第19話
狼の姿のまま、八日八晩走り続けてヨトゥンヘルムに還った。
長いあいだ獣の姿で過ごせば、人の姿に戻れなくなる危険もある。だが、人の思考力を取り戻してあれこれと思い煩うくらいなら、本能に身を任せて進み続ける方がずっとよかった。
ちぎれそうになる脚を動かしたのは、怒り。それが薄れないように、クヴァルドは何度も、ヴェルギルの血の味を脳裏によみがえらせた。
ボロボロの身体を引きずってようやく帰還したヨトゥンヘルムでクヴァルドを待ち受けていたのは、また別の血の匂いだった。それも、夥しい数の。雪に足を取られながら、這いずるように山道を登る。そしてクヴァルドは、ただ一つ残された拠り所の崩壊を目の当たりにしたのだった。
「これは……!?」
ヨトゥンヘルムの門をくぐった先の中庭に、仲間の亡骸がいくつも横たわっていた。冬以外の季節が訪れない北方山脈の頂で、死んだ身体が腐ることは無い。見知ったいくつもの顔が、苦しみや痛み、そして怒りの表情を湛えて凍り付いていた。中には剣を握ったままのものや、狼に変化する途中のものもいる。
それは、すでに引き裂かれた心を粉々に砕く光景だった。
「そんな──」
これ以上、立っているのは無理だった。膝が、とうとう絶望に屈して、クヴァルドは雪に覆われた中庭にへたり込んだ。
その様子を認めて、ひとりの男がこちらに駆け寄ってくる。
「フィラン!」
それがハルヴァルズだと気づくのに、瞬きが三回必要だった。それほど狼狽していた。
「ハルヴァルズ……」自分でもゾッとするほど虚ろな声だ。「これは、一体──?」
「エダルトのしわざだ。昨日の夜明けに、襲撃を受けた」ハルヴァルズは言った。「砦のほとんどがやられた」
怒りが沸き起こり、萎えていたはずの膝が力を取り戻した。仲間が肩にかけてくれたローブを纏うと、クヴァルドは呻きながら立ち上がり、改めて辺りを見回した。
「ヒルダは? それに、エギル──頭領は……」
ハルヴァルズは力なく首を振った。
制御できない憤怒が血を沸き立たせ、獣の毛皮が現れる。だが、今は怒りに身を任せていいときでは無い。奥歯を噛みしめ、爪を掌に食い込ませて、人の姿を取り戻す。
何のためにここまで走ってきたのか、思い出せ。
「復讐を」クヴァルドは言った。「あの黒き血を、今度こそ滅ぼしましょう」
これを告げれば、もう後戻りはできない。
奴を滅ぼせば、ヴェルギルは──。
クヴァルドは唇を噛んで、そこに残っていた口づけの余韻を消し去った。
「エダルトの隠れ家を知っています」
仲間を荼毘に付した次の日の夜明けに、〈クラン〉はヨトゥンヘルムを発った。後には何の勢力をも残さなかった。雪山を下る人狼たちは、口々に遠吠えをした。クヴァルドもまた、月まで届けと高らかに響かせた。
†
これはあなたが招いたことです、とマルヴィナは言った。
ヴェルギルには、もはやどうでもよかった。北向きの塔の最上階に監禁された我が身を、まるで生き餌のようだと思うと笑みさえこぼれそうになる。さしたる抵抗もせず、この部屋に身を置いて十日。粗末な寝台に寝そべるほかに、することも無い。窓は開け放たれていたものの、強力な封印が施されているせいで逃れることは出来ない。ただ月だけが見えていた。月と、荒野と、数えきれぬほどの星たちが。
その窓から吹き込む北風の中に、ヴェルギルは確かな気配を感じた。
月を見上げて、語りかける。
「あなたの子がやってきますよ」ため息をつく。「あなたに奪われ……ついに取り返すことは出来なかった」
一匹の白い蝙蝠が、窓辺にとまる。それは恐る恐る侵入を試みたが、障壁に弾かれて階下へと墜落していった。やがて二匹目の蝙蝠が現れ、三匹、七匹と、徐々に数を増やす。キイキイという鳴き声が窓を埋め尽くしても意に介さず寝そべったまま待っていると、不意に暴風が吹き荒れ、結界が破れたのだとわかった。
「父上!」
散り散りになった白い蝙蝠をかき分けて、エダルトが姿を現した。多くの血を吸って成長した彼は、傍目に見れば二十歳に満たない青年に見える。だが、その長い白髪や、同じくらい白く透き通った肌、炯々と輝く菫色の瞳は、まさしく最古の吸血鬼として伝説に描かれる姿、そのものだ。
