要なほど大層な準備を、たったの五日でやろうってんだからね、お若いの。重装の人狼じゃ、せいぜい二人渡らせるのが精一杯だ。わかるかい?」

 クヴァルドは頷いた。「ええ、それでも──」

 最後まで言い切る前に、遠吠えが聞こえた。

「フィラン!」

 ヒルダの鋭い声がする。彼女はいつでも戦える装備を身につけ、革袋に包んだエギルの首を背負っていた。クヴァルドもまた、いた長剣の重さを感じながらベルトを締め直し、彼女の元へと駆け寄った。

「今のはイェルムからのしらせだ」ナグリが言う。「やつら、こちらの動きに気づきましたな」

「手筈どおりだ。ナグリはここに残って、仲間たちを指揮せよ。魔女たちはわたしたちを送り届けた後、全ての魔法を奴らの海賊船に集中させる」

「御意に、ヒルダ様。みなの仇をとってご覧に入れます」ナグリは辞儀をして踵を返し、檄を飛ばしながら集まった仲間の元へ向かった。

「今こそ戦いの時だ! フィンガルの子らよ、奮い立て! 高みにおわす月神に、我らの最後の闘いをお目にかけろ!」

 ヒルダはクヴァルドの肩を掴んだ。「島に渡れば、援護は無い。わたしと、お前だけだ」

 クヴァルドは頷いた。「いつでも渡れます」

 ヒルダは硬い、だが力強い笑みを一瞬だけ浮かべて、砂浜へと突き進んだ。

「ブリジット殿、頼む!」

 魔女は頷き、それから海岸線に並んだ魔女たちに向かって声を張り上げた。「さあ、準備はいいねあんたたち! 海原に、さくの風を喚び戻せ!」


            †


 太陽がゆっくりと海に沈んでゆく。蒼い夜の帳が降り、そこに月の姿は無い。

 今夜は新月。この島に船で渡ることが出来る唯一の機会だ。

 だが、もはや〈クラン〉の到着を待っている余裕はないようだ。

「仕方が無い」ヴェルギルは独りごち、立ち上がった。「仕方が……無いな」

 エダルトが振り向いた。

「父上?」

 彼は、己の父親の表情を見て、なにをしようとしているのかを理解した。

「僕を、殺すのですか?」

 ああ、なんと哀しい父と子に成り果ててしまったのだろう。こんな局面で、言葉にしない想いが通じてしまうとは。

「お前を止める」ヴェルギルは言った。「エダルト、お前を王にすることはできない」

「何故です……?」

「お前の存在は……この世に争いを生む」

 エダルトは首を振った。「では、僕が死ねば争いは止みますか?」

「止まぬだろう」ヴェルギルは言った。「だが、お前が自分自身を変えられないというのなら、他に道は残されていないのだ」

 エダルトは立ちつくし、じっとヴェルギルをにらみつけた。

 彼について、マルヴィナが言った言葉をずっと考えていた。わたしには、親の気を引きたがっているだけの、哀れな子供に見えます、と。

 ひとつだけ彼女が間違えたことがある。それは、エダルトがもはや『子供』ではないということだ。

「もっとはやくに、こうするべきだった」

 ヴェルギルはエダルトに向かって距離を詰めた。一歩すすむごとに身体が重くなる。

「どうして? 僕が〈災禍の子〉だからですか?」

 〈災禍の子〉。〈災禍の子〉──あの予言に最も怯えていたのは、他ならぬこのわたしだったのかも知れない。彼自身に〈災禍の子〉だと思わせないために、いつも最後には彼を赦してきた。それは逃避だった。わたしの過ちだった。

「いいや、エダルト」ヴェルギルは言った。「お前が──我々が、道を違えたからだ。だから正す。なんとしてでも」

 白い霧がエダルトの周りにあふれ出し、渦を巻き始める。大きく見開かれた黒い目の中で赤い瞳が揺らいでいる。もはや人間の面影を失った顔貌。夥しい数の牙を剥きだして、彼は言った。

