フィルニカ王国へ!
――二週間後、ベガニシュ帝国とフィルニカ王国の国境沿い。
長い長いトンネルを抜けた先に広がっていたのは、荒涼とした風景が広がる山岳地帯だった。赤茶けた山々の表面に、へばりつくように生えた植物が控えめに緑を供しているが、全体として剥き出しの岩石が目立つ。
どこまでも続く荒涼とした大地が、乾いた空の下に続き、人が住まう集落があちこちに点在する。
フィルニカ王国の北部とは、そんな場所だった。
そんな山々の合間を縫うように作られた高速道路を、複数の大型トレーラーが走っていた。
巨大な車体である。大型タイヤを何輪も連ねて自重を分散しているトレーラーは、ちょっとしたホテルの個室のような居住性を備えている。
高性能なサスペンションによってほとんどの衝撃と振動を吸収、内部にはほとんど伝えることがないし、くつろいで座ることができるシートに冷蔵庫まで備えている。
そして何よりこのトレーラーは外装からタイヤに至るまで防弾性能を有しており、重機関銃や対戦車地雷すら防ぐ性能を有している。
まさに陸軍大国たるベガニシュ帝国の技術の粋が集められた貴族の乗り物、さながら自走する城塞である。
しかしながら、ヴガレムル伯領のそれは見た目ほど内部が広くない。
これはこのトレーラーが特注品であり、ホテルの内装めいている居住区が前半分に集中しているためだ。トレーラー後部は壁で仕切られており、後部ハッチを通じて大型の荷物を出し入れできるようになっている。
例えば警備用バレットナイトを土下座するような姿勢で格納しておくことも可能――そのパイロットとして連れてこられたエルフリーデ・イルーシャは、ふかふかのソファーでこれ以上なくくつろいでいた。
このトレーラーの所有者であるクロガネが二度見するレベルでリラックスしている。背もたれに身を預け、ウェーブした栗色の髪をクッションに乗せて、少女はフィルニカの歴史についてのガイドブックを読んでいるところだった。
ちらり、と顔を上げたエルフリーデとクロガネの目が合う。それを待っていたかのように、男は頷き一つ。
「七年前、フィルニカ王国で政変が起きたのは知っているな? タギルカカ国際トンネルは近年、親ベガニシュの体制になってから両国間の協力によって施工された巨大トンネルだ。長年、国境紛争で血を流してきた両国の融和の象徴というわけだな」
「いざというときは爆弾で通行不能にできそうですね?」
エルフリーデの発想はいきなり物騒だった。
多感な十代半ばを最前線の英雄として過ごしてきたエルフリーデ・イルーシャは、さらっとこういうことを言う。
「開通までにかかった時間と費用を思えば、現実になって欲しくはない話だ。とはいえ、ありえないとは言い切れないのがこの国の厄介なところだな」
ベガニシュ帝国とフィルニカ王国の関係は歴史上、決して良好ではない。大陸の三分の二を征服して領土拡張してきた帝国が、大陸南方の地域大国に対してだけ融和的であるはずもない。
ベガニシュ帝国もフィルニカ王国も、先代君主はかなり好戦的だった――帝国のバナヴィア併合は先帝の置き土産だし、フィルニカの先王も国境を引き直そうと度々、ベガニシュ側に侵攻を繰り返している――ので、それはもう千年以上、何かあれば衝突してきたと言っていい。
ここまで長い間、両国が衝突を繰り広げながらも、どちらか一方が他方を支配下に置くような事態になっていないのは地理的要因だった。
大陸を横切るように隆起した大山脈――東西数千キロメートルにも渡って峻厳な山々が続く――が、戦争を小規模なものに留め、文化的交流を断絶させ、ベガニシュ側とフィルニカ側にそれぞれ独自の文化圏を芽生えさせたのである。
そういった歴史的経緯を思えば、フィルニカ側で政変の一つも起きれば、国際トンネルは封鎖されてもおかしくない代物だった。現在、ベガニシュ帝国に戦争を起こす余力はないからいいものの、余力を取り戻せば侵略してきかねない、という見方もあるのだ。
ともあれ、それをバナヴィア人の少女――人生の大半を被征服民として過ごしてきた――に告げても仕方がない。
あるいはこの旅が何事もなく終わり、彼女にとって楽しい旅行になってくれればいいのだが。
そんなことを思っていると、エルフリーデは向かいの席に座るクロガネ――二人はテーブルを挟んで座っている――に対して、ずいっと身を乗り出してきた。
「――クロガネ、わたしは二週間でフィルニカ語をマスターしたわけです。どうですか、ちょっと褒めてください」
事実である。
正直なところ、二週間ではガイドブックの付け焼き刃の知識と、ちょっとした挨拶ぐらい覚えられれば上出来であろう。
しかしエルフリーデは意外なほど言語に対する高い適性を見せて、あっという間に発音と聞き取りを習得してしまった。フィルニカ語の読み書きの方は覚えている途中だが、少なくとも日常会話ぐらいならボロを出さない水準である。
彼女がバナヴィア育ちであることを考えれば、これでバナヴィア語・ベガニシュ語・フィルニカ語の三ヶ国語を操れるようになったわけだ。
