3章:剣鬼残光

プロローグ(3)










 英雄の話をしよう。

 今から一五年前、戦争があった。バナヴィア戦争と呼ばれるその戦争で、一つの大国が地図から消えた。

 それはバナヴィア王国という巨大な共同体が、侵略者であるベガニシュ帝国に屈するまでの物語だ。実際のところ、その戦争によって帝国が得られたものは少なく、むしろ負債ばかりが膨れ上がったのだとしても――おおむねそれは、帝国の勝利として認識されている。

 その立役者というべきものは数多い。


 大ベガニシュ主義の提唱者カール・トエニが、将校として華々しい戦果を重ねたのもこの戦争だ。

 しかし科学技術と軍事技術の発展という視点で見たとき、最もバナヴィア戦争に大きく影響したのはバレットナイトであろう。

 それは当初、身長三メートルの試作機から始まり、今日では身長四メートルの巨人兵器として定着している。その運用上のメリットの数々から、従来、多様な戦闘車両が担っていた役割の多くを奪いつつある新兵器である。


 ベガニシュ帝国が作りあげた機械仕掛けの巨人は、当初、帝国側では機甲駆体パンツァーケルパーという呼び名であった。

 しかし敵であるバナヴィア王国側、そして諸外国のマスメディアは、大地を疾風のように駆け回る巨人をこう読んだ――弾丸の騎士バレットナイトと。

 あらゆる地形を高速で走破する巨人と、その印象を表した言葉の絶大な衝撃は大きかった。


 大きすぎた。

 結果として今日では、開発元であるベガニシュ帝国でさえも、この種の兵器をバレットナイトと呼んでいる。パンツァーケルパーなんてわかりにくい呼び名は誰も覚えちゃいない。

 弾丸の騎士の方が聞こえがよく、どういう兵器なのかわかりやすいからだ。



――



 大陸間戦争の終盤、本土決戦で戦場を暴れ回ったトップエース〈剣の悪魔〉がその代表例であろう。

 敗色濃厚な戦線を維持するため、戦意高揚のプロパガンダ・ヒーローとして喧伝された少女兵――そういう存在としてその名前は始まった。

 だが、恐ろしいことが起きた。


 少女を特例で徴兵した軍上層部の一部、あるいはカール・トエニ将軍以外、予想していなかった大戦果の数々――敵軍の大攻勢は、たった一人の機甲猟兵を中心にした残存兵力によって食い止められた。

 消耗品としてかき集められたはずのバナヴィア人機甲猟兵たちが、ベガニシュ帝国陸軍の再編成までの時間を稼いでいった。

 作り物の英雄はそうして本物になっていった。



――戦場には英雄崇拝が蔓延まんえんした。



 降り注ぐ砲弾の雨が、薙ぎ払う機銃掃射の嵐が、誰かの命を奪い去っていく陰惨な地上戦。本来、誰も例外ではいられない暴力と憎悪の連鎖の中で、その少女兵は輝けるただ一人の例外だった。

 彼女が指揮する機甲猟兵は、あまりにも鮮やかに敵陣を引き裂いていった。戦線を維持するための結節点をズタズタに切り裂き、指揮を執る将校の首を刈り取っていったのだ。

 一兵卒から将校に至るまで、生き残っていた将兵は誰しもがそのバナヴィア人の少女に心酔した。


 年端も行かぬ小娘に大の男が情けない――などという寝言を抜かすやつは一度、大陸東海岸の地獄にやってくればわかるだろう。

 戦場には二種類の生き物しかいない、と嫌でも理解できるだろう。

 英雄と共に戦える戦士と、英雄に助けられる兵士。その二つ以外の区分は無意味であり、時として有害ですらあった。


 あらゆる兵科のあらゆる将兵が、その絶大なる煌めきに目を奪われていった。

 皮肉であった。

 かつてベガニシュ帝国が生み出し、一つの国を地図から消し去った新兵器バレットナイト――帝国の科学技術の優越を体現する巨人は、今や異民族の少女を英雄に押し上げてしまったのだから。