「僕を殺せば、父上も死ぬんですよ!」

 ヴェルギルは立ち止まった。身に纏った黒い霧の中から、漆黒の剣を抜き出す。

「それでも、お前を止めなければならない」

 すまない。息子よ。すまない。

 だがこうすることでしか、お前への想いを、もはや証明することが出来ない。

「王になりたいとを望むなら、わたしを殺して、この血を最後の一滴まで飲むがいい」

 エダルトの手を掴み、引き寄せる。そして長衣の襟を開き、喉元を露わにした。

「いやだ……!」

「わたしの血を飲め! そうすれば、お前が耳を傾ける声のひとつに、わたしもなることが出来る!」

 エダルトは手を振りほどくと、耳を塞ぎ、髪をかきむしり、引きちぎった。

「いやだ──!!」

 絶叫が、島に響く。

 そして、本当の〈災禍〉がついに目を覚ました。


            †


 波が水面に溶け、また新しい波が頭を持ち上げるまでのほんの一瞬の間に、足下に広がる薄氷を踏み抜いて前方へ跳ぶ。仲間の咆哮と魔女たちの叫喚きょうかんが遠ざかり、潮騒の向こうに消えてゆく。もう後戻りは出来ない。前へと進むしか無い。

 無我夢中で走るうちに、遠い島影がゆっくりと近づき、やがて視界を覆い尽くしてゆく。

「フィラン! あそこだ!」

 ヒルダが示したのは、夥しい数の石柱がひしめき合う岸壁だった。平たい多角形の石が、歪な階段のように島の縁を取り囲んでいる。あの場所に取り付くことが出来れば、島に上がれる。

 最後の数歩を跳躍で省いて岩に飛び移る。岸をふり返ってみたものの、遠すぎて何が起きているのかは見えなかった。

「先へ進むぞ」ヒルダがいい、エギルの首級が収まっている革袋を抱え直した。

 彼女は「きっと、皆は大丈夫だ」とは言わなかった。

 天然の石段をよじ登ると、そこは開けた岩盤の上だった。気が遠くなるほどの歳月を掛けて黒い岩石に刻まれた波文様が幾重にも重なっている。月の見えない今夜、潮だまりは漆黒の水を湛えて静かにさざめく。目指すべき神殿は、時を止めた波紋の向こうにそびえ立っていた。

 苔むした岩に蔦や木の根が絡みつき、いまにも自然の中に飲み込まれようとしている異様いようの神殿──この奥に、倒すべき最古のナドカがいる。

 かつては神殿の入り口を、月を模した巨大な円形の扉が飾っていたのだろう。いまその扉は失われ、内部に立ち入ろうとする者を遮るものは何も無い。

「フィラン、これを」

 ヒルダが胸元に手を差し込み、金色の鎖を取り出してクヴァルドに渡した。

「もう一度、これをお前に託す」

「これは……」

 〈デイナの蛇〉だった。

「なんとか持ち出すことが出来た。これがあれば、エダルトを〈月の力ヘクス〉から切り離せる」

 クヴァルドは頷き、金の鎖をしっかりと握ってから、革袋スポーランに入れた。

「あら、素敵なものを持ってるわねえ!」

 理性よりも先に本能が反応し、クヴァルドは低く唸りながら、瞬く間に半狼に姿を変えた。声の源を探ると、神殿の入り口にかかるアーチの上から小さな人影が姿を現した。

「でも、そんな怖ろしいものをここに持ち込んでいただきたくないわ」

「マルヴィナ……!」

 ヒルダは目を細めた。「あの女が、魔術師か」

 クヴァルドは頷いた。「幻術を使います」

はおさえておけ、フィラン。お前には理性を正しく使えるようにしておいて欲しい」

「しかし、人の姿のままでは幻に抗えません」

 すると、ヒルダは横顔で笑った。「幻には慣れている」

 魔術師はアーチの上からふわりと降り立った。

「お初にお目にかかります。〈クラン〉のヒルダ・フィンガルと──もしかして、が旦那様?」

 ヒルダは革袋を抱え直して頷いた。「そうだ。こちらに、エギル・トールグソンがおられる」

「わたしはマルヴィナ・ムーンヴェイル」マルヴィナは言い、優雅な辞儀をしてみせた。「長いこと魔術師をやっているけれど、生首に挨拶したのは初めて。人狼がこれほど悪趣味だったとは知らなかったわ」

 すぐ隣で、ヒルダの毛が逆立ったのをクヴァルドは感じた。

「人狼はこれと定めた伴侶を決して裏切らないとか。愛情深いって、とっても素敵なことね」マルヴィナの声にはねっとりとした侮辱が籠もっていた。「ハルヴァルズから、その首は『はい』と『いいえ』しか答えられないのだと聞いたけれど、本当なの? あなた方はどうやって愛を語らうのかしら。見てみたいわね」

