竜殺し
――ミリアムをここで殺してしまうかもしれない。
そういう覚悟を持った上での冷酷な宣告だった。
エルフリーデとミリアムの空中での鍔迫り合いは長くは続かなかった。〈アシュラベール〉の倍近い体躯を持った大型バレットナイトである〈シュツルムドラッヘ〉は、近接戦でのパワーとスピードでも深紅の悪鬼を凌駕していた。
眼下の地上から通信が入ってくる。すでに〈アシュラベール〉と〈シュツルムドラッヘ〉は、地対空ミサイルの格好の餌食になる距離と高度を飛んでいた。
『〈アシュラベール〉、こちら防空ポイント。これより地対空ミサイルを発射する。こちらからでは君の識別ができない、今すぐ敵機から離れてくれ』
「こちら〈アシュラベール〉、構わず撃ってください」
『……了解』
互いがロケット推進とジェット推進で加速し、その勢いをブレードに乗せた空中での剣戟は、足腰を地面に接地させての剣術とは根本的に術理が異なる。
ここで必要とされるのは、精密な身体制御や体幹のブレを抑えての間合いの読み合いではない。
推進装置が生み出す加速と推力制御による軌道変更、そしてそれによって帯びた運動エネルギーの総量、慣性の法則と重力の影響を考慮して、未来の自分の位置を認識し、相手と最も接近するタイミングに合わせて刃を振るう。
ある種の航空力学的素養すら要求される異常な空中剣術――エルフリーデ・イルーシャは自身の斬撃が防がれたのを見て取って、すぐに腰のスラスターバインダーを正面に向けた。
電気熱ジェット推進装置が逆噴射の炎を吐き出し、一瞬、〈シュツルムドラッヘ〉の目を潰した。
そうして〈アシュラベール〉が機体が落ちていく方向を調整した刹那、白銀の竜の背中の翼が、砲身のごとく伸びてくる。
――白熱光。
熱線が〈アシュラベール〉のすぐ横を通り過ぎて、その背後――はるか下方に位置する大地を焼き尽くす。プラズマ化した土砂が凄まじい閃光を放ち、夜空を飛ぶ二機のバレットナイトを照らし出していた。
粒子ビームの連続照射が始まっていた。
空中で爆発が生じた。
凄まじい光の渦が空を切り裂き、ヴガレムル伯領の防空陣地から発射された地対空ミサイルを全弾、消滅させていた。
あまりにも圧倒的な火力が、航空機に対する防空網の優位性を打ち消していた。
強烈な光は〈シュツルムドラッヘ〉の両肩二箇所から放射されている。機動兵装翼に内蔵された熱線砲が、エネルギーのチャージを終えて解き放たれたのだ。
とても機体正面にいられる状態ではなかった。
エルフリーデは即座に〈シュツルムドラッヘ〉の死角を取るべく、左腕から伸びたワイヤーブレード――竜の左脚に巻き付いている――を軸にして旋回を試みた。
だが、その隙を見逃すミリアムではなかった。邪竜はその前脚に備えた五本の爪を横凪ぎに振るい、ワイヤーブレードを切断しながらこちらに突進してくる。
熱線砲の連続照射の反動に襲われているはずなのに、敵機は異様なまでに速かった。
粒子ビームの照射範囲に入るか、まともに敵の斬撃を受けるかの二者択一だ。結局エルフリーデは支払う代償が一番少ない選択肢を選んだ。
――爪が襲ってくる。
五連装
爪と刀が互いを弾き、火花が散った。
だが地面の上のように押し合いになることはない。
空中での鍔迫り合いとはすなわち運動エネルギーのぶつけ合いであり、より質量の大きい側が一方的に有利な勝負なのだ。
『エルフリーデッ! あなたは――!』
瞬間的に大推力を得られる〈アシュラベール〉側が仕掛けたならまだしも――後手に回った今、身長四・五メートルの鎧武者では全長十メートルの邪竜に対してあまりに不利だった。
全身の駆動フレームが衝撃に震える。
直接、〈シュツルムドラッヘ〉の爪撃を受けた左の剣が、指からすっぽ抜けて明後日の方向に飛んでいく。
深紅の悪鬼が帯びていた運動エネルギーが、白銀の竜のそれと相殺され、勢いを失った互いの機体は重力に引かれて落ちていった。
――黒い結晶の塔〈ケラウノス〉の根元へと。
粒子ビームの照射軸がズレて、熱線が〈ケラウノス〉の表面に浴びせかけられる。爆発はない。遺跡そのものである〈ケラウノス〉の砲身部は、この時代に製造された熱線砲の出力程度ではびくともしないようだった。
