働く者の手 V.1.1

@MasatoHiraguri

第1話 汗水流して働く人間の「魂を持つ手」

私が在日韓国人I先輩のどんなところに「ほかの人にない存在感」を感じたかといえば、ケンカや日本拳法の強さではありません。ケンカでも日本拳法でも柔道でも野球でも、或いは学校の成績でも、優秀な人というのはいくらでもいるものです。

大学1年生の時の新歓で、初めてお会いした先輩に着目したのは、その手でした。

嘘やはったりのない、真剣味のある手です。大学日本拳法時代、多くの仲間と過ごし、新歓や納会でたくさんのOBにお酌するといったなかで様々な手を見てきましたが、I先輩ほどの現実感・緊張感のある手はほかに見ることがなかった。たとえ「偉いOB」であっても、彼らの年齢や肩書きの裏付けとはなりがたい、存在感のない貧相な手ばかりです。

「目は口ほどにものを言う」と言いますが、私は高校卒業後、予備校が始まるまでの期間、アルバイトで働かせて戴いた職人の親方の(武骨な)手に感心して以来、人(特に男性)を見る時には、その手を観察するようになりました。この方はタイル屋の小僧から一代で、職人数十人を抱える親方となった方でしたが、がっしりとしたゆるみのない緊張感のある手をされていました。親方の人生というか境涯が、その手に(如実に)現れていると感じました。

車の助手席に座り、運転する親方の「存在感・現実味のある」話に、それまで経験した学校でのお勉強や知識とは次元の違う世界を見、その話を裏付けるかのような存在感のある手が、私の脳裏というか心に焼き付けられたのです。

大宅壮一氏(1900~1970)は「(40歳を過ぎたら)男の顔は履歴書である。」という名言を残されましたが「人の魂を表すのは手である」と、私は思います。

たとえば、(その商売上)魂の存在を実感することのできない禅坊主は、みな女のような「か細い」手をしている。少なくとも私の禅坊主時代に見た数百人もの坊主に、I先輩のような存在感のある(魂を感じさせる)「男の手」を見たことがない。

まあ「張りつめた魂」で生きていない人間というのは、お気楽坊主にしても暢気なサラリーマンにしても、緊張感のない「ゆるい手」をしているものなのです。

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