「言わせておけば……!」

 低く唸って剣に手を掛けたクヴァルドを制して、ヒルダは言った。

「フィラン。いつでも駆け出せるように」

「しかし──」

 ヒルダは有無を言わせなかった。「わたしが隙を作る。その時は、振り向かず一気に走り抜けろ」

 彼女はマルヴィナとの距離を詰めてから、肩から提げた大きな革袋をおろし、地面に置いた。そして、腰に帯びた剣をすらりと抜き放った。

「マルヴィナ・ムーンヴェイル」ヒルダの声は、氷のように冷たく鋭い。「ナドカを扇動し、ダイラ王ハロルドに対する叛乱を企てたかどで、お前を裁く」

人間ウィアの王など、わたしの王ではないわ」

 マルヴィナは目をくっと歪ませた。彼女が両手を拡げると、掌の中から一匹の蝶が現れた。

「人狼が何匹たてつこうと、わたしには指一本触れられない!」

 クヴァルドの背筋に悪寒が走る。

「いけない! あの蝶は──!」

「もう手遅れよ、犬っころ!」

 慌てて目を閉じる前に、どこからともなく、何万匹もの蝶がけたたましく羽根を光らせながら湧き出した。

「ヒルダ様……!」

 目眩の気配が、頭の裏側から忍び寄る。蝶を直視するのは避けることが出来た。だが、ヒルダは間に合わなかった。氾濫する光に魅入られ、硬直している。たとえ運よく隙が生まれたとしても、ヒルダを置いてはいけない。

「ねえヒルダ、その生首に質問してみたことはないの? 『そんな惨めな生き様を晒して、死にたくならないのか』って」

「貴様!」

 クヴァルドは剣を抜き、声のする方に向かって突っ込んだ。大気を埋め尽くす蝶をかき分け、確かに彼女の姿を捕らえたと思ったのもつかの間、切っ先が触れた途端、彼女の姿はまたしても、何匹もの蝶となって空中に溶け出した。

「クソ……!」

 また、目眩に襲われる。頭の中が、千もの光で切り裂かれ、かき混ぜられているようだ。

 濡れた岩盤に、光の蝶が写り込む。四方八方から照らされて、小さな影が伸び縮みしながら踊り狂う。天地の感覚さえ失い欠けたその時、ヒルダに首根を掴まれて、引き寄せられた。

「フィラン」断固とした声。「わたしの目を見ろ」

 群れの首領に従う本能が混乱に勝り、クヴァルドは彼女の目を見た。

 そして、理解した。

「ヒルダ……様──」

 彼女は小さく頷いた。「十かぞえたら、走れ」

 彼女はクヴァルドの背中を思い切り押し出して、猛り狂った獣の咆哮を放った。

「〈協定〉の守護者たるこのわたしに、数々の無礼な物言い、赦さぬ!」

 蝶の群れの中から、マルヴィナのけたたましい笑い声が響いた。「おお、怖ろしい! ならばどうしようというの!」

 地面から紅の業火が吹き出し、蝶を飲み込む。マルヴィナは夜を焼き焦がすほどの炎を幕のように押しのけて、躍り出た。

「黴の生えた〈協定〉など、明日にでも過去に葬り去ってやるわ」

 四、五、六──。

 ヒルダは激しい唸り声を上げ、四方八方から次々と現れる影にがむしゃらに斬りかかる。だが、どれも幻影だった。切り払われるたび、幻は火の粉となって崩れ落ちてゆく。

「姿を見せろ、卑怯者!」

 その時、背後から振り下ろされた白刃が、ヒルダの腕を切り裂いた。

「ああ!」

「絶対に、邪魔などさせない」火影のいたずらか、それともそれこそが真の姿だったのか、マルヴィナの顔には歓喜と憤怒と狂気とが同じだけ宿っているように見えた。「エイルが開かれれば、皆が感謝するのはわたしよ! 貴女ではなく! 歌に名を刻まれるのはこのわたしなの!」

