第15話

 目覚めたときには、一人だった。

 ヴェルギルを探して部屋を見回すが、姿がない。ゆっくりと身を起こすと、昨夜の行為の余韻──微かな鈍痛が腰の奥で疼いた。

 寝台に腰掛けたまま両手に顔を埋め、深いため息をつく。

 やってしまった、という想いと、やって何が悪い? という想いが同じだけ自分の中にある。吸血鬼に抱かれるなんて、一年前には想像しただけで吐き気を催していたはずだ。けれどもいま、嫌悪や後悔などという気持ちはなかった。あるとすれば……妙な達成感、とでも言えばいいだろうか。

 腰を上げて、脱ぎ散らかした服を身に纏っていく。

 屋敷の外から、馬の嘶きと低い声が聞こえた。昨夜耳元で囁かれたいくつもの睦言を思い出し、頬に血が上りそうになる。一夜限りの関係をよしとしない人狼といえど、火遊びを好まぬ者ばかりだったわけではない。気晴らしのように互いを求め合い、用が済んだらまた群れの仲間に戻るような、素っ気ない関係を結んだこともあった。

 これもそうなのだろうか? 気晴らし? あるいは火遊び?

 いや。もっと重要なのは、自分が何を望んでいるか、だ。それが何なのか、いまひとつ判断がつかずにいるけれど。

 もやもやとしたものを片付けることが出来ないまま、魔女隠しを抜け出して、地上の世界に出る。雨上がりの朝だ。柔らかな新芽の緑を湛えた森は、宝石のような露を纏ってきらきらと輝いていた。

「おはよう、クロン」

 ヴェルギルが穏やかに声をかけてくる。昨日飲んだ血のおかげで血色が良く、風に揺れる髪も艶めいている。

 揶揄からかいは無し。あてこすりも、意味深な視線も無し。昨夜あったことを考えると、極めて冷静な対応だ。

「ああ」

 クヴァルドは馬の様子を調べながらかがみ込んだ隙に、深呼吸をして気を落ち着かせた。

 俺の方が取り乱してどうする? 任務に集中しろ。自分が何を狩ろうとしているのかを思い出せ。

 手綱をとって馬に跨がる。

「アバミルニアまで、ここからあと一日だ。順調にいけば、夜には着ける」クヴァルドは言った。「出発しよう」


 道のぬかるみに多少難儀させられはしたが、それを除けば旅は快適に進んだ。景色は穏やかで、南方の春の匂いがそこかしこに満ちている。北では蕾さえ見られなかったが、こちらでは果樹園の林檎が満開の花を咲かせていた。正午の光と温かいそよ風にさざめく姿は、平和で美しい。

 思えば二年前の春から、ほとんど一人でエダルトを追っていた。ヴェルギルの助けを得たとは言え、いままでの捜索では何も収穫はなかった。だが、もうすぐ何かが変わるという漠然とした予感がある。アバミルニアの魔術師がなにかを知っているのは間違いない。今度こそ手がかりをつかめるはずだ。

「これが終わったら」クヴァルドは言った。「お前はどうする? また貴族の血を吸って回る生活に戻るのか」

 ヴェルギルは曖昧に微笑んで、小さくふむ、と呟いた。「どうだろう。決めかねている」

 彼にしては、妙に歯切れの悪い答えだ。

「いまでも、〈協定ノード〉など下らないと思っているか? 人間ウィアどもに『生きる赦し』を与えて貰うための掟だと」

「年をとると頭が固くなるものでね」ヴェルギルは言った。「だが、『命を賭けるに値しない』は訂正しよう。君の名誉にかけて」

「殊勝な心がけだ」

 皮肉めいた言葉で返したけれど、内心では嬉しかった。馬にはそれが伝わったのか、アルゴが小さく嘶いた。

「〈クラン〉への協力を続ける気はないのか?」つとめてさりげなく、クヴァルドは尋ねた。「を生き延びることが出来たらの話だが。ヒルダ様もお前の貢献を認めてくれるだろう。実際、何度も助けられた」

 しゃべりすぎたような気がして横顔を伺ったものの、クヴァルドは慌てて視線を逸らした。

 ほんの一瞬だったから、きっと見間違えたのだろう。ヴェルギルがあんなに哀しげな表情を浮かべるなんて、あり得ないことだと思った。そして、彼は言った。

「いいや。〈クラン〉には協力できない。これが終われば、君たちとはそれきりだ」

 衝撃だった。いや、衝撃を受けたことに衝撃を受けた、と言うべきか。

 一瞬の沈黙の後、クヴァルドは言った。「そうか」

 わかっていたはずだ。人狼と吸血鬼なのだから。手を繋いで二、三の誓いを交わせば友達のふりが出来るわけではない。わかっていなければならなかったことだ。なのに、心臓が痛んだ。手がつけられないほど。

