好きだから、好き
「別に何かを口に入れてもらう必要はありませんよ。例えば灰皿、コースター、それと、そう、グラス……」
いつの間に頼んだのか、
「今言った物のどれかを触って下さい。私は壁を向いてますから」
言ってL字型カウンターの端に座り、回転椅子を回して壁側に体を向ける。
「じゃあ、俺が…」
「あ、飲まなくていいですよ、触るだけで」
と諸月が言い、大悟がそれに頷いて自分のグラスをそっと触る。それを見ていいですよと
「グラス」
と即座に言った。大悟はおおと声を上げたが、その一連の流れを見ていた
「テレビで観たことあるわあ、今みたいなの。それってぇ、触る前に何だかんだと喋って触らせたい物に誘導するのよねえ?」
それを聞いて諸月もあははと笑う。
「バレましたか。でも相手に思ったような行動を取らせると言ったのは嘘ではありません。例えばさっき、グラスを持ってこう動かしましたよね?」
諸月がまた立ち、グラスを右から左へ動かして見せる。
「人は左から右へ流れる情報を正しいと思う傾向があります。だから私から見て右から左へ動かしたグラスは強く印象に残ったと思います。後は触る前に飲むというワードを使ってグラスを意識させる。というように、これはマジックでも魔術でもなく、相手の心理を巧みに突いた結果なのです」
そこで
「それってさあ、ダイゴが単純だからそんな手に引っかかっただけだよな?オレなら絶対にそんな手に引っかからないぜ」
単純はお前だろ
はあ?お前ほど単純バカなやついねーよ
などとまた小競り合いが始まりそうになり、諸月が冬星に手をかざす。
「ではあなたもやってみて下さい」
言って諸月が壁を向く。冬星はちょっと考えた後、灰皿を触り、いいぜと言った。
「では、私の言う後について言ってみて下さい。私はグラスを触りました」
「私はグラスを触りました」
「私はコースターを触りました」
「私はコースターを触りました」
「私は灰皿を触りました」
「私は灰皿を触りました」
一通り冬星に言わせると、諸月はニッと頬を緩ませた。
「あなたが触った物が分かりました。あなたの触ったのは…」
そこで諸月が言葉を区切り、硯徳の位置からも、冬星がゴクリと唾を飲む音が聞こえた。
「灰皿です」
諸月が言うが早いか、大悟がやーいと囃し立てる。
「お前も単純なんじゃねーか」
「く……何でだ?」
悔しがる冬星に、諸月が説明する。
「まずあなたはかなりの負けず嫌いとお見受けします。そして、とても素直な方だ。なので、彼が選んだグラスの可能性はぐっと低くなります。グラスを連想させるコースターよりも灰皿の方が可能性としては高いでしょう。さらに、人はその意志を口や目によく表します。それを見抜くのは多少の訓練を要しますが、嘘をついた時、口調が微妙に揺れたりします。後は口元を舐めたり、必要以上に歯を見せたりとかね。そしてさっき、私は答えを言う前に間を空けました。その時あなたの目線は、灰皿から一番遠いところを見ていたんです。これらの情報から、灰皿と判断したわけです」
ほえ~と大悟と冬星が感心したような声を出す横で、
「ちょっと待って下さい。さっきから心理学の話をされてますけど、あの婚活パーティーの日に、私ずっと違和感を感じてたんですよね。
ゴクリ…と、カウンター三人の喉が大きく鳴った。
いたずらが見つかった子どのように、いそいそと酒を口に運ぶ。大悟、冬星、硯徳の三人は、右側に座る秋穂先生の視線を感じながらも、黙々と酒を飲み出した。秋穂先生がそんな三人の姿にため息をつく。
「私、ちょっとあなたたちを見損ないました。小手先のテクニックを使って、何も知らずに婚活パーティーに参加した人をモノにしようとしてたんですね」
トーンの低くなった秋穂先生の言葉が右耳を貫く。自然に頭が下がってくる三人に、秋穂先生が言葉を被せる。
「もし私が纐纈さんのこと好きでもないのにカップルになるように誘導されたとして、纐纈さんはそれでいいかもしれませんが、私は幸せになれるんでしょうか?望まない相手を無理やり好きになったと思わされて、その先の人生、私は幸せに暮らせるんでしょうか?」
硯徳には秋穂先生の言うことが尤もに思えた。すみません、と素直に謝ろうと口を開きかけた時、
「ちょっと待って下さい。あなたの言うことには一つ、誤りがありますね」
と、諸月が口を挟んでくる。秋穂先生が右席の角に座る諸月に向く。
「誤り…ですか?」
「はい。あなたは今、望まない相手を無理やり好きになると仰いましたが、それは大きな誤りだと指摘させて下さい。確かに私は彼らに頼まれて彼らのお仲間に有利になるようにアドバイスさせてもらってましたが、それはあくまでも相手の意識を持ってくるまでのこと。好きでもない相手を好きにさせる、などということはさすがの私にも出来ません。もし私のアドバイスが元で相手が好きになったとしても、元々その方がその人を好きになる可能性があったということなのです」