深紅と白銀の機影が、折り重なるようにして斜めに傾いだ塔に落ちていく。激突する寸前で、互いの機体が逆噴射をかけた。圧縮されたエーテル粒子と高温の大気がそれぞれ推進剤として吐き出され、急激な減速が行われる。
凄まじい減速Gに耐えられたのは、第三世代バレットナイトとして〈アシュラベール〉が特別、頑丈に設計されていたからだ。もしわずかでも耐衝撃性に欠けた電子部品が使われていたなら、たちまちに破損し、機能不全を起こしていただろう。
刃と刃を打ち合わせていた二機のバレットナイトは、弾かれるように離れながら黒い巨塔の上に着地する。
直線距離にして三十メートル、下方に〈シュツルムドラッヘ〉が、上方に〈アシュラベール〉が落ちた。
――着地の衝撃。
――破損警告のエラーメッセージが数え切れないぐらい。
もし生身の人間が搭乗していたなら衝撃で即死していたであろうダメージ。互いの機体の操縦インターフェースに、駆動フレームの不備を訴えるメッセージが表示されていた。
だが、より受けた損傷が深刻なのは〈シュツルムドラッヘ〉の方だった。
近接強襲戦を前提として作られた〈アシュラベール〉は、衝撃を駆動フレームが吸収し破損してでも電気熱ジェットエンジンを保護するよう設計されている。
しかし脚部そのものがエーテルパルス・ロケットエンジンであり、着陸機構が足首としてついているに過ぎない〈シュツルムドラッヘ〉は、このような衝撃に備えられていなかった。
その脚部で小さな爆発が起きた。左脚部のエンジンの一つが、とうとう内部の圧力に耐えかねて爆ぜたのだ。
「ミリアム、君の目的はもう達成できない。降伏してくれないかな?」
こちらは機体パラメータの半分がイエローゾーンになっているが、向こうはとっくにレッドゾーンのはずだった。
エルフリーデの目から見ても、白銀の竜は全盛期の姿からはほど遠い。そのメインエンジンたる六つの推進器を束ねた脚部エンジンは、今ではもう、高空を飛び回れるほどの推力を生み出せない状態だ。
片翼をもがれた白銀の竜は、辛うじて無事な五基のエーテルパルス・ロケット推進装置で浮かび上がり、
『エルフリーデ・イルーシャ、あなたを……殺します』
「できると思う?」
『――舐めるなッ!』
〈シュツルムドラッヘ〉が機動兵装翼を展開する。両手に装着された三十ミリ機関砲ポッドを構える。
砲火の嵐。
広域に散布射撃される三十ミリ機関砲弾の嵐に紛れて、二門の熱線砲が発射された――眩い光の渦が、進路上のすべての物質を昇華しながら迫り来る。
エルフリーデはその攻撃に対して、あえて後退することを選んだ。普通に考えれば、粒子ビームの射角から逃れるためにも接近すべき――もちろんこれ自体が正気の沙汰ではない――だった。
脚部関節と人工筋肉が破断しないことを祈って、黒い塔の表面を蹴りつける。
正面方向に向けられた電気熱ジェット推進機構が、偏向ノズルから推進炎を噴く。
高速で滑るように後退していくエルフリーデに対して、ミリアムが選んだのは前進だった。理由は簡単だ。度重なるエルフリーデ機による近接戦と、落下時のダメージによって〈シュツルムドラッヘ〉の射撃精度は深刻に低下している。
粒子ビーム連続照射時の反動を相殺するための推進装置も、機動兵装翼の片翼を断ち切られたことで失っている。
そして射撃時の反動を駆動フレームが吸収しきれなくなれば、当然、射撃にはブレが発生し有効射程距離は大幅に下がる。
この状態で逃げ回るエルフリーデ・イルーシャを破壊するのは不可能に近い。しかも少しでもエルフリーデから目を離せば、得体のしれない攻撃で撃破されるのは〈シュツルムドラッヘ〉の側だった。
常に射線の中にエルフリーデ・イルーシャを捉えて、火力で圧殺する。
そういう意図の元、ミリアム・フィル・ゲドウィンは白銀の竜を前に進めた。
だが、そういう冷静な判断と裏腹に、銀髪の少女の口からこぼれ落ちたのは、未練ともつかない複雑な愛憎だった。
『あなたならば、ベガニシュ帝国を導く英雄になれた! ベガニシュ人も! 貴族も! 男女の規範も! 何もかも打ち破って! 新しい
熱線砲が黒い巨塔の表面をあぶる。爆発こそ起きないものの、熱せられた大気によって周囲の景色が歪むほどの高熱が生じていた。
その火線を危うげなく避けながら、ジェット噴射で後方に飛び退るエルフリーデは悲しげに呟いた。