 ガルテグ連邦の大陸遠征軍の本土侵攻を防げず、防衛線の構築にも失敗したベガニシュ帝国軍。彼らが何とか状況を把握した頃には、英雄の影響力は異常なまでに巨大化していた。

 戦場に送り出したベガニシュ貴族の子弟が、気づけばバナヴィア人の小娘のシンパに成り果てていることも珍しくなかった。

 ベガニシュ人の他民族への優越を信じる人々にとって、まるでそれは、世界を蝕む病巣のように見えたことだろう。

 もちろんベガニシュ帝国内の貴族派は怒りを爆発させた。


 絶対にその少女を戦死させるという圧力――激戦区の転戦を命じる支離滅裂な命令――やはり輝ける英雄伝説を打ち立てていく少女。

 それはもうえらいことになった。

 事態は収拾不可能な地獄絵図になっていった、と言っていい。呪われたカリスマはほぼ思想汚染と呼んで差し支えなかった。


 なんやかんやの末に、軍の上層部は英雄の妹を人質にして脅し、単独で敵陣に突っ込ませて死なせる、という暴挙に及ぶに至った――それでもまだ、敵軍による死という体裁にこだわったのは、ベガニシュ帝国の数少ない美徳かもしれなかった。

 バナヴィア人の小娘一人に暗殺者を差し向けた貴族などという不名誉を被りたい人間がいなかったのだ、とも言えるし、あるいは表沙汰になっていないだけで暗殺未遂はあったのかもしれない。

 真相はやぶの中である。邪魔者を暗殺しようとして失敗し続けたなど、不名誉すぎて公表されることはあるまい。


 英雄の話をしよう。

 それは旧バナヴィア王国北部ロシュバレア、雪深い北の大地に生まれた一人の少女の物語だ。

 〈剣の悪魔〉エルフリーデ・イルーシャ――彼女の名は、ベガニシュ人とバナヴィア人、双方にとって忘れがたいものとなる。







 風が吹いていた。

 北方の地ロシュバレアの春は他の土地よりずっと遅い。四月に雪が降るのだって珍しくないくらいだ。もう初夏と呼んでいい季節になって、ようやく春めいてくるような始末だった。

 そういう故郷の澄んだ空気が、肺の隅々にまで染み渡る。

 日差しは弱い。長い冬を乗り越えた草木が、青々とした葉を生い茂らせていようと――ロシュバレアの空気は、やはりヴガレムル市とは違う。

 エルフリーデ・イルーシャは今、生まれ故郷に戻っていた。


 無数の墓標が並ぶ風景の中を、少女は一人で歩む。濃い栗色の頭髪はミディアムヘアに切りそろえられていて、服装は品のいい膝下まである黒のワンピース姿、その手には鮮やかなピンク色の花。

 多くの人々が死んだ証――バナヴィア王国と呼ばれた国が滅び、それでもなお戦いは終わらず、エルフリーデの父母はあっけなく巻き込まれて死んだ。

 誰もその意味を教えてくれない、無常な終わりだけがあった。

 無心で歩いて、歩いて、歩いて。

 ぴたり、と少女は足を止めた。墓地の片隅にひっそりと存在する墓標は、夫婦で並ぶように存在していた。



――クリストフ・イルーシャ。歴史を愛した賢人、気高く眠る。



――ヘルミーナ・イルーシャ。信心深きもの、安らかに眠る。



 生前の二人をよく知らなければ刻むこともできないような言葉だった。エルフリーデは墓標の前にしゃがみ込むと、父母の墓標にそれぞれ花を供えた。

 目を閉じて、そっと呟く。


「……久しぶり。花は母さんの好きなピンクにしておいたよ。父さんには派手すぎるかもしれないけど」


 答えはない。ここには骸の一部しか眠っていないのだ。爆弾で粉砕された二人の亡骸は、棺に収められてはいるものの、欠損が多くて家族すら顔を見ることが許されなかった。

 たとえ天の主が奇跡を起こそうと、復活できるかもわからない状態――これっぽっちも宗教的復活なんて信じていないのに、こういうときだけは都合よく迷信にふけりたくなるのだ。

