笑い話

つばさ

第1話笑い話

 ミサキは夜の公園で1人、ベンチに座りため息をついた。時刻は深夜の11:00、若い女性がたった1人でいるには危険な時間だったが、彼女はそんなことは気にもならないのか、身体をベンチの背にあずけて惚けたように空を見上げている。

(今日も夜中まで仕事して、明日も夜中まで仕事して…私何してるんだろ)

 ミサキには夢があった。図書館の司書になって、生涯本に囲まれて過ごすという夢だ。その夢を叶えるためにミサキは通信制の大学に通い、司書の資格を取ることを目標にしていた。

 だがその資格を取るには、最低でも2年の歳月がかかる。その間家の家賃や学費を稼ぐためにも、仕事をしなければならないのは当然の話だった。

 ミサキは社会に向いてない。遅刻や無断欠勤はなく真面目に働きこそするものの、まず人と関わるのが苦手であり、焦りやすいためミスが多く、止めに興味関心が本一つという極端な性があった。

 ニュースや人、食べ物や着ていく服、ミサキは全くといいほどそれらに関心がなかった。そのため誰とも話が噛み合わず、しかも本人もそれを問題にもせず改善しようともしないので、延々と気まずい関係が続く。

 ミサキの人柄は生きていけないほど致命的ではないが、社会との噛み合わせは間違いなく悪かった。

 ずっと向いていないとわかっていながら社会で生きる日々に、ミサキは疲れていた。

 ミサキが明日のことについて考えながら、空を見上げていると、違和感に気づいた。月の方から何か、まばゆい光を放つ物が落ちてくる。それも真っ直ぐにミサキの方へだ。

 近づいてくると、それが落ちてきてるのではなく、降りてきていたのがわかった。そのまばゆい光を放つ者は、背中に鳥のような対の翼をつけて右手に白い剣を持っている。金の髪を腰までたなびかせ、花を愛でるような優しげな視線で、世界を見渡していた。頭の上には光り輝く輪を浮かせ、身体には細かな装飾が施された上下ともに白の服を纏っている。

 その者は穏やかな微笑みを浮かべながら、空を滑空しミサキの元へと向かっていた。その姿は聖書で書かれる天使の姿そのものであり、ミサキは目の前の光景が現実のものか、何度も心中で疑わなければならなかった。

 天使は地面に降り立つと、ミサキへ丁寧にお辞儀をし、目の前の光景が理解できずあたふたしてるミサキヘ口を開いた。

『初めましてミサキさま。私はフィクンと申します。この度はあなたさまにとって重要な話があり、それを伝えるために参りました』

「……」

 ミサキは黙っていた。言いたいことがなかったわけではない。まず何から聞けばいいのかを決められなかったのだ。彼女が悩んでいる間に、天使は再び口を開いた。

『あなたさまには、異世界へと転生する権利があります』

「……異、世界?」

『はい。あなたはここではない別の世界で、もう一度産まれ直すことができるのです。あなたの希望さえあれば、今すぐにでも連れて行きましょう』

 異世界。転生。これはまたずいぶんと俗な単語だなと、ミサキは思った。あなたを別の世界に連れて行きますだなんて文句は、本屋のキャッチコピーで腐るほど見た。

 言った相手がただの人間なら、ミサキは無視していた。だが目の前の相手は空をかけ光り輝く輪を持った本物の天使そのものだ。話の内容が全て虚言だとは思えなかった。

「あの天使さま…聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」

『はい。どうぞ』

「生まれ直すことができると言いましたが、それは主がいる天の国のことですか?」

『いいえ。剣と魔法の世界です』

「……わかりました」

 ミサキは1人頷き、目の前の高潔で、清廉で、神聖さが全身から溢れ出ている男を改めて見つめた。

 ミサキは思う。この人はどう見ても私よりも偉く立派で、主のそばに控えていてもおかしくない貫禄がある。だが発言がバカだ。もしこの男が本物の天使なら、主以外の場所へ人を連れていくとしたらそれは煉獄以外にあり得ない。

 こいつはきっと、天使のふりをした恐ろしい悪魔に違いない。私を上手い話で誘って、地獄へ連れ込もうとしているのだ。それかもしかしたら、こいつはイタズラ好きの妖精なのかもしれない。不思議の国へ連れて行って、私をオモチャにして遊ぶつもりなのだ。ああどちらにせよ、話を間に受けたら酷い目にあうだろう。