 七、八、九──。

 ヒルダは、岩盤の亀裂に剣を突き立て、くつくつと笑った。

 マルヴィナが浮かべる余裕の表情に、疑いのひびが入る。

「何が可笑しいの? とうとう正気を失ったのかしら」

 ヒルダはほつれ、乱れた髪をかきあげ、微笑を浮かべた。

「歌に名を刻みたい? いいだろう」

 そして、血を流す腕を押さえてしゃがみこみ、傍らに置いた革袋から、エギルの首級がおさまった魔道具を取り出した。

「ならばその願い、叶えてやる」

 ──十。

 駆けだしたクヴァルドの背後で、ヒルダが瓶の口をひねり……開けた。

 残って共に戦いたいという想いを振り切るために、クヴァルドはつよく地面を蹴った。


            †


 左腕の感覚を失い、今度は右目がうまく利かなくなってきた。それでも、剣を握ることは出来たし、左目で見ることも出来る。

 祭壇は、エダルトが生み出す白い霧に覆われていた。この霧の中にいると、どこからともなく声が聞こえてくる。呪詛と哀惜と、憎悪と憤怒が渾然一体となった、轟くような唸り。それは質量さえ持っているかのようで、耳から流れ込んでくる感情の重さに、ヴェルギルは何度も膝を突きそうになった。

「これが、お前を苛んでいるものか……」

 エダルトが、渦を巻く霧から姿を現す。鉤爪を振りかぶる動きに備えきれず、背中を深く切り裂かれる。

「ああっ!」

 膝から力が抜け、その場にくずおれそうになる。

「どうして諦めないのです!」エダルトは言い、再び霧に溶けた。「本気で、僕を殺すつもりなの!」

 ヴェルギルは答えず、脚に力を込めて身を起こした。剣を握りなおし、背筋を伸ばす。

「やっぱり、父上は僕を憎んでいたんだ」

『そうだ』

 エダルトの声に、何千ものざわめきが賛同した。低く地を這う囁きの塊が、水面をさざめかせる。

『お前はその異様さゆえに、生みの母を絶望させ、病みつかせ、ついには殺した』

『お前など産まれてこなければよかったのにと、何度も願っただろうさ』

「そうではない!」ヴェルギルは言った。「お前の中にある声では無く、わたしの本当の声を聞いてくれ!」

 霧の流れに生じた渦めがけて、剣を突き刺す。耳をつんざくような絶叫と共に、白霧は水滴となって降り注いだ。視界を遮るものがなくなったおかげで、ヴェルギルは息子の姿を見ることが出来た。

 切っ先は、エダルトの右肩をとらえていた。つるりと濡れた白い肌は、人間であったころの名残を捨て去ろうとしている。異様に大きな両手と鉤爪が、崩れかけた祭壇に深く食い込んでいた。

 〈呪い〉へ堕ちようとしている。わたしの息子が。

「痛い」彼は言った。

 遠巻きに取り囲む霧から、虫の羽音のように、批難と呪詛の言葉が沸き起こる。

『おお、痛い』

『なんて酷い、なんてむごい』

「お前を、傷つけたくはない」それでも、何千回でも繰り返す──そのうちのたった一回でも、彼に届くのなら。「『声』と決別し、殺戮をやめると誓ってくれ」

「『声』は真実を教えてくれる。僕の味方だ」

「わたしも、お前の味方だ!」ヴェルギルは言った。「お前を救いたい」

 その言葉に、エダルトの目が赤く光った。

「救いなど、欲しくない!!」

 足下から霧が吹き出し、視界を奪われる。

 しまったと思った時には、もう手遅れだった。異形と化した手に突き飛ばされ、水盤の水をはね散らしながら後ろざまに滑る。後頭部と切り裂かれた背中が柱にぶつかり、ヴェルギルはその場に頽れた。

『彼を黙らせろ』

『今すぐ、終わりにしろ』

 声が発せられる度に震える水面──それをかき分け、エダルトがこちらにやってくる。

「僕の邪魔をしないと言ってください」彼は半ば叫んでいた。「もう、充分でしょう!」

「充分ではない」ヴェルギルは柱にしがみつきながら立ち上がり、再び黒霧の中から剣をとりだした。そして、揺らぐ切っ先を息子に向けた。「お前が理解するまで、終わらぬ」

『黙らせろ!』と声が言う。『王はお前だ、エダルト。お前だ』

「違う!」ヴェルギルは声に向かって吼えた。「守るべき民を持たぬ王など、存在するに値しない!」

「うるさい!」

 エダルトの鉤爪が顔をとらえ、衝撃に世界が揺れた。首がちぎれたか、と朦朧としかけた頭で考える。

「あなたはしくじったんだ! 守るべき民など、もうどこにもいない!」

 大丈夫だ。まだ首は繋がっている。顔の右半分を引き裂かれただけだ。

 甲高い音がして、しっかりと握っていたはずの剣を取り落としたことに気づく。霧で出来た刃が、足下で溶けた。

 だめだ。まだ──。まだ消えないでくれ。

「エダルト」頬に開いた穴のせいで、うまく名前を呼べない。「ナドカこそ、お前が守るべき民だ」

 何度瞬きしても、目のかすみが消えない。息子よ、そこにいるのか?

