ネバーモア、ネバーモア
フィルニカ王国の王都パシャヴェラ――この歴史ある大国において、古くから王権とそれに付き従う貴族たち、そして商人たちが栄えさせてきた都である。
石造りやレンガで作られた建物が多いフィルニカ王国において、近代的建築物が建ち並ぶ都市はそう多くない。
商工業の中心として発展著しい国際都市アジャーニアと並び、この歴史ある王都もまた、多くの近代的高層建築を備えていた。
その科学技術において他の追随を許さない二つの超大国、ベガニシュ帝国とガルテグ連邦――二つの陣営との取引によって新技術の導入を進めるフィルニカ王国の顔そのもの。
そんな都市の真ん中に、広大な敷地を誇る王宮があった。
巨大なアーチ状の門、長方形に区切られた広大な庭園、高さ一〇〇メートルにも達する長大な尖塔、そして白亜の壁で作られた
採算を度外視され、造物塔で生産された機械的設備は、現代で庶民が用いる空調設備よりはるかに信頼性が高い。数百年間、簡易なメンテナンスだけで壊れることなく動いてきたのがその証拠だ。
そういうわけでフィルニカの大地を熱気が覆う季節といえど、宮殿の中はとても涼やかな空気に満ちていた。
当然のことながらその玉座におわすのは、フィルニカ王国を統べる国王に他ならなかった。
金糸で複雑な
それはラトが着ていた純白の礼服によく似ていたし、二人の顔立ちはさらにそっくりだった。
まだ青年と呼んでいい顔立ちの男こそ、フィルニカ国王ロガキスであった。玉座の間には今、ロガキスと最も信頼がおける口の固い衛兵、そして異国の伯爵だけがいた。
人払いされているのである。
招かれたベガニシュ貴族の名はクロガネ・シヴ・シノムラ、やはり異国の礼服を着ている黒衣の男である。
片膝を立ててひざまずいている彼に対して、褐色の肌の国王が口を開いた。
「
それは遠い昔の話だった。先王イシュヴィムの治世の末期、すでに国は荒れ始めていたが、まだ彼に対抗しようとするだけの勢力は国内のどこにもいなかった時期の話だ。
今から二〇年では足りず、さりとて三〇年には届かぬ程度の時間が過ぎ去っていた。ロガキスの思い違いでなければ、彼がまだあどけない少年だった頃、二人は顔を合わせていた。
クロガネが顔を上げて、ロガキスと視線を通わせた。黄金色の瞳、深遠なる知恵者の目を見て、改革派で知られる苛烈な王は確信を強めた。
あの目だ。
「私もまた、陛下のお姿は印象に残っております。あれは九月の昼下がり、トラパの離宮でのことでした。当時、陛下は一〇歳の誕生日を迎えられたばかりだったと存じております」
「やはり、な。そなたと交わした世間話は、今でも鮮烈に覚えている。あれから多くのものが変わったが……そなたは何一つ変わっていないようだ」
無言。黒髪の伯爵は微笑みを浮かべて、ロガキスの目を見ていた。
若き国王はフィルニカ・ヘヴィ・インダストリー社からの報告を思い出す。貸し出したバレットナイトに残されていた会話ログは、ベガニシュ帝国使節とその騎士の軽口が記録されていた。
その内容を聞かされたときは、まさかと思ったものだが――なるほど、真実はロガキスの常識を越えていたらしい。
「……ラトが一〇万年などという馬鹿げた数字を言ったときは、何かの例え話だと考えた。しかし実際のところ、まったく加齢していないそなたの存在がある以上、認めざるを得ない。正しく
言葉を句切る。
ロガキスはフィルニカ王国という国家の命運を背負っている。少なくともイシュヴィムが築き上げた近代化の礎を、この国はもう無駄にする余裕がない。歩みを止めて停滞していれば、超大国であるベガニシュ帝国やガルテグ連邦の属国にされてしまうだろう。
自身の行う経済発展を望む政策が、そこから取り残されつつある北部の住人の反感を買っているのは承知している。ベガニシュ帝国と結びつきを強める政策が、なおさら売国奴のそれに見えていることも。
