セルフマインドコントロール
「あいつ、この後ダメージ食らうのも知らずに可哀想にな」
「短時間に吃音を治す、なんてことできませんよね?」
諸月は黄色の面を頭の上に押し上げており、むき出しになった切れ長の目を硯徳に向ける。
「吃音になっている理由にもよりますが、もし心理的な理由によるなら、専門機関でそれなりに時間をかけて治す必要があるでしょう」
意外に常識的な答えが返り、ですよね、と硯徳は軽くため息をつく。本読みの間だけでいいのだけど、と再度問うと、
「それならアドバイスがないわけでもありません。その本読みが始まる前に、彼をここに連れて来て下さい」
と諸月はにっこり微笑んだ。沈む間際の西日が彼の吐き出す煙に当たって乱反射し、着ている淡い色のサマーニットシャツと白いワイドパンツをぼうっと浮き上がらせる。きっとハイブランドで身を固めているのだろう、その浮世離れした出で立ちはパチンコ店のツルツルとした白い壁に同化してキラキラと輝き、硯徳はその眩しさに目を細めた。眩しかったのは硯徳だけではなかったようで、通りすがりの女子高生らしき集団が、きゃーと歓声を上げて諸月を指さしていた。向かいの川端書店のイベントの賑やかさも相まって、まるでお忍びでやって来たアイドルがそこにいるようだった。彼に面を付けさせた纐纈の判断は、パーティーの男性参加者に取っては的を得たことだったかもしれない。
30分かけて列に並んだファンたちにサインを書いて捌いた後、放蕩息子先生の本読み会がいよいよ始まった。春海が用意していた先生の本は飛び入り参加もあって全部捌けたようだった。ツーブロックモヒカン君が今、自らサインしてもらった本を開け、第一声を発しようと大きく息を吸い込んだ。彼は一番手を希望したのだったが、普通はできるだけ後の順番を希望して他の人の実力を見るだろうにと、ヤンキー気質の謎の自信がこの時はありがたかった。持っている本のハードカバーには可愛らしいキャラクターの絵が踊り、『転生したチート能力者を狩っていく悪役令嬢は魔王様の恋奴隷』というカラフルなレタリングが散りばめられている。題名だけで内容が分かりそうなその作品は三年前にアニメ化されたライトノベルで、厳ついヤンキー頭の男がそれを抱えている姿はそれ自体が異世界の登場人物のようだった。
「なすびのへたに落ち、落ちた我がむら…紫の…ニワトリの玉子は…え〜と何だ?やがてと…虎の口に入ろうとする勇者のウンコのち…血と肉になるであろう~!」
モヒカン君は一旦そこで区切り、詰め掛けた聴衆を見渡す。放蕩息子先生や女性スタッフたちが座る長机の前で立つ姿はまるでオーディションを受けている俳優のようだった。会場の微妙な空気を読み取ったのか、誤魔化すようにワハハハと王様のように哄笑する。普段から声をよく出しているのか、その声量だけはミュージカル俳優さながらだった。
「おい!」
モヒカン君の後方に座っていた春海が立ち上がる。その第一声には怒気がこもっており、それを見て硯徳は来た!と思った。
「お前、ずっと何言ってるんだ?」
「へ?な、何って、本を読んでるんだろ」
いきなりお前呼びになった春海にびっくりしたのか、モヒカン君は一歩後退りながら戸惑いがちに返す。
「ああ?どこにナスビのヘタとか書いてあんだよ、バカか死ねよ。あと何だ?勇者のウンコが何たらかんたって、お前、ふざけてんのか?だったら帰れよ!ここは神聖な読み会の場なんだよ!」
言いながら次第に怒号になり、モヒカン君は圧倒されて顔が青ざめてくる。
「ふ、ふざけてなんかいねーよ」
弱々しくそう返すが、その表情には確かにふざけている様子は伺えなかった。
「あーこの作品、ちょっと普通の小説には見られない漢字が多いですねえ…」
硯徳の隣りからそんな声が聞こえ、そちらに目を向ける。いつの間にか
秋穂先生の後方を見ないようにし、彼女が開いている本の冒頭の部分を硯徳も顔を寄せて読んでみる。
『奈落の果てに落ちし我が紫魂の鳳玉は、やがて虎口に這い入らんとする勇者の縁故の血肉となるであろう』
なるほど、モヒカン君は