 エルフリーデは自分が俗人であることを思い知っていた。

 目を開く。冷たい墓石があるだけの風景だった。


「ごめん、ずっと戦争に行ってて、二人のお墓参りもできなくて……今は無理だけどさ、暮らしが落ち着いてきたらティアナと一緒にまた来るから。それで勘弁してよ、母さん」


 バナヴィア王国では、死者の弔いを日常的にするのはよほど信仰心に厚い人間だけだ。それでも一年に一回か二回は顔見せするのが普通だから、エルフリーデは長いこと親不孝だったと言える。

 もう死んでしまった父と母より、生きている妹のことを優先していた。戦時中の兵隊に与えられる休暇なんて、生きている人間と顔合わせしたらあっという間に潰れてしまう程度のものだ。

 これでも精鋭の竜騎兵小隊として、だいぶ配慮されていた方なので、とにかく何もかも大陸間戦争が悪い。

 立ち上がる。


「そうそう、ようやく大陸間戦争が終わったんだよ。ガルテグとも和平条約が結ばれて……わたしもティアナも、これで少しはゆっくりできるかもしれないよ。今の雇い主のクロガネって人は、あれで中々、悪い人じゃないし……わたしたちは大丈夫だから、安心してほしいな」


 エルフリーデは父母への報告を終えて、そっと胸の前で両手を合わせた。

 今の雇い主ことクロガネ・シヴ・シノムラ曰く、この大地と大空と大海をお作りになった造物主とは、大昔の人間らしいのだが――それが事実かホラ話か、区別する術を少女は持っていない。

 なのでここでは、信心深かった母に合わせて神様にお祈りすることにした。

 天の主への祈りを胸の内で唱える。


「……うん、それじゃあね。父さんも母さんも……幸せにやってるって信じてる」


 ほうっ、と息を吐く。

 ロシュバレア市郊外にある墓地は、平日の真っ昼間ということもあって他に人影はいない。エルフリーデがここに来たのは、フィルニカ王国での一件が終わって、その労をねぎらわれた結果だった。

 世間一般の休暇とは全然、日程が違うのである。

 墓地の外には迎えを待たせてある。クロガネがわざわざ気を利かせて寄越してくれた護衛の人たちだ。あまり長居をしても、感傷に浸る以外にやることがない。

 いつまでも感傷に浸る生き方をエルフリーデはしてこなかったから、こういうとき手持ち無沙汰な気分になる。

 だが、早朝から長い時間をかけて移動してきて、墓地にいるのは一〇分未満というのも薄情者みたいで後ろめたい気がした。


「むう……」


 どうしようかな、と考えた瞬間、視界の隅に人影が見えた。敵意や悪意の兆候はない。さりげなく頭を動かして視線を送ると、遠くに人影が見えた。

 体格から見て成人男性だ。身長は一八〇センチぐらい、くたびれたシャツの袖をまくり上げ、スラックスに革靴を履いている。

 片手に花束を持った男――その背格好に見覚えがあった。

 距離が近づいてきて確信を持つ。それは古い知人であり、父の親友でもあった男。

 茶色の短髪、記憶にあるよりも幾分かしわの刻まれた顔立ち。たぶん若い頃はさぞや女の子にモテたんだろうなと思わせる中年男性――ひょっとしたら今でも通用しているのかもしれない。

 だけどエルフリーデにとって、彼はいつだって優しい父の友人だった。


「セヴランおじさん?」


 驚いて言葉が口からこぼれた。相手の方もびっくりした様子で、うろたえるように動きを止めたあと、ぽつりと呟いた。


「……エルフリーデか?」


 白昼夢でも見たかのような響きがあった。互いの顔をしばし見つめ合ったあと、二人はのろのろと歩いて顔を確かめ合った。そして相手が幽霊でないと知るや、ようやくぬか喜びではない親愛を表情に出した。

