ストラクチャード・アムネジア
「オッケーでーす!」
その
「食べた」
と言った。
「いやいやいや、こんなの茶番だ」
諸月の言葉を聞き、
「だってさあ、見てよダイちゃんの目。充血しちゃってんじゃん!僕のお土産を料理してくれたのは嬉しいんだけどさあ、どんな味付けしたんだろうね…よっぽど辛いんじゃない?こんなに顔に出しちゃったら誰にでも当てられるよ」
纐纈の言葉に大悟は大きく頷き、
「だあ~がら゛い゛ー!ごべんキョウぢゃん!ごればの゛びこべない~!」
(だあ~辛いー!ごめんキョウちゃん!これは飲み込めない~!)
言って口を押さえてトイレに飛び込んだ。硯徳はその姿を見て、家にトリニダード・スコーピオンがあったのを思い出す。どこから仕入れてきたのか、ハバネロより八倍辛い唐辛子だ。杏夏はそれを三日前の昼食のパスタに入れて料理したのだったが、硯徳はそれを食べて以来ずっと下痢に苦しんでいる。
「あらあら、もっと食べやすいもの出したらよかったかしらん」
「辛くないもん」
と頬をぷっくり膨らませた。いや、バカ舌の杏夏には分からないだろうが、辛いんだよ、すっごくすっごく。硯徳は心の中で妹に突っ込んだ。
「私は別に誰にやってもらっても構わないんですよ?そちらのお嬢さんはどうです?」
諸月が冬星に手をかざすと、冬星はものすごい勢いで首を振った。
「無理無理無理無理」
そして杏夏に睨まれているのに気づき、あっと言って口を噤む。と同時に硯徳も諸月から視線を外す。もう二度とあの辛さと、本日三度目の昆虫を味わいたくなかった。カウンターから杏夏の手が纐纈の腕に伸び、それを察した纐纈がさっと席から飛び退く。
「いや、いくらキョウちゃんの頼みでも僕もちょっと……ほら、僕はもうイナゴはたくさん食べてるから……」
危険を察知したのだろう、纐纈も今度ばかりは杏夏に腕を取らせなかった。そんな纐纈の態度を不服に思ったのか、杏夏の頰がパンパンに膨らむ。
「いやいやいや、ごめんて、キョウちゃん、機嫌を損ねないで?」
纐纈が慌てて杏夏の機嫌を取ろうとするが、杏夏は纐纈を睨んだまま首を振る。そして、さっと両の手のひらを纐纈の方に差し出したかと思うと、その手を交差させ、纐纈の目の前で突き出した片方の手のひらから火を吹き上がらせた。それはさっき諸月が披露したまんまの手際だった。纐纈は突然目の前で火が上がってヒィと喉を鳴らて後退り、後ろのボックスのソファにドスンと腰を落とした。冬星がそれを見て目を丸くして立ち上がる。
「すげー!どうやったの?」
そこをすかさず諸月が言葉を挟む。
「私には嘘を見抜く能力の他に気を操る能力もありましてね、その能力の一部を彼女に与えたのですよ」
纐纈、冬星、硯徳の三人が息を飲み、諸月と杏夏の間に視線を走らせる。店内のジャズのBGMよりも大きなゲホゲホと咳込む音が、トイレから聞こえていた。
何だろう?この店の中の芝居めいた空気は……?