「帰ってください。私は転生なんて興味ありません」

 ミサキは天使をゴミを見るような冷たい目で見つめながら、その脇を通り抜けた。それがよっぽど意外だったのか、天使は慌ててミサキを追いかけた。

『待ちなさい人の子よ。あなたはその性根の悪さから両親から見放され友達を失い、社会からもはみ出し者として扱われる天涯孤独の存在だ。おまけに日々を生きるための貯蓄もないため、心を潤わせる数多の芸術を味わうこともできない。この現世で味わうのは苦しみばかり、なら次の世界に希望を持ち旅立つことは、あなたにとって救いになる話ではないですか』

「……お前は何もわかってない」

 ミサキは敬語さえやめて、天使を軽蔑の目で見つめた。

「私は確かに、あまり上手く生きてこなかったよ。もう30にもなるのに、定職にもつかずバイト暮らしで、いまさら大学に通ってる。両親とも友達とも連絡を取らず、社会からは陰険なやつって扱われているよ。でもそんなことはどうでもいいことなんだ。私にとって大事なことは、私が私の目標に向かってちゃんと進んでいるかどうかなんだ。叶えたい目標があれば、私は不満と苦痛だらけの現実でも、希望を持って生きていける。私はこの苦痛しかない世界で、自分のやりたいことを見出して、自分の悩みに向き合って、自分の意思で生きている。それなのに、ここには苦しみばかりしかないとか、別の希望のある場所に行ったほうがいいとか、部外者のくせに私に対して救いを説くな」

 ミサキは走り出した。天使が追いかけてきているのが足音でわかる。ミサキは目の前の信号が青であることを確認して、走るペースをあげた。

 横から強い光がやってくる。横を向くとそこには、一台の大型トラックがミサキに向かって、猛スピードで突っ込んできていた。

 やかましいクラクションと、タイヤが地面を擦る耳がゾワゾワする嫌な音、そして何かが地面を転がっていくカランカランという空虚な音が響いた。音が鳴り止んでからほんの少し後、道路の真ん中には血で染まった、1つの肉塊が転がっていた。

 



「いやーまたトラックによる人身事故ですか」

「名前はミサキさんね」

「また飛び込みですかねー」

「またって、前にもあったのか?」

「知らないんですか?最近多いんですよ。転生モノ小説っていうのが若い人の間で流行っているんですけど、その中で『トラックに引かれると異世界に転生できる』なんてふざけたジンクスがあるらしくて、それを真似して飛び込む若者が増加中だとか」

「ゲーム病の次は転生病か…いやでも、このミサキさんがそうだと決まったわけではないだろう?」

「いやでも彼女、親とも友達とも縁が切れてたみたいなんですよ。あ、彼氏もいませんね」

「へー。いやでも、1人でも人生は楽しめるじゃないか。死ぬほどじゃない」

「いやでも彼女、お金も持ってなかったみたいなんですよ。そのくせ見えのためか大学には通っていたみたいなんです。バイト通いと勉強づくめの毎日に、嫌気がさしていたんじゃないですか?」

「へー。いやでも、人も金もなくても、趣味があれば」

「いやでも彼女、部屋の中には最低限の家具のほかには、本しか置いていなかったみたいです。私は本を読まないですけど、1人で本読んでても楽しくないってのはなんとなくわかりますよ。趣味というのは酒を飲んだりバットでボールをかっ飛ばしたりとアクティブにやるか、インドア系の趣味にしても多くの人と一緒に語らえる楽しいものでなくちゃね」

「それはそうだ。私も本は読まないが、なんとなくわかるさ。1人で本を読んで、何が楽しいものか。ということは彼女、人生を生きる楽しみが全くなかったわけだ」

「そうです」

「それで人生に嫌気がさして、か」

「馬鹿馬鹿しい話です」

 道路の真ん中に、血まみれになった肉塊を鼻で笑う男が2人いた。この後すぐに彼女が飛び込み自殺をしたわけではなく、運転手がよそ見をしたことによる衝突事故であったことも、彼女が必死に勉強をして司書になろうとしていたことも証明されました。

 しかし2人の男にはわかりませんでした。彼らにとって人生は楽しむものです。彼女がしていたこと、わざわざ勉強してまで本ばかりの場所に行こうとすることは、彼らの目には酷く馬鹿らしいことに思えたのです。

 なので彼らはなおも、『彼女は異世界転生がしたくてトラックにぶつかりにいったのだ』という意見を変えず、その話題で大いに盛り上がりました。けれど次第に飽きて、最後にはミサキという名前さえ忘れてしまいました。

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