長命であるがゆえに多言語を操れるクロガネとは事情が異なる。いくらエルフリーデが才気あふれる十代の少女と言っても、ここまで習得速度が速いのは異例だった。
「ああ、素直に賞賛しよう。二週間で外国語を習得するのは一般的に至難の業だが……電脳棺による言語補正機能の影響だな。エルフリーデ、お前は日常的にバレットナイトに搭乗する中で神経組織のレベルで物質の情報転換に適応している。その影響は神経結合のアーキテクチャにまで及び、汎用インターフェースである電脳棺と同等の言語処理能力を備えたと考えられる。今のお前の状態を名付けるならば、一種の超人化と言ってもいいかもしれん」
クロガネとしてはエルフリーデの特異性を褒め称え、同時にその理由を推測したつもりだった。
だが、驚異的なまでに話が長い。そして言い回しが回りくどい。ここまで話が長いと嫌味の一つも言われているのかと勘違いしそうになる。
これはもうクロガネの持病なんだろうな、と思いながら、
「わたしがすごいのはバレットナイトに乗ってた副作用、まではわかりました」
「……ああ、その通りだ」
クロガネはちょっと困っている。
これで事実誤認があるなら馬鹿正直に訂正してくる男なので、エルフリーデ・イルーシャの理解が間違っているわけではないらしい。
エルフリーデは樹脂製のグラス――急停車の時に割れて破片が飛び散るのを防ぐためだ――から、ミネラルウォーターを飲んで口を湿らせた。
「実は副作用で身体が崩壊して死に至る……とか精神がおかしくなって死ぬ……とかのよくない展開ならすごく嫌ですが、そうじゃないならもっと普通に褒めてほしいです」
「念のために聞いておくが――小説か?」
「寿命の残り少ない中での恋愛は王道ですからね。極限環境が愛を育てるんですよクロガネ、ご存じなかったんですか?」
「ああ、小説の中ではそうだろうな……」
ふふん、とエルフリーデは胸を張る。
やたらと自慢げだった。
「わたしは恋愛のプロですからね! 過ごした青春の数は一千を超えるでしょう……! その中にはもちろん、余命幾ばくもない二人の恋情を
「まだその設定が生きていたとは驚きだ。俺は時々、お前の正気を疑いたくなる」
「はっ?」
いきなり直球の罵倒が飛んだ。エルフリーデはじろりとクロガネを睨んだ。赤い瞳にじっとりと見つめられ、黄金瞳の男は気まずそうに目を逸らした。
妄言をフルスロットルで投げつけていた少女に、ものすごい勢いで失言を投げ返した男。
なんとも言えない状況であるが、喜劇的であることだけは確かだった。従者のロイ・ファルカはトレーラーの運転席にいるので、二人の間に入ってくれる第三者はいない。
別にクロガネは自分が間違っているとは思わないため、特に謝罪はしなかった。代わりに話題を入れ替えるように、男は言づてを思い出した。
「ああ、それと……ティアナ・イルーシャから伝言だ。『お土産もいいけどまずは無事に戻ってきてね』、だそうだ」
それを聞いた瞬間、半眼になっていたエルフリーデの顔がふにゃりと崩れた。それはもう、だらしがないと言ってもいいぐらいに相貌がゆるんでいる。
そして姉心を刺激されたのか、目頭を押さえ始めた。情緒不安定すぎるが、エルフリーデは如何なるアルコールも薬物も摂取していない。
「ううっ、わたしの妹がいじらしい……可愛すぎる……記念館とか建てられませんか? 英雄エルフリーデ・イルーシャ記念館とかで、ティアナの成長の記録をですね……大丈夫、生まれたときから今日までの写真はばっちりヴガレムル伯領まで持ってきたので……」
何もかも大丈夫ではない。
正気を失った独裁者みたいな発想だったので、クロガネ・シヴ・シノムラはやや引いた。
これが
「エルフリーデ、お前の発想すべてが間違っていると言わざるを得ない――ああ、あえてこう言おう――発想が気持ち悪い」
もちろんエルフリーデはキレた。
「この想いを否定するなら……この世界は間違っている……!」
姉心、人類に通じず。モンスターペアレントならぬモンスターシスターである。
そんな複雑怪奇な状況になっているトレーラーの中に、運転席から無線が入った。金髪碧眼の従者ロイ・ファルカの声が、スピーカーから聞こえてくる。
『旦那様。カリダ高原に入りました。あと十五分ほどで目的地に到着するかと』
「ああ、わかった。そこで顔合わせになるだろう、安全運転で頼む」
『承知致しました』
会話が途切れ、少しだけ正気を取り戻したらしいエルフリーデが、不意に問うた。
「そういえばついてきてる車には誰が乗っているんですか?」
クロガネはこともなげにこう言った。
「ああ、皇帝陛下の使いが乗っている」
エルフリーデは真顔になった。
そして自分が例によって政治的な事案の渦中にいることを意識して、虚空に目を泳がせるのだった。
呟きは切実だった。
「か、帰りたい……!」
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