しかし今だからその程度で済んでいるのだ、とロガキスは思考する。
将来的に国際情勢がどう動くのであれ、今のフィルニカ王国のままではいられない――それが聡明な王の嘘偽らざる本音だった。
「歴史が動く場所に、必ず不死者は現れる。大陸に統一国家を打ち立てたカーラン一世の盟友〈始まりの御使い〉――伝説に謳われる存在を、こうしてこの目で見ることになるとはな」
呟く。
都市アジャーニアの港から上陸し、フィルニカ王国陸軍に対して攻撃を加えた怪ロボット兵器〈イノーマス・マローダー〉――甚大な被害を軍に与え、砲兵部隊、バレットナイト部隊、王立航空騎兵隊を蹂躙した怪物。
どうやらガルテグ連邦の一派が暴走して持ち出した巨大兵器は撃破された。
すべては眼前のベガニシュ貴族の差配である。征服されたバナヴィア王国の残党をまとめ上げ、企業グループとしてその力を温存した男――その切り札の威力は恐るべきものだった。
たった一機のバレットナイトが、怪物的巨大兵器を葬り去ったのだ。
その後、撃破された巨大兵器は動力炉の暴走とやらで残骸一つ残さず消え去った、というのが報告書にある内容だった。
件の兵器が王都パシャヴェラ、そして王宮を砲撃するための巨大砲を備えていたことも調査から明らかになっている。
つまるところフィルニカ王国は、ヴガレムル伯爵クロガネ・シヴ・シノムラに対して借りがあるのだ。
多少の不都合な存在には目をつむるのが、その代償ならば安いものだった。
何よりロガキスには確信があった。
今後、大陸の運命を大きく変えるのはベガニシュ帝国ではなく――〈始まりの御使い〉の側なのだ、と。
「私が今回、そなたに便宜を図るのはベガニシュ帝国に対する譲歩ではない――フィルニカ王国は今回の一件で、クロガネ・シヴ・シノムラの力を知った。それに対する意思表示だ」
「ご厚意、痛み入ります」
「そなたの企みがなんであれ、期待しているよ伯爵」
クロガネが微笑んだ。如何に人払いしていようと、多くを語ることはできまい。しかしこの不死者が何かしら、企みごとがあって動いているのは間違いなかった。
そしてフィルニカ国王ロガキスは、思い出したように一言、付け加えた。
「それとな、そなたの騎士には我が国から称号を贈る。楽しみにするよう伝えるがいい」
◆
クロガネが王都パシャヴェラに召喚されていた頃――都市アジャーニアに滞在するエルフリーデは、ホテルの一室にいた。
高層部の高級ホテルを高級ホテルたらしめる部屋が貸切だから、実質的にワンフロア丸ごと借り上げた状態である。
アジャーニア市とパシャヴェラは数百キロ離れているから、とりあえず今後の身の振り方が決まるまではホテルで待機していることになったのだ。
彼女は同室のルームメイト――つい先日、拾ってきた少女に目を向けた。
「人殺しは全員、地獄に堕ちないと気が済まないなんて坊主ぐらいだと思ってたけど――きみはどうやら、そういう潔癖な正義感を持ってるみたいだ」
「…………」
無言である。
褐色の肌に黒い髪、片目を隠したボブカットに
少女は今や、抜け殻のようになって生きる気力を失っていた。ずっと弟たちのため頑張ってきたのに、その末路は救われないものだったのだ。
その気持ちは痛いほどわかる。そしてだからこそ、エルフリーデ・イルーシャには何とかしてあげたい気持ちがあった。
素っ気ない白地のシャツを着たリザは、虚ろな目線を床に向けている。
とりあえずエルフリーデは口を開いた。
「もちろん戦場での生き死にの責任を負うのは国家である、なんてのは基本中の基本だけど……スパイの場合は誰がどう責任を取るんだろうね。聞いた話じゃガルテグ連邦が保護するのはGCI職員であって、現地雇用枠のエージェントは切り捨てるのが常套手段だって話だけど。うん、ひどい話だ」