「クヴァルド」通称で呼ぶ声に、感情はこもっていなかった。「は、満月のせいだ」

 彼の顔を見ることが出来なかった。己の滑稽さに、苦い笑みが勝手に浮かんでくる。

 満月のせい。そうだ。満月のせいだ。はじまりから、ずっとそのはずだった。

「そういうことにしたいんだな?」クヴァルドは尋ねた。

 自分を取り巻く世界、輝かしい春を謳歌する世界が錆び、軋んで、崩れ落ちてゆく。

 ヴェルギルは言った。たった一言。

「そうだ」

 もしその時、語り合うための時間が与えられていたらどうなっていただろうかと思う。

 だが実際には、そんな余裕はなかった。全ての音を細切りにしながら、いくつもの鐘の音がこちらに近づいてきたからだ。馬を止め、クヴァルドはヴェルギルと視線を交わした。警戒の眼差し。

 いまばかりは傷心も、その他の名状しがたい感情も全て棚上げにするほかない──〈燈火警団ランタン〉どもが迫って来ているとあれば。

「どこからくる?」

「後方だ。森を抜けて、俺たちの後を追ってきたんだろう」クヴァルドは言った。

「マチェットフォードでの騒ぎを調べているのか」

「ひとまず身を隠そう」クヴァルドは言った。「余計な時間をとられたくない」

 面倒を嫌うヴェルギルのことだから、てっきり同意するだろうと思っていた。だが、彼は首を横に振った。

「いいや。様子をみよう」

「何!?」クヴァルドの耳には、すでに馬の蹄の音が聞こえている。「奴らに捕まるべきだと言うのか?」

 ヴェルギルは頷いた。「〈クラン〉と審問官の関係を悪化させるのはいい考えとは言えないだろう」

「よりによって、お前の口からそんな言葉を聞くことになるとは」

 彼は気にした風もなく、肩をすくめた。「まあまあ、クロン。二、三確かめたいこともあるのだ」

「確かめたいこと?」クヴァルドは眉をひそめた。「一体──」

 だが、詳しく聞き出す時間はなかった。

「そこのナドカふたり、止まれ!」

 後ろからの声に振り向くと、五人の審問官が隊列を組んでこちらに駆けてくるところだった。抵抗の意思がないことを示すために、ヴェルギルがさっさと馬を下りたので、クヴァルドもしぶしぶ馬を下りた。

 先頭で彼らを率いる審問官──白髪交じりの長髪を後ろで結わいた壮年の男が頭のようだ。彼が指示をすると、そのほかの審問官たちは馬に乗ったまま、クヴァルドたちを取り囲んだ。彼らの旗にも、仕着せにも、〈陽神デナム〉の紋章である五本の矢が描かれている。彼らがランタンと鐘が取り付けられた旗竿を地面に突き立てると、重々しい鐘の音が輪唱した。

「〈クラン〉のクヴァルドと、その連れのヴェルギルで相違ないな。聞きたいことがある」

「わかった」クヴァルドは頷いた。「だが、手短に頼みたい」

 クヴァルドの言葉を無視して、審問官は言った。「マチェットフォード、と言えば理解できるだろう」

「申し訳ないが、駆け引きする気分ではなくてね」ヴェルギルが言った。「〈アラニ〉と言ってくれた方が理解は早い」

 審問官は目を見開いた。警戒の匂いが滲んだので、図星を突いたのだとわかった。

「その物騒な旗竿で我々を串刺しにしていないのだから、敵と見なされたわけではないのだろう」ヴェルギルはクヴァルドに耳打ちする振りをした。「ダンネルと最後に話したのも、あの爆発を見とどけたのも我々だけだからな」

