第16話

「シルリク?」

 そう呟くクヴァルドの顔を、ヴェルギルは見ることが出来なかった。危険なほど早まっている彼の鼓動を頭から閉め出して、自分に与えられた役割に集中しなければならないと己に言い聞かせる。

「貴方も跪くべきなのですよ」と、マルヴィナがクヴァルドに言った。「それとも、まだイムラヴの習慣が抜けないのかしら」

「シルリクだと?」クヴァルドはマルヴィナの言葉を無視した。「つまり、お前はエイルの王で……エダルトの──父親?」

「不敬ですよ、人狼!」彼女の苛烈な眼差しに赤光が踊る。「この方はあなたの王でもある!」

 クヴァルドも牙を剥き、喉の奥で唸った。「馬鹿な! この道楽者が王なんかであるはずがない!」

 マルヴィナがさっと立ち上がった。「それ以上愚弄するつもりなら──」

「マルヴィナ」ヴェルギルは言った。「わたしは王ではない。今となってはな」

「陛下! そのようなことを仰いますな……!」

 ありのままの事実を告げる度、彼女は頬を張られたような表情を浮かべる。それほどまでに慕われることに、慰めを見出した時代もあった。

 マルヴィナと最初に出会ったのは、二百年ほど前だった。ナドカ狩りが盛んに行われていた当時、〈アラニ〉はまだ、ひとりの老魔法使いが率いる漂泊民の一団に過ぎなかった。老人が世話していた孤児たちの一人、十代の娘だったマルヴィナは、すでに優れた魔術師としての頭角を現し始めていた。そして、そのころから人一倍貪欲な娘だった。彼女は老魔法使いが語って聞かせる夢物語──いつかはナドカたちがエイルという楽園を手に入れるという物語を盲信していた。それは彼女が高等魔術のいただきに到った後にも揺らがなかった。

 老いということわりに打ち克った彼女は、最初の出会いから百年ほど経っても美しさを留めたまま生き続け、〈学会サークル〉の賢者アークメイジにまで上り詰めた。

 その頃のヴェルギルにとって、エイルにまつわるすべてのものは、出来るなら忘れ去りたい忌まわしい過去でしかなかった。一方、飽くことなくエイルへの帰還を夢見るマルヴィナの熱意は眩しく、そして新鮮だった。何度か夜を共にするうちに、ヴェルギルは彼女との間に一つの秘密を共有した。自分こそが、エイルを滅ぼした王なのだと。

 なぜ打ち明けたのか、今となってははっきりと思い出せない。あまりにも輝かしい彼女の空想に、黒い染みをつけたいというほの暗い欲望でも芽生えたのだろう。だが、その事実は彼女を一層奮い立たせただけだった。いまや、エイルについて研究する魔術師で、マルヴィナ・ムーンヴェイルの右に出る者はいない。

「祖国へ帰還するすべを見つけたと?」

「はい」マルヴィナの顔が喜びに輝いた。「いま、お目に掛けます」

 彼女は立ち上がると、暖炉の上のタペストリーを巻き上げた。漆喰の壁には貝をかたどった繰形彫刻モールディングが施されていた。そのうちの一つに彼女が手をかざすと、貝が口を開け、小さな空洞が姿を現した。マルヴィナは中から取り出した細長い革の包みを、厳かな面持ちでヴェルギルに手渡した。

「ご覧ください」

 包みを開くと、記憶に殴られたような感覚に陥った。

「これは……」

 見慣れた青い宝石はエイルのかなめいし。金の糸で織られた帯……間違いない。

「エイルの冠帯ミンド。あなたのものです」

 二度と、再び目にはすまいと思っていた。

 呆然と見つめていると、石が手の中で微かに光を放ったような気がして、慌てて包み直した。

「緑海に沈んでいた船から取り戻しました。奸賊かんぞくに奪われてからおよそ千年もの間、海の底でこのときを待っていたのです。海域を特定するのに五十年。探すのにもう五十年かかってしまいました。ようやく、貴方の手にお返しできる」

 クヴァルドは鼻を鳴らした。「まがい物だろう。あの海には近づけないはずだ」

「海の上では、その通りよ。しかし海中なら、辛うじて長らえることは出来ます。北方の海岸に住まう人魚セイレーンたちに探させました」

 妖精シーの一族である人魚が他のナドカの命令に従う? 妖精に命令を聞かせるのは不可能では無い。だが、決して多くない選択肢はいずれも忌むべきものだった。

「幻惑したのか」クヴァルドが、また低く唸った。

 マルヴィナは微笑んだ。「と言っていただきたいわ」

 魔法の力で他者の意思をねじ曲げることを説得とは呼ばない。だが、マルヴィナにはこういうところがあった。情熱というコインの裏側、目的のためには手段を選ばない強硬さが。