「…………ひどいのは、私の方ですよ。お姉さん、私は身勝手な怒りでフィルニカの軍人をいっぱい殺した大罪人です。なんでホテルで
リザが虚ろな視線はそのままに、ゆっくりと口を開いた。その言葉に乗っているのは率直な疑問だった。
どうして自分は生きているのだろう、という当然の疑問だ。
つまるところリザ・バシュレーがのうのうと生きているのは、エルフリーデが個人的感傷で助けたからに他ならないのだけれど――ひとまず少女は、問いかけに応えることにした。
「……わたしの大切な人が巻き込まれていたなら、絶対きみを許さなかったと思う。道徳的な話をするなら、きみには辛く苦しい
リザの虚ろな目が、わずかに動いてエルフリーデの顔を見た。色白の肌に赤い瞳、何もかもが異なっている異国の英雄とその目が合う。
たぶんどんなに本人が普通を自認していても、エルフリーデ・イルーシャは常人とは異なる世界観で生きている存在だった。
左目と左頬に大きな切創の痕が刻まれている少女は、そんな傷跡など気にもせずほがらかに笑うのだ。
「でもさ、リザ。どうやら困ったことに、エルフリーデ・イルーシャはきみを一方的に友達だと思っているんだ。あれは全部お芝居ですって言われたら、わたしは傷つくけどね?」
「……えっ?」
リザにとってその言葉は意外なものだったらしい。大きく目を見開いて、身を強ばらせた少女を見て、エルフリーデはくすりと微笑んだ。
そして真剣な表情になると、ベッドの上でうずくまっているリザに対して、そっと右手を差し出した。その仕草の意味がわからず、褐色の少女の視線が、エルフリーデの顔と手を行ったり来たりする。
言うか言うまいか迷った末、エルフリーデは意を決して、照れくさい言葉を伝えると決めた。
すぅっと息を吸い込む。
「わたしはリザに生きてほしい。たとえ、きみがどれほどの苦しみを抱いて、この世界に光を見いだせないとしても――それでも、救われるいつかを夢見てしまうから」
言葉は祈りに似ていた。
リザ・バシュレーは失意の底にいた。
このまま消え去ってしまいたいような気持ちで胸がいっぱいだった。今なら銃口を向けられても、反撃一つできずに銃で撃たれるだろうという確信があった。
それなのに、眼前の少女はこちらに手を差し伸べてくる。
ただ生きてほしいと愚直に伝えてくる好意が、じんわりと胸に染みこんでいく。
「お姉さんは……残酷な人だね。どうしようもなく、傲慢で大げさで押しつけがましくて……
「よく言われる。うん、悪癖だと思うんだけど――参ったな、でも前言撤回はしたくないよ。だってわたしは、リザに生きてほしいんだ」
リザは目を閉じた。まぶたの裏を弟たちの在りし日の姿が通り過ぎる。この手で射殺したGCIの同僚の顔を思い出す。〈イノーマス・マローダー〉が生み出した惨状を忘れられない。
あまりに多くの罪深い経験をしてきた。倫理や道徳の話をするのなら、きっと自分は地獄に堕ちるべきなのだろう。
そして思った。
――死んだってごめんだ、そんな結末。
死にたいぐらいの後悔は尽きない。それなのにリザ・バシュレーは今、どういうわけか、不思議なほどの解放感に満たされていた。
リザは口の端を歪めて、精一杯の笑顔を浮かべた。
「…………お姉さんのこと、好きになれそうですよ」
「なにそれ、今までは?」
「うっすら嫌いでしたね」
「ひどいなあ」
二人そろって笑い合った。そしておずおずと手を伸ばして、エルフリーデの手を掴んだ。
体温のぬくもりがあった。ぎゅっと震える手で握ると、優しく握り返してくれる手指だった。
この差し伸べられた手を、何があっても忘れないと決めた。
――
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