「まさに、そのことだ」審問官は言い、馬を下りると辞儀をした。「ホラス・サムウェル上級審問官。お見知りおきをアット・ユア・サービス

 クヴァルドとヴェルギルは目を見交わした。ナドカに敬意を示す人間は少ない。審問官という立場の者なら、なおさらだ。

「人狼と吸血鬼とは、めったに見ない組合せだ」サムウェルが言った。

 クヴァルドは用心深く答えた。「〈クラン〉の方針について、人間に逐一報告する義務はないと思うが」

「もっともだ」サムウェルはきびきびと頷いた。「知りたいのはそのことではない。二日前、〈魔女の叫びスクリーミング・ウィッチ岬〉で狼煙のろしが焚かれた」

「狼煙?」興味を引かれ、クヴァルドが言った。「どこに向けての狼煙だろうか」

「狼煙は、対岸のマルモンドからドラクステッドの荒野、マチェットフォードの郊外、ターマウスまで続いた。旧アルバ領バーボットで煙を見たという者もいる」

「つまり、ダイラ全土に伝播したというわけか」ヴェルギルが言った。

「それが、〈アラニ〉の仕業だと?」

 サムウェルは頷き、腰の小物入れから紙片を取り出した。「燃え残った狼煙台に、これが残されていた」

 最初の一行を読んで、すべてがわかった。

「いざ たちて還らん 我が都へ……」

「〈エイルの浜〉」ヴェルギルが言った。「ナドカというナドカが知っている歌だ。気づいていないのなら言っておくが、人間だって知っているだろう」

 サムウェルは顎で促した。「最後まで読むといい」

「歌詞が違う」クヴァルドは呟いた。「瞼の裏に今もうましきエイルの浜に、とある。留めたまえ、ではなく」

「伝承歌とはそういうものだろう。歌詞など都合に合わせてどうとでも変わる」とヴェルギル。

「だから、どこで歌われているのかを調べた。これは〈アラニ〉の間で歌われているものだ」サムウェルが言った。「カヌスが死に、あの怖ろしい魔道具が持ち出されて数日後に、国中で〈アラニ〉の狼煙があがった。これがどういう意味か、深く考える必要はあるまい」

 嫌な汗とともに、毛の根元を焦がすような、嫌な感覚が広がる。

「これは……叛乱の狼煙だと?」

 サムウェルは軽々しく頷かなかったが、目は「そうだ」と言っていた。

「少なくとも、王都の方々はそのように考えている」彼はそう言うに留めた。「わたしが聞きたいのは、きみたち二人が破壊した魔道具の特徴と、威力──それに、連中について知っていることを全てだ」

 ナドカの叛乱は、これまでにも何度も起こっている。だがそのたびに、双方に多大な犠牲を払って鎮圧されてきた。最後の内乱は五十年前に勃発した。二百のナドカと、四百の人間と、五つの村が消えた。

「そちら側にも事情があるのは承知しているが、内乱は誰にとっても望ましくないはずだ。違うか?」

 否定するわけにはいかなかった。そのとおりだからだ。

「ここでは話せないこともある。是非ともわたしと共に──」

「是非とも、ご遠慮願いたいわね。ホラス」

 不意に頭上から振ってきた声に、全員が空を見上げた。太陽を遮って、一頭の翼馬ペガサスがこちらに向かってくるところだった。黒い見事な翼馬は、ちょっとした狩猟小屋くらいなら包み込んでしまえるほど大きな翼をはためかせながら、地面に降り立った。

 馬上にはひとりの貴婦人。薬液と金属の匂い──魔術師だ。

 苦み走った表情で、サムウェルが呟き、辞儀をした。「アバミルニア伯」

「わたしの領地で、わたしの客人を足止めするなんて、王の不興を買う覚悟があると見なしてよいのかしら」

 怒りの匂いが立ち上る。だが、サムウェルはそれを抑えた。

「そのようなことは。火急の用事だったものですから」

「そう。用事は片付いて?」

 片付いてはいないはずだが、この魔術師に意見することを、彼は選ばなかった。

「まずはご挨拶、といったところです」そして、意味深な目でクヴァルドとヴェルギルを見た。「またいずれ会うことになりましょう」

 サムウェルが言い、他の審問官に撤収の指示を出した。

 その間──審問官たちが遠ざかってゆく音を背中で聞いている間、ただ一人ヴェルギルだけが、含みのある笑みを浮かべていた。

 彼は魔術師に向かって言った。「わたしのことを覚えていたとは、望外の喜びだ」

「あら、貴方のことなどとっくに忘れましたわ。わたしは、そちらの素敵な赤毛の人狼閣下にお目にかかりたくて手紙を書いたのよ」魔術師は意地悪げに微笑んだ。

「マルヴィナ、つれないことを」ヴェルギルは言い、笑みを返した。「わたしは君のことを、一日たりとも忘れはしなかった」

「貴方の言葉を信じていたら、心臓がいくつあっても足りません」アバミルニア伯マルヴィナ・ムーンヴェイルはそう言うと、黒い翼馬に舌呼ぜっこした。

「さあ、行きましょう。城はすぐそこです」


 アバミルニア伯の屋敷はガーフェイン城と呼ばれていたが、度重なる改築を経て、城と言うよりは豪華な邸宅の様相に変わっていた。歴史を感じさせる門楼はそのまま残されていたものの、城壁は取り除かれていた。壁などなくてもこの城を落とすことは出来ないという自信の表れだろう。