「その冠帯ミンドで、再び正当な王にお戻りください」

「それが、エイルへの帰還とどう関係する?」クヴァルドが言った。

 マルヴィナは、クヴァルドの質問にムッとした表情を浮かべた。

「ナドカの起源を語った伝説は、知っているでしょうね?」

「無論」クヴァルドが頷いた。

 昔々、神々の世界を追放されたヘカという月の神がいた。人間に身をやつしたヘカは、まずイムラヴの王に宿を求めたが、王はそれを拒んだ。次にエイルに赴くと、シルリク王は快く彼女を迎え入れた。月神ヘカは己の正体を明かし、シルリクに望みを叶えると申し出た。シルリクは、我が子を決して死なぬ身にし、何人なんぴとも彼の王国を侵略出来ぬようにして欲しいと願った。その結果、吸血鬼が誕生し、緑海を瘴気が取り巻いた。

「あなたは『エイルの王として、この城で月神の子らの面倒を見ましょう』と仰った」マルヴィナは言った。「神との契約で言葉をたがえることは許されません。いま、エイルには王がいない。月神はずっと、あなたが誓いを果たすのを待っているのです」

「つまり、彼が冠をかぶれば瘴気も晴れると?」クヴァルドが言った。「もっともらしい推論だが──」

「瘴気がエイルを侵略から守っているのです。瘴気が晴れるのでは無く、ナドカだけがその中でも生きられるようになるということよ」マルヴィナはクヴァルドを睨んだ。「これは推論ではありません」

「マルヴィナ」ヴェルギルが声を上げた。「君の尽力には頭が下がる。だが、わたしは王になるつもりはない。もしそれが真実だったとしてもだ」

 魔術師は言いつのった。「真実です! わたしは神の声を聞いたのですから!」

「導者でもない君が?」

 マルヴィナは傲然と立ち上がった。「ハミシュ! ここへおいで」

 少年は、今の今まで壁際でぼんやりと控えていたが、呼ばれると従順にマルヴィナの隣に立った。

「わたしが見出した子です。この子の身体には神が降りる。依代の血は、絶えてはいなかった!」マルヴィナは少年の両肩をきつく掴んだ。「彼の口から、『ヘカが王の戴冠を望んでいる』と聞いたのです」

 クヴァルドは冷笑を浮かべた。「妖精シーに揶揄われたのだろう」

「その冠帯ミンドのありかをわたしに教えたのもこの子だと言えば信じていただける? あの海域には何千もの沈没船があったのです。しらみつぶしに探索していれば、あと五百年はかかったでしょう。ところが彼は迷いなく、エイルの東北二〇〇ヌート付近の海域で、舳先に熊を咥えた竜の頭を持つ船を探せと言い、言葉通りに見つかった。妖精にこんな力は無いわ」

「ならば、いったいどの神がそんなことをするのだ!」

「ふたりとも、落ち着いてくれ」ヴェルギルは両手を掲げた。「言ったとおり、わたしは王にはならない。その器では無いと、すでに証明されている」

 ヴェルギルは、背後に立つクヴァルドの視線を痛いほどに感じた。

 認めたくはないだろう。出来ることなら、わたし自身否定したいくらいだ。

 けれど、彼は受け入れつつある。それが、ヴェルギルにもわかった。

「エイルは閉ざされたままであるべきだ」ヴェルギルは言った。「再び国が興れば、ダイラや大陸はこぞって侵略の手を伸ばす。あちらには異端を滅ぼす大義がある──瘴気の有無など関係ない」

 マルヴィナが反論しようと口を開いたので、ヴェルギルは制して付け加えた。

「ナドカだけが瘴気の中でも無傷でいられると言うのなら、人間の王がナドカを味方につければいいだけの話だ。なにしろ『シルリク王』は愚王の代名詞だから、見限る者には事欠かない。ナドカの世界に、今よりもっと深い断絶が生じてしまうだろう──それが君の望みか?」

 マルヴィナは首を横に振った。「戦にはなりません」

「なぜそう言い切れる?」

「ハロルド王が約束したからです」

 ヴェルギルは思わず腰を浮かしそうになった。「人間の王にこの話をしたのか?」

「ハロルドは、もしエイルが開かれるのならば、正当な血筋の者が王座に就くことを条件に、緑海の国土をナドカに委ねると約束しました。ここのところ、王都も叛乱分子を警戒しています。厄介払いするにはよい機会ですから」

 ヴェルギルは、そんなに都合のいい話があるとは少しも信じていなかった。「その代わり?」

 マルヴィナは小さく肩をすくめた。「エイルはダイラの属国となります」

「それでは、今と何も変わらない」ヴェルギルは言った。

「そうでしょうか? 考えてもみてください──ひとが立ち入れない、我々だけの国土ですよ。集まって力を蓄え、いつかは人間ウィアの王朝を倒すことだって。充分に備えたなら、我々が負けるはずはありません」