「お前が、お前自身の血で増やした。わたしがお前の父であるように、お前もまた、皆の父なのだ」滲む視界に向かって手を伸ばす。「冠などかぶらずとも……お前はいつでも、王になることができた。彼らを顧みてさえいれば! お前自身が、それに気づいていなかっただけだ」

 返事は無かった。伸ばした手を、取る手も無い。

「エダルト……」

『説教は終わったか?』

 次の瞬間──


            †


 白い獣が、ヴェルギルの腹に鉤爪を突き刺した。

「そんな」

 霜が降りたような感覚を伴い、血の気が引く。

「そんな」

 霧の向こうで、いま膝を折って頽れたのは彼だと、わかった。傷だらけでも、血まみれでも、声が届かぬほど遠くても、彼だとわかった。

 心臓が裂けるほどの苦痛の中で、一瞬にして臓物が燃え上がり、炭になって朽ちる。頭のなかに『終わりだ』という声が響く。

『終わりだ』

 その声が聖堂の鐘のように重なり合い、容赦なく意識を塗りつぶそうとする。

 だがクヴァルドは、絶望に膝を屈してやれるほど弱くは無かった。

 目の前に、敵がいる。探し求めた敵が、そこにいるのだ。

 膝に力を込めて、懸命に走りながら、剣を抜き、構える。それは、エギルがクヴァルドに託した形見だった。

「ヴェルギル──!」

 彼の身体を貫く、白い腕に斬りかかる。すると、異形はすんでの所で身をかわした。

「お前は……!」

 そして、このときになってようやく、クヴァルドは〈災禍カル・ノグ〉の全貌を目の当たりにした。

 目は、人間のものではなかった。どす黒く充血した目と、ほとんど輪郭の無い赤い光彩。頬の上まで裂けた口にはびっしりと牙が並んでいる。濡れたような白い肌にうっすらと浮かび上がる鱗のような煌めきを見て、ヴェルギルが蛇と交わって竜を生んだという逸話を思い出した。

「フィ……ラン?」

 声が聞こえたとき、闘志が燃え尽きそうになるほど安堵した。鋭く息を吸い込んで気を持ち直し、ヴェルギルを背中にかばって敵に切っ先を向ける。

「年寄りは、そこで寝ていろ!」

 もはや精根尽きたのか、憎まれ口に笑う気力もないヴェルギルは、がっくりと項垂うなだれた。

「その剣」エダルトが、虚ろから響くような声で言った。「その匂い。お前、あのときの人狼か」

 クヴァルドは答えず、剣を構えた。

「〈協定ノード〉の守護者、〈クラン〉の名の下に、お前を誅する」

「貴様のようなものが、僕たちの間に立てると思っているのか!」

 エダルトが巨大な鉤爪を繰り出す。身をかわすのがあと一瞬遅れていたら、身体を二つに裂かれていただろう。クヴァルドは身を翻し、宙に伸びた腕を切りつけた。〈クラン〉にも二振りとない銀のつるぎが、強固な皮膚を切り裂き、焼き焦がす。

 鼓膜を破らんばかりの悲鳴と共に、あたりに立ちこめる白い霧が震えた。

 クヴァルドは距離を詰め、喚くエダルトに斬りかかった。

 ナドカがこの剣に触れれば、それだけで肉は焼かれ、激痛を覚える。エダルトは攻撃から身をかわしつつ後じさると、霧の中に溶けて消えた。

「クソ……!」

「無理だ! お前では僕に勝てないよ!」

 哄笑こうしょうとともに死角から飛び出してくる一撃が、背中を、肩を、脚を切り裂く。くさり帷子かたびら紙縒こよりで出来た玩具であるかのように、まるで役に立たない。

 肉が飛び散り、血が溢れる。星明かりさえ弱々しい闇の底にあっても、水盤の水が血の色に染まっているのが見えた。

 だが、クヴァルドは動じなかった。この戦い方を知っていたから。

 これが、仲間たちを──エギルを殺した、奴のやり方だ。霧の中で嗤いながら、じわじわとなぶり殺しにする。次にまみえたときに餌食にならないために、血の滲むような研鑽を重ねてきた。