「こんなところで何をしているのです?」
ヴェルギルは寝台の上でゆっくりと身を起こし、陰鬱な声で言った。
「お前が、まだ人の姿を保っていることに安堵している」
エダルトは、怪訝そうにヴェルギルを見下ろした。
「ここから出たいですか? それとも、出て行く前に思い知らせてやりましょうか?」
ヴェルギルは答えなかった。
次の瞬間、窓は茨のようにうねる鉄格子に覆われた。封印が復活したのだ。
「へえ!」
エダルトが感心した声を上げると、部屋の戸が開き、マルヴィナが現れた。
彼は値踏みするように魔術師を眺め、彼女が見かけほどか弱くないことを見抜いたようだった。
「僕を呼び出したのは、お前か」
「左様です、殿下」
マルヴィナは、ヴェルギルにしたのと同じ、最も深い敬礼を行った。そんな風に辞儀をされるのは何百年ぶりだったのか、エダルトは面白そうに眺めていた。
「父上を餌にするなんて、命知らずだ」
一つ瞬きをすると、異様なほど大きな瞳が現れた。
「この女の血を全部飲んだら、どんな
マルヴィナは動じなかった。
「
彼女は動じないどころか、一瞬の隙にヴェルギルを横目で見た。もう一度、これはあなたが招いたことですと言うように。そして顔を伏せ、熱のこもった声で告げた。
「是非わたくしに、あなたがエイルの王座につくためのお手伝いをさせてくださいませ」
†
「くそっ!」
ヨトゥンヘルムを出立して、七日になる。〈クラン〉の残存勢力が野営しているコンベトンの荒野は、ミョルモル島まであとほんの一日でたどり着けるところにある。ハルヴァルズはここで兵を止め、そのまま、もう三日も足踏みしていた。新月の夜まで待つのだとハルヴァルズは言い、沿岸に巣くう海賊たちに大金を渡して船を出す手はずを進めていた。
「よりによって、〈ビョルンの息子〉どもと手を組むのですか!」
それは、緑海で最も忌み嫌われた
「金で操れる輩は、単純だ」ハルヴァルズは言った。「お前に心配して貰うまでもない。フィラン。そもそも、新月の夜に海路が開けると言ったのはお前だろう」
「しかし……!」
「話は終わりだ。これ以上耳元で吠え立てるな!」
魔女に協力を頼んで海を凍らせれば船など必要ないと、何度申し入れても無駄だった。ちょうどここから一日の距離のキックリーという村に、魔女の〈
「一体どうすれば、魔女よりも海賊の方が信用できるなどと考えられる?」
五度目の進言を退けられ、クヴァルドは苛立ちを抱えたまま自分の野営地に戻った。仲間が囲む焚き火の傍に腰を下ろすと、彼らは口実を口にする手間も省いて、その場を立ち去った。風に乗って『吸血鬼』という単語が聞こえた。俺の身体にはまだ、奴の匂いが染みついているらしい。
「あまり気にするな」
ナグリが言い、クヴァルドの隣に座った。
「気になど、していない」クヴァルドは唸ったが、自分の声にろくな説得力が無いことを認めないわけにはいかなかった。
「皆、苛立っているのだ」ナグリがため息をついた。
「気持ちはわかる」クヴァルドは言った。「悠長に新月まで待機している場合だと思うか?」
「おちつけ、
クヴァルドは眉根を寄せた。「どうしてそんなに警戒する?」
「ハルヴァルズは、群れの仲間にも厳しい目を向けておる。誰かが奴を手引きしたんじゃ無いかと疑っているのだ」
「疑う? 俺たちをか」クヴァルドは唸った。
「
「俺はどうなったっていい」クヴァルドは低い声で言った。「ただ、エダルトの息の根を止めたい。それだけだ」
ナグリは理解を示すように微笑んでから、クヴァルドの肩を叩いて自分のねぐらに戻っていった。
馬鹿馬鹿しい。
なぜ、誅するべきものを誅し、倒すべき敵を倒すことに集中できない? そうやって余計なことに気をとられているから、ナドカはいつまで経っても有象無象の勢力に過ぎないのだ。
──手厳しいな、クロン。そういう君とて、傷心に引きずられて我を失い、わたしを殺しかけたではないか?