 ヴェルギルはため息をついた。

「はじめから裏切る心づもりで王に近づいたのだな」クヴァルドの声は強ばっていた。

 マルヴィナは微笑を浮かべた。「わたしが仕えるのは、エイルの王ただひとりですもの」

「だが、わたしはエイルの王になるつもりは無い。もう二度とは」ヴェルギルはもう一度言った。「君の悲願を砕いて、心から申し訳ないと思っている。それでも、無理だ」

 魔術師はぐっと奥歯を噛みしめてから、こう言った。

「ならば、エダルトに冠を託すまでです」

 クヴァルドが怖ろしい唸り声を上げた。「何だと!?」

「すでに狼煙はあがりました。潮時です。たとえこの国と緑海が血に染まったとしても、わたしはエイルを取り戻す」

「狼煙……?」クヴァルドが鋭く息を呑む。「もしや、あなたがガランティスなのか?」

 マルヴィナは冷ややかにクヴァルドを見た。そして、彼の言葉を否定しなかった。

 クヴァルドは再び唸った。「あなたが〈アラニ〉を扇動している魔術師か!」

「わたしは、わたしの仲間たちに希望を与えたまで」マルヴィナが拳を握りしめた。「人間のご機嫌取りに忙しいあなたの大事な〈クラン〉はもちろん、他の誰にも出来なかったことをしたのです! そして、必ずやりとげる」

「罪も無い者を傷つけてまで?」

「は!」とマルヴィナは短い高笑いをした。「陛下、この仔犬をどこでひろってきたのです? 青臭くて鼻が曲がりそうだわ」

は〈協定ノード〉の守護者だ」クヴァルドが牙を伸ばし、剣の柄に手をかけた。「たとえ伯爵といえど、〈人外社会カトル〉を乱す者を許すわけにはいかない」

「とうに乱れているわよ! 狼がいくら人間の王に尾を振っても、奴らはわたしたちのことなど、虫けらとしか思っていない。マチェットフォードの焚刑がその証拠だわ」

 マルヴィナはクヴァルドに詰め寄った。

「〈協定〉が何よりも大事だというなら、答えてご覧──我々が生まれたのは、この世の終わりまで人間に踏みにじられるため? 我々を守るためでは無く、静かに滅んでゆけるために〈協定〉は存在しているの? あなた、それでも自分をナドカだと言える?」

「クヴァルド」

 声を掛けると、彼はびくりと身を震わせた。明らかな警戒。拒絶の反応だ。

 それでいい。そうなるように仕向けた。

「少し、彼女と話をさせて欲しい」

 マルヴィナはヴェルギルを見た。それから、勝ち誇った表情を隠そうともせず、クヴァルドを見た。

「この部屋には結界が張られている。ここで見聞きしたことを余所で漏らせば、喉が裂け、舌が燃え尽きるでしょう。覚えておいて」

 彼女が指を鳴らすと、カーテンが開き、蝋燭の炎が掻き消えた。そして、扉の錠が回るカチリという音がした。

「わかったなら退出して結構よ、〈協定〉の守護者様」

 クヴァルドは深く息を吸い込むと、そのまま腹の中に留めた。彼は扉の前まで静かに部屋を横切り、形式通りの辞儀をしてから、部屋を出て行った。その顔にはいかなる表情も表れていなかった。

 遠ざかる足音のひとつひとつに、胸が軋む。

 これが幕切れだ。最初から決まっていたことだった。だが、だからといって辛くないわけではない。

 マルヴィナは扉が閉まるのを見届けてから、ヴェルギルに視線をうつした。

「あの人狼を、ずいぶん買ってらっしゃったのですね」

 ヴェルギルはその言葉を無視した。

「エダルトが王位を欲しがると、本気で考えているのか」

 マルヴィナは眉を上げた。「試してみる価値はあります」

 ヴェルギルは椅子から身を乗り出した。

「あれは、理性というものを持ち合わせていない」

「そうでしょうか」マルヴィナは言った。「わたしには、親の気を引きたがっているだけの、哀れな子供に見えます」

 君に何がわかる、という言葉が喉まで出かける。だが、彼女の言葉が全くの当て推量というわけではないのはわかっていた。そして、そんな子供から逃げたのが他ならぬ自分であるということも。

 ヴェルギルは肘掛けを握った。

「君は危険な橋を渡っている。人間の王に忠誠を誓っておきながら、叛乱分子を扇動するなど──もし、この背信が明るみにでれば、責任を負わされるのは君だけでは無い。王宮には君の他にもナドカがいる。彼ら全員が処刑され、次は市井のナドカも狩られるだろう。それをわかっているのか?」

「申し上げたように」マルヴィナは言った。「その価値はあります」

 ヴェルギルはため息をついて椅子に沈み込んだ。「エダルトを、君の意のままに出来ると思うのは大きな間違いだ」

「あなたが冠をかぶってくだされば!」マルヴィナは再び、ヴェルギルの前に跪いた。「あなたは紛れもなく王の器であらせられます」

「わたしは……」

 不意に、手の中に握ったままの冠帯ミンドを思い出す。それをマルヴィナの手に戻して、ヴェルギルは言った。

「無理だ。出来ない」

「何かが貴方を留めているのですね。いったい何を隠しておいでなのです?」

 マルヴィナの必死の表情が見える。彼女の願いを叶えてやれたらよかった。それでも無理なのだ。どちらへ進むことも出来ない。

「その通り。わたしは何かを隠している」ヴェルギルは言った。「聞き出せるとは思わぬことだ」

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