 領主直々の先導について門をくぐると、古代に築かれた盛り土の上に建つ屋敷がよく見えた。当世風の左右対称の造りで、巨大な硝子窓を惜しげも無く嵌め込んだ豪勢なものだ。盛り土の丘からなだらかに広がる広大な庭園では、鮮やかな色彩の花々が育てられていた。

「素敵でしょう? 大陸や東方からも種や苗を集めさせたのです」

 庭園を横切りながら、クヴァルドは彼女の権力を顕示するために咲き誇る花々を眺めた。名も知らぬ沢山の花──鷺のような形をしたオレンジの花もあれば、高い幹から巨大な黄色い花をぶら下げているものもある。小さな池に浮かぶ睡蓮の葉の上で、派手な色の蛙が憩っている。強い匂いを放つ白い蜘蛛のような形の花は『蘭』と呼ぶのだと、魔術師が言った。

「見事だ」とヴェルギルは言った。

「そうでしょう? この庭では、いつでも世界中の花が咲いているの」

 それが自然のわざではないのは自明だった。まだ春だというのに、夏に咲くはずの薔薇が花開き、ラベンダーの香りが漂っている。目の覚めるような青い色の蝶が、白薔薇の花弁にとまり、眠たげに羽根を開いたり、閉じたりしていた。

 これだから、人狼は魔術師と手を組まないのだ。

 魔女や魔法使いは自然の力を借りて恩恵を得ようとするが、魔術師は自然をねじ曲げては力の証明としてひけらかす。人間が、よく魔術師と魔法使いを混同するのが不思議で仕方なかった。自然の近くで生きる人狼にとって、両者の違いは大きい。

 二階建ての邸宅の顔とも言うべきポーチの前で馬を下りる。待機していた召使いに馬を預け、はなあみの彫刻に彩られたアーチをくぐると、屋内も外と同じくらい明るいことに驚かされた。吹き抜けの玄関エントランスには、巨大な窓や天窓から惜しげも無く陽光が降り注いでいた。これもまた、彼女の力を示すにはいい演出だ。

「コナル! お二人を応接間へご案内して」召使いを呼んで、マルヴィナは言った。「長旅でお疲れでしょう。お恥ずかしいのですけれど、ホラスに足止めされているあなた方を見かけていそいで出てきたものですから、お迎えの準備がまだなのです。支度をして伺いますから、どうかおくつろぎくださいな」

 ヴェルギルは言った。「感謝する、アバミルニア伯爵」

「ヴィニーと呼んでくださっていいのですよ、昔のように」

 マルヴィナは悪戯っぽく笑ってみせてから、歩き去った。

 その後ろ姿を見送り、応接間に案内されてからも、クヴァルドはなぜ自分は素直に彼女への謝意を伝えることをしなかったのだろうといぶかしんでいた。


 応接間には、庭園の花と同じように世界中から集められた調度品が飾られていた。月長石の古代文字が嵌め込まれた樫の木の櫂や、白金とトネリコで作られた原始的な羅針盤──多くは航海にまつわるものだ。鑑定できるほど詳しくはないが、使われた時代についての理解が正しければ、どれも数百年前の遺物だ。中でも目を引くのが、暖炉の上に掲げられた巨大なタペストリーだった。海に浮かぶ島──おそらくエイルだろう──から溢れ出る黒い瘴気と、その中から生まれた様々な人外ナドカを描いたものだった。人間の客をももてなすはずの応接間に飾るには少々不適切な題材だと思ったが、短い対面を通して窺い知ったマルヴィナの性格から鑑みれば、違和感を覚えるほどではなかった。

「アバミルニア伯と知り合いだとは知らなかった」クヴァルドは言った。「手紙を受け取った時点でわかっていたのか?」

 二人の間にあると思いかけていたものが、いきなり全て凍り付いたように思えるのは、そのせいなのだろうか。彼女との旧交を温めることが出来るなら、狼など相手にしなくてもよくなったのか?

「魔術師が師の名前を受け継ぐのはよくあることだ」ヴェルギルは言った。「王から爵位を授かったのが、わたしの知るマルヴィナなのかどうか、会うまで確信は無かった。最後に目にしてから、百年近く経っている」

 でも、期待はしていた?