聞こえるはずの無い声を聞いて、思わず顔を上げて辺りを見回す。当然ながら、そこに彼はいなかった。もはや百に満たない仲間たちと彼らの天幕が、黄昏の荒野に散らばるばかりだった。
風が吹き抜け、髪を乱す。焚き火は燃え尽きようとしていた。
「馬鹿馬鹿しい。どいつもこいつも」声に出して言い、立ち上がる。
そして残り火に土をかけ、クヴァルドは自分の天幕へと戻ることにした。
クヴァルドの天幕は、仲間たちが集まっている場所から少し離れたところにあった。というより、クヴァルドの周りに天幕を立てる仲間がいなかったのだ。吸血鬼と半年ものあいだ行動を共にしていた人狼の噂は野火のように群れの中に広がった。だが、かえって好都合だとクヴァルドは考えた。今はとにかく、ひとりの時間が欲しい。
だから、野営地のはずれにぽつんと立つ天幕の入り口に手を掛けたとき、中に忍び込んだ何者かの気配を察知するのは簡単だった。
誰かがいる。
しかし、入り口の前で立ちすくんでいては格好の的になる。クヴァルドは迷わず剣を抜き、勢いよく中に飛び込んだ。
「誰だ!」
そして、テントの中に鎮座するエギルの首級を目の前にして、心臓が止まりそうになった。
「な……!?」
「フィラン、おちつけ」
暗がりの中、聞こえた声……この匂いは……。
「ヒルダ様?」
何度も瞬きをして、闇に目を慣れさせる。そこにいたのはヒルダだけでは無かった。もちろん、エギルもいたが──もう一人、ここで会うことになるとは思ってもみなかった人物がいた。 ついひと月前に見たばかりのその顔や匂いを、鮮明に覚えている。
少年はニヤニヤと笑みを浮かべ、こちらに手まで振った。
「おまえ……あの魔術師の養い子じゃないか? ここで何をしている?」
どういうことだ? 以前見たときとは、まるきり雰囲気が違う。
「フィラン。全てを話すから、どうか冷静に話を聞いて欲しい」
ヒルダに声を掛けられ、逸っていた血がおさまってゆく。
「あなたがたは……死んだと聞いていました」剣を鞘に収める。「エダルトに襲われて」
ヒルダは頷いた。
「逆だ。ハルヴァルズが〈クラン〉を裏切った。あの襲撃とエダルトには何の関係も無い」
途端に、背中の毛が逆立つ。「なんですって……!」
「落ち着けって何度言わせりゃわかるんだ、ワン公?」訳知り顔で、少年が言った。「それとも、『クロン』と呼んだ方が物わかりがよくなるのかな?」
開いた口が塞がらない。
クヴァルドは、少年とヒルダの顔を順繰りに見た。
「しばらく前──お前がヴェルギルと砦を発った頃から、この方がわたしに手を貸してくれていた」
この方だと?
「あとで正体を明かしてやるよ。でも、手短にな」少年は言った。「マルヴィナが近くに来ている。俺はちょっとの間抜け出してここに顔を出してるだけなんだ」
「フィラン。お前はマルヴィナ・ムーンヴェイルの元から逃げてきたのだな。ハルヴァルズはずっと、彼女と通じていたのだ」
クヴァルドはハッとした。「つまり、彼も……」
秘密を保持する魔法のせいで、続く言葉が喉から出ない。だがヒルダはすでに知っていた。
「そうだ。あの男も〈アラニ〉の一員だ」
唸り声が、勝手に喉の奥から漏れる。
「エダルトの居場所を知りたがっていたのは、奴も同じだ。だから、しばらくは我々の動向を静観していた。しかし、お前が〈アラニ〉の暗躍を嗅ぎ当てて状況が変わった。それに、あの魔術師がエイルの
ヨトゥンヘルムの地下牢には、捕らえた吸血鬼や手の着けられない魔獣が山ほど収監されていた。砦の中庭に並べられていた仲間たちの表情を思い出し、またしても怒りがこみ上げる。
「卑劣な真似を……!」
「わたしたちの他にも、アーネルとイェルム、レンダールの群れが生き延びた。この方が前もって鷹を送り、忠告してくださっていたおかげだ」
クヴァルドが『この方』を見ると、彼は得意げに笑った。
「マルヴィナは、エイルを開くためにシルリクを使うのを諦めたらしい」彼は言った。「エダルトはその気だぜ。王になって、戦争という名の下にダイラ中の人間を殺しまくる気でいる」
「そんなことはさせられない」ヒルダはきっぱりと言った。「なんとしてでも止めなければ」