 セヴラン・ヴァロール。元バナヴィア王国の軍人で、バナヴィア戦争で負った戦傷が元で戦えなくなった退役軍人である。

 彼の視線が、ほんの一瞬、エルフリーデの左目と頬に刻まれた切創の傷跡に向けられた。

 それだけだった。数年ぶりに出会った女の子の顔に消えない傷がついていた――何があったのかなんてことは問わず、ただ男は再会のよろこびだけを言葉にした。


「久しぶりだな。二人の葬式以来か?」


「うん、おじさんも……相変わらず元気そうでよかった」


「ああ、君も……ああもう、なんて言えばいいんだろうな、こういうとき。クリストフのやつなら、いい感じの台詞が出てくるんだろうが……」


「安心した。セヴランおじさんは相変わらずみたいだね」


 エルフリーデは気さくなセヴランに対して、心からの安堵を込めて微笑む。それは家族のように付き合ってきた相手にだけ見せる、少女の無警戒な表情だった。

 セヴランは自分の娘のように可愛がっていた少女の無事に、ほっとしたように笑った。

 無精髭をそり忘れている大雑把さは、エルフリーデの知るセヴランのままだった。


「おじさんは今もロシュバレアに住んでるの?」


 ここ数年の間、連絡が取れなかったことに関して、二人は話題として触れなかった。大陸間戦争による徴兵は、バナヴィア全土で行われた。

 機甲猟兵としての適性が認められ、女子であるにもかかわらず、特例で徴兵されたエルフリーデは地元でも有名人だった。

 当然、セヴランもそのことを知っている。戦地で何があったかを問うほど、彼は世間知らずでも無神経でもなかった。


「まぁ何せ、俺はこの身体だからな。年も食ってるしで徴兵はされなかった。だからまあ、こうして地元で細々と土いじりして飯を食ってる」


 気ままな独身生活ってやつさ、とセヴランは笑った。

 一五年前のバナヴィア戦争のおり、セヴラン・ヴァロールの妻子は戦火に巻き込まれて亡くなっている。ベガニシュ帝国が行った市街地への無差別爆撃に巻き込まれたのだ、とエルフリーデは知っている。

 何年か前、父クリストフとセヴランの会話を盗み聞きしたのだ。あのとき彼は泣いていた。

 セヴランが腹の内ではどんな思いを抱えているのか、エルフリーデにはわからない。だけど自分の前で気さくなおじさんをやってくれている、彼の優しさが本物だと知っていた。


「まぁ、そういうのは君の方が苦労してるだろ。ティアナちゃんは元気か?」


「うん、今はわたしと一緒にヴガレムル市に住んでるんだ。すごーく元気だから安心して……まぁ、ちょっと最近ね、反抗期気味なんだけど……」


「はははは、ティアナちゃんもそんな歳かぁ。俺も老けるわけだ」


 セヴランはちょっと自嘲気味だった。確かに数年前に比べると、セヴラン・ヴァロールの容姿は歳を重ねていた。しかし見た目ほど中身までは老いていないだろう、とエルフリーデは思う。

 もう四〇代半ばになるはずの男は、元軍人らしく筋肉質でよく鍛えられていた。シャツの上からでもわかる体つきは、おそらく今でも鍛錬を欠かしていない証だ。

 励ましの意味も込めて、少女は頷いた。


「セヴランおじさんは今でもかっこいいよ?」


「エルフリーデはおじさんに優しいなあ……中年になると結構染みるぜ……」


「そういうの、セヴランおじさんには似合わないよ? なんか予防線張ってる感じだし……」


「急に厳しくなったな……おじさん泣きそう」


 なにそれ、とエルフリーデは屈託なく笑った。

 それからしばらくの間、二人は近況を報告し合った――大切なことを胸に秘めてはいたが、それは確かに親愛の情を感じているもの同士の交流だった。

 このときエルフリーデ・イルーシャは信じていたのである。








――、と。

















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