 口に出されてもない言葉を自分の中だけに作り上げて、また憂鬱をため込む。

 わたしの知るマルヴィナヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ──いや、ヴィニーヽヽヽヽか。

 広すぎず、かといって狭すぎないこの部屋に閉じ込められ、会話はそれきり途絶えた。ヴェルギルは肘掛け椅子に座り込んで考え事をしているようだった。クヴァルドは張り出し窓の腰掛けに腰を下ろして、ただ庭を眺めた。出会ったばかりの頃だって、こんなに静かではなかった。あの時は、この吸血鬼がのべつ幕なしにしゃべり続けていたから。

 それを懐かしむ日が来るなんて、思ってもみなかったが。

「お待たせしました」

 応接間の扉が開き、先ほどよりも──なぜこんな敵意に満ちた言葉を選ぶのかは深く考えないようにするとして──アバミルニア伯が姿を現した。彼女の後ろには、お付きの者にしては簡素な服を纏った少年が立っていた。やけに目を引くのは、どことなく虚ろな表情のせいだろうか?

「長旅、ご苦労されたことでしょう」マルヴィナは改めてふたりをねぎらった。「手紙でお伝えしたとおり、エダルトについて知っていることをお話ししますわ。でもその前に、どうか今夜は旅の疲れを癒やしてください」

「心遣い、痛み入ります」クヴァルドは言った。

 向こうがその気なら今夜からでも事情を聞くつもりでいたが、仮にも一国の領主を急かす権限は、クヴァルドには無かった。彼女が『今日では無い』と言えば、今日は〈クラン〉の任務を進めることは出来ない。

「その子供は?」ヴェルギルが言う。

「ご紹介が遅れました。この子はハミシュ──わたしが面倒を見ている子です」

 マルヴィナにそっと押されて前に進み出た彼は、また背中に手を当てて促されてようやく、おぼつかなげな辞儀をした。

「ご覧の通り、少々ぼんやりしているのですけれど。才能については瞠目すべきものがあります」

 自分の話をされている間も、ハミシュという少年は上の空で、部屋の中を漂う埃を目で追っていた。

「さて」マルヴィナが言った。「夕餉までは、まだしばらく時間がございますわね。昔話や、積もり積もった話をするのにはちょうどいい日和だと思いませんこと?」

 何かを察しろと言われているような気がしたが、クヴァルドは敢えて無視した。

「ええ、そうですね」

 するとマルヴィナは、洗練された表情に微かな躊躇いを浮かべてから、言った。

黄昏の狼クヴァルド・ウルヴ様、申し訳ないのですけれど、わたしとヴェルギル様に少し時間を戴きたいの。コナルに庭園を案内させましょう。あるいは馬小屋でも。つい二ヶ月前に生まれたばかりの翼馬ペガサスが──」

「その必要は無い」

 断固とした声が彼女の言葉を遮った。聞き慣れぬ響きに、クヴァルドはハッとして、ヴェルギルを見た。

 窓際の肘掛け椅子に、足を組んで腰掛ける彼の背後からは午後の斜陽が差し込んでいた。彼の面差しがいつもと違うように見えるのはそのせいか? いや、そうではない。いつもの人を食ったような雰囲気が跡形も無く消え去っていた。いまの彼は堂々として、支配的ですらある。あたかも彼こそがこの屋敷の主人であると言わんばかりだ。

 これは、一体どういうことだ?

 マルヴィナはためらった。「しかし──」

「彼を閉め出すつもりは無い」ヴェルギルは再び、断固とした声で告げた。

 魔術師の狼狽は、いまやはっきりと匂いに現れていた。彼女は揺るがないヴェルギルの表情を見て、それ以上言いつのるのを諦めた。

「わかりました。貴方がそう仰るのでしたら」

 彼女が召使いに頷くと、彼は部屋中の大きな窓を覆うカーテンを閉じて回った。分厚い織物が日光を閉め出してしまうと、永夜えいや蝋燭ろうそくの灯がともった。嗅ぎ慣れぬ魔法の匂いが立ち上った所を見ると、あの蝋燭には、単に灯りを放つ目的以上の術が込められているに違いない。召使いが部屋を出て、扉を閉める。さらに、外から鍵を掛ける音まで聞こえた。

「これで、この部屋から秘密が漏れることはありません」マルヴィナは言った。

 異様な状況に当惑しながらもじっと様子を窺っていると、二人の目の前でマルヴィナがゆっくりと膝を突いた。ドレスの裾が膨らみ、左膝が胸につき、右膝が床を擦る。両手を拡げる格好は恭順の意を示すためのもの。

 それは臣下が王に対して行う、最も深い辞儀だ。

「シルリク・エイラ・ルウェリン。王よ、お喜びください」

 彼女は言った。とても厳かに。

「我らが祖国へ帰還するすべを、ついに見つけました」

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