「しかし、どうやって──?」不可能の壁が四隅から迫っているかのような感覚に襲われながら、クヴァルドは言った。「いまの話が本当なら、ハルヴァルズにエダルトを攻撃する気なんかない。奴がここにいるのはエダルトを守るためです。ここには九十人近くいる。皆、奴に従うでしょう」
「三つの群れがわたしについている。ナグリにも、何も知らない振りをしてハルヴァルズにつかせ、わたしは死んだと報告させた。全部で三十人程度の戦力だ。ハルヴァルズの軍勢には及ばないが、足止めとしては十分だ」
「あとは、出し抜くしかない」少年が言った。
「我々で、エダルトを滅ぼす」ヒルダは、硬く強張った声で言った。「たとえエイルへの道を永遠に閉ざすことになってもだ」
少年が付け加える。「そして、シルリクも死ぬ」
「お前には申し訳ないと思っている、フィラン。だが、必要な犠牲だ」
「お気遣いいただく必要などありません」クヴァルドは言った。「あんな奴、勝手にくたばればいい!」
少年は頷いた。「このまま行けば、間違いなくそうなるだろうさ。シルリクじゃエダルトに勝てない。なにせ飲んでる血の量が違う」
クヴァルドは唇を噛んだ。
それに……。それに、彼はエダルトを愛している。
ふと、彼に息子を殺させたくはないと、つよく思った。どのみちヴェルギルの命を奪う結果になるのだとしても、エダルトを殺すのは父親以外の剣であるべきだ。
畜生。この期に及んで、あの男を憎み切れずにいるなんて気づきたくなかった。
「なるべく早くここを抜け出して、わたしの野営地に加わってくれ。明日には島に渡れるよう、キックリーの魔女たちに話をつけてある」ヒルダは、エギルの首級を革袋に包み直して、そっと抱え上げた。「ウィトル川の河口で会おう」
ヒルダが天幕を出た後、少年だけが残った。
彼は、相変わらずにやけた顔でクヴァルドを見ていた。マルヴィナは、この少年には神が降りると言っていた。ならば、ここにいるのは神なのか?
「お前──あなたは、いったいどちらの味方なんだ……?」
少年が笑みを拡げると、口角が頬を割るほど高くあがった。人間離れした表情に、背筋が凍る。
「味方なんて視野の狭い言い方はよしてくれ」少年は言った。「世界は均衡を求める、ということだよ、仔犬。この世界はずいぶん長いこと歪んだままだ。だが、太陽がそうするのとおなじだけ、月も地上を照らさなきゃならん。おれはその手助けのために〈間に立つ〉ってわけだ。わかるか?」
間に立つもの──。その言葉にピンときた。間に立つ神といえば……。
「うん?」促すように、少年が眉をひょいとあげた。
そうだ。絶対に君から逃げないと、ヴェルギルが誓っていた。〈
「あなたは……リコヴ?」
神はくっくと笑った。「おめでとう。お前はシルリクよりも頭の回転が速いぞ」
クヴァルドはぽかんと口を開けて、少年を見つめた。その表情を見て、リコヴは「そうでもないか」と訂正した。
「あとすこしで
彼はおどけた顔をして、不可思議な色をした両の目を互い違いにぐるぐると回してみせた。
「さて、いいことを教えてやろう。フィラン」
クヴァルドは用心深く、続く言葉を待った。
「エダルトを殺せば、シルリクは死ぬ。でも、月の祝福を断ちさえすれば、あるいは、道連れにならずに済むかもな」
それを聞いて、何故だろう──目の前がぱっと明るくなったような気がした。何のことかはわからないが、方法はあるということなのか。
「月の祝福を断つ?」
「お前の中には、紛れもなく『運命』が流れてるってわけだ。いやまったく」リコヴは立ち上がり、膝についた土を払う振りをした。「お前がこの世に現れるのを待っている間に、何度投げ出そうと思ったか」
「運命……」
呆然と呟くクヴァルドを見て、神は満足げに微笑んだ。
「うまくやれよ」と言い置いて、彼も天幕を抜け出し──後に残ったのはクヴァルドひとりとなった。
そして、クヴァルドは持てるだけの荷物をかき集め始め、ナグリを呼びに走り出た。
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