諸月の言い分も説得力があるように思えたが、秋穂先生の横顔を見ると、眉間にシワが寄ったままだ。理論では言い返せないが、感情では納得できない、そんな表情に思えた。
「人を好きになる時ってさ、一目見た時にビビッときて一目惚れする、なーんてのがロマンチックで理想なんだけどぉ、実際はそういうのってすぐに冷めちゃうのよねえ。最初はそれほどでなくても、だんだんその人のことを知って好きになっていく、そんな恋愛が意外と長く続いたりするじゃない?」
薫ママが秋穂先生の作る間を埋める。自分の経験を思い出して語っているのだろうか、目線は硯徳たちの上の遠いところを捉えていた。
「私から言わせていただければ、一目惚れというのは遺伝子が自分の種を存続させるために一番有利に働く相手を求めた結果で、お互いの性格の相性などとはまた別の話です。私たちは意外と遺伝子の司令に意図せずに従っているものなんですよ」
諸月が口を挟み、薫ママは諸月に向いて口をへの字に曲げる。
「あら、そうなんですね。あたし、学術的なことはよく分からないんだけど…」
そして目の前の秋穂先生を見据える。
「ねえ先生、さっきのやり取りを思い出してみて?コウメイ先生…あ、これはこの店から始まった諸月さんの呼び方なんだけどさ、ほら、トウセちゃんのこと負けず嫌いって言ったりして、この人のやってることって単純な方法論じゃなかったと思うの。人のことをね、よく見てるのよ、この人」
秋穂先生が薫ママを見上げ、そして諸月を見る。諸月は銀髪を揺らして小首を傾げた。薫ママの言わんとする方向性が分からない、そんな表情だったが、今度は口を挟まず、薫ママに目を向け、秋穂先生もそれに倣う。薫ママが続ける。
「あたしってさ、こんな格好してるじゃない?だからよく男が好きなのかって聞かれるんだけどさ…」
今日の薫ママはエメラルドグリーンのワンピースドレスを着ている。よく引き締まって綺麗なデコルテには、こんもりとした双丘が谷間をくっきりと作っている。薫ママは
「え!?先輩!ホントのところはどうなんすか?」
大悟が立ち上がり、ここぞとばかりに好奇心剥き出しに聞く。
「本当はどっちが好きかって聞かれるとね、どっちもって言うしかないわね」
「えーとそれって…」
「ダイゴちゃんは性指向のカテゴライズを聞きたいのね?分かりやすく言うなら、バイってことかしら?バイセクシャル。でもね、性指向の話をするにはまず、性自認を決めないといけないの。生物学的な性と性自認が一致してる人をシスジェンダー、そこが違ってる人をトランスジェンダーっていうんだけど、あたしの場合は性自認を決めかねてるのよ。いわゆる、クエスチョニングってやつね。あたしのこの格好もね、シスなら女装、トランスなら性自認に合った格好ってことになるんだろうけど、そんな小難しいこと考えてやってるんじゃない。好きだからやってるってだけ。性指向だってそう。その人がシスだろうがトランスだろうが、もっといえば、ノーマルだろうがゲイだろうがレズだろうがバイだろうが関係ない。好きだから、好き。でも世の中にはカテゴライズしないと安心できない人たちが溢れてるわけじゃない?そういう人のために敢えて言うなら、あたしはクエスチョニングのバイセクシャルってことになるかしら?」
そこまで聞き、大悟は頭を抱えてストン、と座った。
「な、何か、頭痛くなってきました」
薫ママはそんな大悟を見てニィッと口角を上げる。
「まあ正確に言うなら性指向が決まってないからバイでもないんだけどね。でもあたし、ダイゴちゃんみたいな血の気の多い男、嫌いじゃないわよ?」
「え、マジすか…」
目を丸くして反応するものの、その後何と言っていいか分からない、そんな大悟の表情を見て、薫ママはアハハと笑う。
「でもねえ、あたしの性質をもう一つ加えるなら、あたしはポリアモリーでもあるの。あたしは、クエスチョニングでバイでポリアモリー、たった一人の人に縛られたくないわけ。たくさんの人とお付き合いすることを許してくれるなら、あたし、ダイゴちゃんとも付き合ってあげてもいいわよん」
そこでウイングを決める薫ママに、大悟は慌てて手を振る。
「いや無理無理、無理っす!俺、好きな相手はお互い一人がいいっす!」
大悟の慌てぶりを薫ママがまた笑い飛ばし、横目でそれを見ていた冬星が、ずっと何の話だよ、とポツリと呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今話の場面イラストです。文章とイメージが違うかもしれませんが、それでもよければ見て下さい。
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