第19話

「も、もう、いいよ」


 遠慮がちに開かれた扉から、カサブタだらけの顔を少し出して言った。


 やっぱり傷を気にしているのだろう。女の子にとって顔は命って言うしな。


「ああ。お邪魔します」


 罪悪感を感じつつ、再度滝沢の部屋へ入った。


 何も無い部屋のテーブルの上には既に飲み物が用意されていた。矢野さんが遊びに来た時用に使うと言っていた、猫をモチーフにした赤と青のマグカップ。

 テーブルを挟んで対になるよう配置されている。


 この前と同じなら、おそらく赤の方が俺の座り位置なのだろうと理解して腰を降ろした。


「見てないからな」


 遅れてやってきた滝沢は「へ?」と間抜けな声を出した。


 滝沢的には、俺を異性として見ていないから、裸を見られようが見られまいがどちらでも良いのだろう。


『何が?』と滝沢は目で訴え続けているが、なんか負けたような気がするから無視して早速本題に入る事にした。


「スマホ、壊れてんだろ?」


「……あ、うん。雨で壊れちゃった」


「弁償するよ。俺のせいだしな。壊れちゃったの」


「べ、別に誰も私に連絡なんかしてこないし、壊れたままでも大丈夫だよ」


 滝沢なりに必死に笑顔を作ってそう言ったつもりなのだろうが、滝沢らしい、少し不気味さのある笑顔だ。


「そういうわけにもいかないだろ。横島先生だって連絡取れないって心配してたし。それで今日、横島先生に頼まれてここに来たんだ」


「あー、お姉ちゃんね。うん。でも、保険使って直せるから、弁償は本当に大丈夫」


「……そうか。でも、なにか問題が発生したら教えてくれ。なにか書くものある?」


 滝沢は部屋の隅に置かれていた鞄にテトテトと近寄ってフタを開けると、ルーズリーフとシャープペンを取り出して俺に手渡して来た。


 ルーズリーフを一枚抜き取って、スマホの電話番号を書き記し、その上に桐生陽葵と書いてそれを渡した。


「俺の番号。俺の助けが必要になったら連絡してくれ」


「う、うん」


「……」


「……」


 沈黙が訪れ、俺はマグカップに手を伸ばした。

 注がれていたのは、この前と同じ麦茶だった。


 用も済んだし帰るかと言いたい所だけど、俺がここにやってきたのにはもう一つ、目的があった。


 一昨日、一時の感情でしてしまった約束を果たさなければならない。


「そういやさ、この間、矢野さんとの仲を取り持つって約束しただろ?」


「うん」


 俺が何を言い出すのかと、滝沢はオドオドと落ち着かない様子で、俺とテーブルを交互に見た。


 もしかしたら、約束を反故にしようとしているのではないか、と疑うような、それも仕方がないなと思っているようにも見える淋しい目つき。


 もちろん、俺は約束を反故にするつもりなんてない。

 一度した約束を破るほど不義理な男ではないつもりだ。


「まさか、俺があの約束なしななんて言い出すと思ってないよな」


「えっ、あっ……うん」


 対人スキルゼロらしく、取り繕うことなく俺を疑っていた事を滝沢は認めた。滝沢のこういう所は嫌いじゃない。


「ばーか」


 言いながら目を逸らした滝沢にデコピンをお見舞いしてやると、思った以上に強く、ペシンという音が響き渡った。


「あうぅ……」


 慌ててデコピンされた箇所を両手で覆うがもう遅い。痛みはジワジワと広がっていくだろう。


「作戦を考えてきたんだ」


「さ、さくせん?」


 赤くなってしまったオデコをさすりながら、滝沢は呟くように言った。



「今まで滝沢は、恋愛心理学を間違った使い方をしていた。その結果、好感度はマイナスの限界を突破して、ボイジャー一号ばりに宇宙の彼方までいってしまった」


「そ、そんなに!?た、たしか太陽系抜けたんだよね……」


 ボイジャー一号が通じた事には驚きだ。もしかしたら滝沢も、眠れない夜は宇宙について検索したりしているのだろうか。


 もしかしたら思った以上に気が合うかもしれない。


「この世の中が数学だったら、マイナスにマイナスをかけてやれば良い。だけど、そうもいかないだろ。この世界の人間関係に掛け算なんてもんは存在しない。コツコツと積み上げて行くしかないんだ。つまり人間関係を好転させるには足し算しかないんだ」


「う、うん」


「そこで、これだ」


 俺は立ち上がると、本が置かれているカラーBOXの中から一冊の派手な色のカバーの本を掴み取る。


 恋愛心理戦──恋愛心理学を制す者は青春を制す──


 俺の部屋にも存在している、秋斗が置いていった心理学書だ。


 テーブルの上に置いて、あるページを開きそれを滝沢の方へ向けた。


「たんじゅんせっしょくこうか?」

 

「ああ。単純接触効果だ。滝沢も実践していただろ?」


 滝沢はコクリと頷いてみせる。

 しかし、滝沢のそれは、あくまでも使だ。


「滝沢、お前は間違った心理学の使い方をしたとは今でも理解していないよな?」


「う、うん……」


 滝沢は困惑した表情で頷いた。


「正しい使い方を俺が教えてやる」


 前もって、恋愛心理戦──恋愛心理学を制す者は青春を制す──を購入した人々のネットのレビューを念の為確認してみた。星の平均点も高くて、概ね肯定的な意見が多かった。つまり、人生の先輩達の折り紙つきだ。


 だから、俺は独自の解釈を敢えて自信満々に語ってやった。


「単純接触効果ってのは、意図的に、わざとらしく相手と接触するようにしてもあまり意味がない。あくまでも、さりげなく、意図せずに会う頻度を増やしていくことに意味があるんだ」



「う、うん!」


 滝沢にも熱が入ってきたのか、やや前進気勢気味に頷く。


「滝沢がやっていた事と、正反対だよな?」


「そ、そうなの?」


 やはり、滝沢は自分のやってしまった事を理解してい。


 付きまとい。行く先々に現れる。廊下ですれ違う時にわざと道を塞いでみるなどなど、数えればキリはないが、滝沢的には単純接触効果を得られていると思っていた事は間違いなさそうだ。


「そうなんだよ。あくまでさりげなくって言ったろ。例えば、朝会ったら必ず挨拶をするとか、雑談

 をする回数を増やすとかそんな事でいいんだ」


「う、うん。で、でも、どうやればいいの」


「不器用な滝沢には普通にやったら難しいだろうな」


「あう……」


 変な声を出して、机に突っ伏す滝沢は少し可愛く見えた。


「そう落ち込むな。俺に妙案がある。近しい趣味を持ったサークル、または部活を作って、滝沢と矢野さん。その両方を加入かせればいいんだ」


「そんなことできるかな?」


「多分できる。……そうだな、滝沢が謹慎あけるまでにはなんとか形にはしたいと思っている」


「そ、それはすごいね」


「それでなんだが、一つだけ、滝沢にお願いがあるんだ」


 不安そうに眉根を寄せて滝沢は口を開く。


「わ、私に……お、お願い?」


「ああ。謹慎中の暇つぶしだと思ってさ、なんでも良いから、滝沢のを考えておいて欲しいんだ」






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