 自分を取り巻く霧が揺らめき、空気が動く。

 水面に、微かな波紋が生まれる。

 そして、殺意の匂いが鼻を突く。

「そこだ!」

 霧の中から繰り出された鉤爪の一撃をくるりとかわし、振り返りざま、剣を脚にたたき込む。

 叫喚に呼応して霧が震え、氷の塊となって水盤に落ちた。

 肉の焦げる匂いを立ち上らせ、エダルトがついに膝を屈する。クヴァルドはすかさず首筋に剣を突きつけた。

「動くな!」血でぬめる柄を、しっかりと握り直す。「少しでも動けば、お前の首を落とす」

けだもの風情ふぜいが!」喘鳴ぜんめい混じりに、エダルトが叫ぶ。「僕を殺せば、父上も死ぬぞ!」

 意外にも、心は凪いでいた。

 今こそ、この者の手にかかった者たちの無念を晴らすべき時──待ちに待った復讐の時だった。

 だが、クヴァルドは言った。

「お前を殺す必要は無い」

 金の鎖を取り出すと、エダルトは目を丸くした。

「それは……!」

「〈デイナの蛇〉で、お前を人間に戻す」クヴァルドは言った。「〈クラン〉がお前を裁くまでの間、お前は〈月の力〉をなくすことになる」

「いやだ、やめろ」エダルトの懇願は、まるで子供の声のようだった。「そんなものを使うくらいなら、殺せ」

「断る」

 こうしなければ、ヴェルギルを失ってしまう。

 たとえ正式な裁きが下されるまでの、ほんのわずかの時間であっても構わなかった。もう少しでいい。もう少しだけ、時間が欲しい。

 怯えた目でこちらを見上げるエダルトの首に、〈デイナの蛇〉を投げつける。意志を持つかのような〈蛇〉がエダルトの首に巻き付き、今まさにおとがいを閉じようとしたその時──。

「こんなもの!!」

 エダルトが両手をかけて、それを引きちぎった。

 目を疑う余裕は無かった。太陽神デイナの力が宿った首輪からあふれ出した光と衝撃が、水盤の水もろともクヴァルドを吹き飛ばしたからだ。

 水際で踏みとどまることができたものの、激しい光に焼かれた目はしばらく使い物になりそうもない。

「くそ……!」

 神経を研ぎ澄ませて剣を構えるが、ぼんやりした影以外には何も見えない。

 耳をそばだてて足音を探るクヴァルドの耳を、祈祷歌のような音が埋め尽くす。否。それは祈祷などではなかった。音の中から意味を取り出すことも出来ぬほど、幾重にも折り重なった呪詛の言葉だ。

「ヴェルギル──」

 ふり返っても、姿は見えない。

「クソっ!」

 瞬間、殺意の塊がこちらに向かってきた。慌てて剣を構えるが、巨大な鎚のような力にぶつかられて取り落としてしまう。仰向けに倒れて、瞬時に体勢を立て直そうとするが、脚に力が入らない。這いつくばる自分を取り囲む霧。それが徐々に濃くなり、まとわりつく。

「出来損ないの、犬が!」千の舌で同時に語られたような声が言った。「エギル・トールグソンの血から感じたぞ、貴様への哀れみを! 所詮よそ者のお前は、のけ者にされて死んでゆくさだめだ!」

「黙れ……!」

 瞬きをして、焼け焦げた目から溢れる涙を追い払う。這いつくばって、吹き飛ばされた剣を必死に手探りした。一条の光でもいいから取り戻したい。あと一撃。あとひと突きを繰り出すために。

「父上に抱かれて舞い上がったあげく、こんな所までお出ましとは、ご苦労なことだ!」嘲笑が、頭の最奥にねじ込まれる。「お前は何者でも無い! 僕にたてつくことが出来るなどと思うな!!」

 手が、固い何かに触れた。剣の柄だ! 掴んで引き寄せ、持ち上げて構える。

 その時、霧が晴れた。

 霞む視界に、白くそびえ立つものが見える。

 それが大きくあぎとを開いたのが見えた。そして、鋭い牙と、赤い舌も。

 手の中の剣を見下ろす。根本から折れている。

 ふと、可笑しなことを思い出す。

 最期は犬死にだろうと笑うヴェルギルに、俺の命をどうやって使おうと俺の勝手だと言った時のことを。

 守りきりたかったが、できなかった。それでも、後悔は無かった。

 頬に風があたる。痛みを感じるまでの一瞬の間に、彼の声を思い出すことが出来てよかったと、クヴァルドは思った。

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