天下静謐

冬海真之

第1話  朝倉氏館の義昭

「十兵衛」と、少し甲高い声で呼ぶ声が聞こえる。声の主は、足利義昭である。

「なんでござりましょう」と、明智十兵衛光秀が応える。


「朝倉義景殿を頼り、越前まで参ったがいっこうに埒が明かぬ。朝倉は、近江の六角がどうの、越前が、上杉がどうのと、のらりくらりしよって、いっこうに予の上洛の勤めをはたそうとはしない。余は、将軍と成る身であるぞ。皆は守護ではないか。矢島では、上杉、畠山、毛利、六角らに内書を発し、上洛するよう命じたが、いっこうに、誰一人として腰を上げようとする者がない。ぜじゃ」


「いずれの御方々も、周りの様子をうかがっているのでは。いやまた、自国の事で手一杯とか」と、光秀。



義昭は、天文六年十一月三日。

父である十四代代将軍足利義晴と母近衛尚通の娘との間に次男として京で生まれた。兄は第十三代将軍となった義輝である。知るとおり、義輝は永禄八年五月十九日に三好一族に襲われ、自ら刀を持ち戦い討死するという壮絶な最期を遂げた。唯一無二の将軍として有名である。


彼は、次男であっため出家し大和一乗院門跡の興福寺で覚慶と名乗り仏門に入り、権少僧都にまで栄進していた。


兄の死の報を聞いた彼は、細川藤孝をはじめとする奉公衆たちに助けられ、近江甲賀衆和田惟政の活躍もあり、興福寺を脱出した。そして、永禄九年二月十七日、近江矢島御所で還俗し義秋となった。


四月、吉田神社神主兼右の計らいにより、朝廷から隠密に従五位下左馬頭の官位が受けられた。左馬頭は次の将軍職を示している。


しかし、八月三日に内通により三好の兵3,000が矢島を襲うという方を聞き、矢島で再起を図るようにという和田惟政の諫言を聞き入れず、朝倉義景を頼って越前にむかい出立。やっとの思いで九月九日に越前にたどり着き、越前一乗谷の朝倉氏館に入ったところであった。


しかし、越前に入ったものの義秋にとっては何の進展のないまま、永禄十一年を迎えていた。


その二月八日に、三好らが次期将軍に擁立していた義昭の従妹にあたる義栄が、将軍宣下を受けるという事態がおこった。しかし、彼らは彼らで朝廷が求めていた就任要件の銭一万疋が払えず困っていた。


気がはやる中、義秋は、四月十五日に先の関白二条晴良を越前に招いて朝倉館で元服式を行い義昭と改名した。



「そちは、美濃の出であったの」

「さようで」


「尾張美濃を治めている織田信長という者がおるようじゃが、あやつはどうか」

「わが一族は、美濃の守護土岐氏の家系にして、頼朝様以来の幕府の奉公衆でございます。応仁の世依頼、父子、兄弟ともに相対し争いが絶えない中、守護代の長井という者が斎藤と名を変え、後にまむしの道三として、この機に伸し上がり、土岐氏本家を追放いたしました。それ以来、土岐氏一族は散りじりになり申した。われは浪人となり、このようにいま朝倉氏に身を寄せております。その道三が一目置いていたのが、信長でございます。道三はいずれ信長が美濃を治めることを予言し、娘の濃を嫁がせた由に」


「土岐氏は、平安の世より、源頼光の流れ組む由緒ある武士であるのにのう。世の移り変わりは激しいものである。して、十兵衛は信長にも恨みがあるか」


「いえ、さようなことはございませぬ。信長という男はよく知らぬだけでございます」


「では、信長にも文をだそう。惟政が信長を頼るのが一番の早道ということをもうしておったのだが、よくこのことを聞かなかったことを後悔しておる。惟政に詫びをいれ信長とを諮るように」と、義昭。


意を受けた明智は、義昭がしたためた文を使者に託し、尾張にいる和田惟政に伝送させることにした。


一方、信長は京への上洛を、次の目標として、着々とその準備を整えている最中であった。


 

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