「わたしは――きみが思うような英雄じゃない。その息苦しさは、きみの息苦しさだよ」
『あなたは英雄だ! その責任から、背負った栄光から逃れることはできない!』
「そうだね、わたしは身勝手なのかもしれない。帝国の守護者も、民族解放の英雄も、わたしには無理だ」
熱線砲の照射が止んだ。連続照射のインターバルに突入したのだ。
ミリアムはほとんど悲鳴じみた声音で、憧れの人/理想そのものである英雄の独白を拒絶する。
それは泣き叫ぶような言葉だった。
『誰も! 何も! 救ってはくれなかったのにっ! 今さら誇り高く生きろなんて、ひどい押しつけ――』
古代文明が建造した超巨大熱線砲である〈ケラウノス〉は、その砲身だけで二千メートルの長さがある。
後退する〈アシュラベール〉と追いかける〈シュツルムドラッヘ〉は、言葉と砲火を交わしながら、確実にその終端部に向かって塔を登っていた。
角度七十度の急斜面――ジェット推進の火焔を追いかけて、エーテルパルス・ロケット推進の燐光が矢のように突き進む。
『――あなただってそう思ったはずだ、違いますか!? 適性検査で高い数値を出した、それだけで徴兵されて! バレットナイトに乗せられて! 英雄に仕立て上げられた! そんなあなたが、苦しくなかったはずがないっ!』
「わたしは――ただのエルフリーデ・イルーシャでいたかった。父さんと好きな本の話をして、母さんの手伝いをして、ティアナの勉強を見てあげて――そんな日常があればそれでよかった」
浴びせかけられる三十ミリ機関砲弾を弾いてきた光波シールドジェネレータが、とうとう負荷限界に達して機能を停止する。
エーテルパルスのエネルギーバリアが消えた瞬間、三十ミリ機関砲弾が直撃する。〈アシュラベール〉の両肩から砕け散った光波シールドジェネレータが脱落した。
もう次はない。
「だけどさ、ミリアム」
電磁誘導で加速され撃ち出される三十ミリ機関砲弾は、炸薬式大口径戦車砲にも匹敵する威力だ。バレットナイトの正面装甲ならば、あるいは耐えられるかもしれないが、どのみち動きが止まれば熱線砲を照射されて終わりだ。
深紅の悪鬼はとうとう、急斜面になっている塔の表面を登り切った。
一拍遅れて白銀の竜もそれに続き、そして――深い深い奈落のごとき穴へと落下する。
「――そうはならなかった。わたしは〈剣の悪魔〉で、きみは伯爵家の令嬢で、こうして殺し合ってる」
それはこの斜めに傾いだ塔、長大なる砲身に空いた砲口――直径百メートル、深さ二千メートルにも及ぶ
それまで〈ケラウノス〉の表面を滑るように推力任せに駆け上がっていた両機は、突如、自由落下する羽目になった。
しかもこの縦穴は七十度の角度で傾いでいるから、自由落下に任せていれば壁面に激突してしまうし、推進器を噴かしすぎても壁面に激突することになる。
『くっ!』
焦るミリアムだったが、身長八メートル、全長十メートルにもなる〈シュツルムドラッヘ〉にとってこの奈落の穴は狭すぎた。
航空機的な運用を目指した結果、直線スピードを重視した白銀の竜は急激な減速を可能とする機構を備えていない。
推力を生み出すエーテルパルス・ロケット推進を全開にして機首を上に向け、
電気熱ジェット推進機構による瞬間的大推力、弾丸じみた突撃だった。
「――遅い」
『うぁああぁあ!?』
激突の衝撃で、がくん、と白銀の竜の高度が落ちる。
〈アシュラベール〉は〈シュツルムドラッヘ〉の背中に飛び乗ると、左手に握った対装甲ナイフ・スティレットを振り下ろした。
先ほどの激突で超硬度重斬刀を失い、指が何本か折れ曲がった左手――辛うじてナイフ程度の重量物なら保持できる状態のそれが、刃渡り八十センチの超振動ブレードを突き立てる。
竜の尾、全長十メートルの大型化した機体設計の元凶たる副推進機構リパルサーエンジンにナイフが突き刺さり、同時に、超振動モーターが起動する。
バレットナイトの装甲が砕け散る。
甲高い悲鳴のような鳴き声が響き渡り、斥力による抗重力場発生装置が、内側から爆ぜるようにしてその機能を失った。
斥力の暴走。
リパルサーエンジンを構築していた未知の構造体が砕けて、パチンコ玉のようにその破片を周囲にまき散らした。
まともにそれを浴びた〈アシュラベール〉が、そして機体容積の半分が内側から砕け散った〈シュツルムドラッヘ〉が、球状に膨れ上がった斥力場に弾き飛ばされた。