だがその様子をのんびり眺めている場合ではない。結局その後、春海の言動を見て引いてしまったのか、エントリーしていた男たちは皆、辞退して書店を離れて行った。あわよくば春海たちと仲良くなりたいと思ってここまで付いて来たパーティー参加者もいただろうに、春海の本性を見て考えを変えたのだろう、他の女性参加者を目指して散っていった。
というわけで残るは
「大丈夫!あのモヒカン頭よりはましに読めますよ!」
大悟も健太の肩を叩いて鼓舞してくれているが、ましに読めればいいというものでもない。肝心の放蕩息子先生の気持ちを捉えられなければ意味はないのだ。相変わらずパチンコ店の壁にもたれている諸月に目を走らせると、硯徳の視線に気づいたのか、彼は昨夜ゲットしたバー・アンドレの店名入りの百円ライターの火を点けてこちらにゆらゆらとかざしている。いつの間にか夕闇が降り、対面からでもその火ははっきりと見えた。
硯徳は健太の肩をポンポンと叩き、諸月を指差す。諸月は健太にゆっくりと頷いてみせ、健太も意を決したように頷き返した。
本読み会が始まる直前、諸月は健太にこんな指示を出した。
「まずは、あなたが一番演技が上手いと思う俳優さんを思い浮かべて下さい。そしてその姿を自分とオーバーラップさせるのです」
そこで諸月は百円ライターの火を点ける。ハイブランドで身を固めた男がいつまでも安ライターを持っているのにチグハグな印象を受けた。諸月はその火を、健太の目の前でゆらゆらと揺らす。
「この火を見ながら、自分はその俳優だと三回唱えて下さい。その俳優が自分に憑依したイメージで」
健太は火を見つめながら、ぶつぶつと呟く。それを見届けた諸月は、火を消して健太に強い視線を送る。
「これであなたはしばらくの間、その俳優になりました。自信を持ってステージに立って下さい。そしてもし、途中で自信が無くなりそうになったら、私がここで火を点けて揺らしますから、それを見て心の中でまた自己暗示をかけて。本当はこうしたイメージトレーニングは普段からやっておかないといけないんですが、今日は私が特別な暗示をかけさせてもらいました。この火を見れば、たちまちまた自信が戻ってきますよ」
そうして、男前ウィンクとともに健太を送り出す。いざ健太の番がきて、自信を無くしかけていた健太はその火を見、自己暗示の呟きとともに自信を復活させたようだった。
とはいえ、放蕩息子先生の本には独特の漢字の使い回しが多く、そんな付け焼き刃の自信では何とかなりそうな気がしない。固唾をのんで見守っていると、放蕩息子先生のファンだと言っていた彼はその本も読んだことがあるのだろう、読み出しからすっと世界観に入り、落ち着いた声でゆっくりと、しかしはっきりとした発音で読み進んでいった。途中読み間違えて詰まると、その都度諸月に目を走らせ、深呼吸とともにまた本読みを再開させた。五分くらい読んでいただろうか、ちょうどセンテンスの区切りがきたところで春海が終了の合図をした。健太はほうっと息を吐き、百メートル疾走をした後のように膝に手をついて体を折る。会場からは大きな拍手が起こっていた。硯徳たちもひときわ大きな音を立てて手を打った。やがて放蕩息子先生がゆっくりと立ち上がり、健太に手を差し伸べる。
「いやあ、すごくよかった。ありがとう!よかったらこの後、一緒にお酒でも飲もう」
おずおずと健太が手を添え、それを見て硯徳はガッツポーズした。この婚活企画をやって良かったと思えた瞬間だった。
だが面白くないのは
「おい!そこの眼鏡女!お前ちょっと言葉が悪すぎんじゃねーのか?うちの仲間が体調崩して帰ってしまったじゃねーか!」
サイン会がお開きになり、バラバラと客たちが書店を後にしていく中、東海林が春海に詰め寄る。本読み会に出たモヒカン君はすでに立つこともままならなくなって退場して行った。さすがに今回ばかりは東海林の言う事ももっともに思えたが、今日の日を成功させるために東海林撃退の手は緩めるわけにはいかない。今度は冬星が寄ってくる東海林の前に立ちはだかり、ニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今話の場面イラストです。文章とイメージが違うかもしれませんが、それでもよければ見て下さい。
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