エルフリーデ・イルーシャは電気熱ジェット推進機構を最大出力で動作させ――その吸気ファンが異物を吸い込み、異音を立てて壊れていくのを聞いた。
しまった、このままでは壁に激突する。
接触の瞬間、迷わずにエルフリーデは左腕を犠牲にした。強度的に優れた腕部のフレームが、全身が砕けてもおかしくないほどの衝撃を吸収する。
肘関節から先がねじ切れた。人工筋肉が裂けて、駆動フレームが玩具みたいにバラバラになって。
肩関節部分に異常が発生し、人間でいう脱臼状態になって左肩が動かなくなる。
そうして腕一本を犠牲にして、〈アシュラベール〉は壁に激突することを回避した。
ゴリゴリと装甲が擦過音を立て、火花を散らしながら角度七十度の斜面を滑り落ちていく。
バレットナイトの制御中枢、物質を情報化して格納する電脳棺に対していくつもの警告メッセージが表示される。
――許可されていない侵入者を感知。
――警備担当者はただちに迎撃を開始してください。
――事象変異バレル内の職員は三十秒以内に退避してください。
頭上では何らかの警備機構が動作したのか、光波シールドジェネレータと同質のエネルギーバリアが展開されている。
これで来た道を戻ることはできなくなった。
ジェット推進機構を失った〈アシュラベール〉は、急斜面を滑落していくことしかできない。
『――逃さない』
ごおっ、と目も眩むような光が見えた。それは推進炎。エルフリーデ・イルーシャは右手に握った超硬度重斬刀を構えた。
下方から凄まじい速度で白銀が迫ってくる。
それは最早、残骸と呼ぶほかない何かだった。下半身はリパルサーエンジンの崩壊によって砕け散り、内部構造と思しきケーブル類をはらわたのように垂れ下がらせて。
上半身とそれに付随する左翼のエーテルパルス・ロケット推進装置だけで、壁面に機体を砕かれながら――邪竜の残骸が迫り来る。
火花を散らしているのは、右腕の
輝かしい英雄に焦がれて、呪うように自身の痛みを泣き叫んで。
『――お前が悪いって誰もがのたまうっ! お前が兄様を傷つけたんだって! でもそんなの嘘っぱちだ! 殺したいほど憎む理由が、そんなくだらない理由でいいはずがないっ!!』
エルフリーデは何も応えない。
どんな言葉を言ったところで慰めにもならない。あの日、左目と左頬に負った傷跡と引き換えに、少女は貴族令嬢を死地から救った。
だが、考えてみれば当たり前の話なのである。
肉親から殺意を向けられて、何も感じないほどミリアム・フィル・ゲドウィンは薄情な子ではなかった。
彼女がエルフリーデに救いを見いだし、またその選択に裏切られたと感じたとしても――それを理不尽だとは思えなかった。
少女はただ、祈るように想いを口ずさんだ。
「ミリアム、わたしはさ。ベガニシュ人とか、バナヴィア人とか、貴族とか、平民とか、そんなのどうでもよかったんだ。ただ、きみとわたしの妹が、一緒に笑ってお茶を飲めるような――そんな夢が、叶えばいいと思ってる」
そして壁面を蹴った。
自由落下で加算された速度と跳躍による加速を乗せて、下方から迫り来る白銀の竜との相対速度は十分。
右手に握った超硬度重斬刀を、すれ違い様に叩きつける。
「ミリアムは、わたしの友達だから」
『えっ――』
刃が邪竜の首を刎ねた。片翼の竜の翼を根元から叩き切る。
胴体だけになった竜の残骸は推力を失って内壁に激突、そして失速して――そのまま斜面を転がり落ちていった。
〈アシュラベール〉とすれ違う刹那、ミリアムを宿した竜はうめくように呟いた。
『…………私は、あなたのように……なりたかった……』
宙に手を伸ばして、〈シュツルムドラッヘ〉の残骸は落ちていく。
エルフリーデ・イルーシャは瞑目するように、あの最後の攻撃の瞬間を
刃があと三十センチほどずれていたら、
たぶん自分は今、ミリアムを殺してしまうところだった。こんな風に人殺しを割り切れてしまうのが英雄だというのなら、やはり自分は、そんなありよう好きになれない。
〈アシュラベール〉と一体となったエルフリーデは、ただ別離の言葉を投げかけた。
「さようなら、ミリアム……いつか、また会おう」
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