硯徳はアンドレに入ってきてからのことを思い起こし、一体どこから仕組まれていたことなのか分からなくなっていた。冬星も纐纈も同じようなことを感じていたのか、しばらく誰も喋らなかったが、その沈黙に耐えられなくなったように、薫ママがプッと息を吐く。それが合図のように、杏夏がペロッと舌を出した。
「ああ!何だよ!いつからそんな手品を仕込んでたんだよ!」
薫ママと杏夏の態度で一連の流れが仕込まれたものだと察した冬星が声を上げる。杏夏が冬星に微笑み、火が上がった方じゃない方の手のひらを広げて店の安ライターを出して見せた。
「こうやって、片方の手にガスだけ出しといて、こう……さっと手を交差させる間にその手に火を点けるの。そしたら、ね?」
言いながらもう一度実演し、手のひらから火を起こして見せる。
「なあんだ、やっぱり手品じゃない」
纐纈がソファに沈んだ身を起こし、おずおずと自分の席に戻る。杏夏の種明かしと同時に場に弛緩した空気が流れた。そこへちょうどトイレから出てきた大悟も席に戻り、
「あれ?何かあった?」
と、涙目でキョロキョロと各人の顔を見て怪訝な声を出した。
「まあいわゆるツカミってやつですよ。クライアントの気をほぐすために、こんなパフォーマンスをやったりもするのです。でも嘘を見抜く能力は嘘ではありませんよ?何なら、ここにいる一人ひとりの嘘を言い当ててあげましょうか?どうやらあなたたちはみんな、嘘つきのようなので」
諸月が全員自分の席に着いたのを見て、一人ひとりにゆっくり目線を走らせながら言った。四人ともの喉がゴクリと鳴る。
「なになあにぃ?あんたたち、一体何を嘘ついてんのよお」
薫ママが四人を見回し、四人ともふるふると首を振った。そこで諸月がクックと喉を震わせる。
「いや今日はクライアントに呼ばれてこの近くまで来たんですがね、一杯ひっかけて帰ろうと思って寄ったこちらで思いの外楽しませていただきました。ママ、実は私も暇じゃないんでね、恋愛相談の件はまた改めて」
諸月はそう言って薫ママに指をクロスさせた。チェックの合図だ。そしてニヤっと頬を緩めて纐纈に向き、
「そうだ、お会計はこの財布から」
と、古びた折り畳み式の革財布を四人に見えるように掲げた。それを見て、纐纈があっと声を上げる。
「それ、僕の財布じゃない!いつの間に取ったんだ!?」
言いながら慌てて諸月の側に走り、ぱっと財布を彼の手からもぎ取った。
「実は私にはアポーツ(物体引き寄せ)の能力もありましてね、その能力で取り寄せたのですよ」
纐纈は財布をズボンのポケットに仕舞いながら、仕切りに首を傾げて不思議そうにしている。
「いや、誰もここに触れてないよな…そもそもズボンのポケットから抜かれて気づかないわけないしな……」
硯徳にはそんなことをモゴモゴと言っている纐纈の姿が不思議だった。そして纐纈に告げる。
「あの、纐纈さん、さっき杏夏に頼まれて自分で出してましたけど?」
硯徳に指摘され、纐纈はまた、あっと声を上げた。どうやら完全に忘れていたようだ。なぜそんな直近のことを忘れたのだろう?硯徳が腑に落ちない顔でいると、
「ストラクチャード・アムネジア」
店の戸口の方から諸月のバスバリトンの声が響いた。見ると諸月は立ち上がり、空中の何かを握るように右手を振り上げている。それはまるで魔法の技を詠唱する魔法使いのようだった。
「最初に私、手から火を出しましたよね?そして、そちらの社長さんの前で、杏夏さんがさっき同じことをした。人はね、二つのインパクトある出来事に遭遇すると、その間に起こったことは忘れがちになるのです。それが、人の記憶を操作する、ストラクチャード・アムネジアという手法です」
諸月は言いながら、大掛かりなマジックを終えたマジシャンがステージでするように、振り上げた手をゆっくりと前に下ろし、芝居がかったお辞儀をした。冬星と大悟はその姿を見て、キョロキョロと互いの顔を盗み見る。ここは拍手するところなのか、と、目線で互いに問いかけていた。硯徳は拍手する以前に、一体この茶番劇がいつから仕組まれていたのかということが気になった。杏夏が諸月から手品を教えてもらっていたことを考えると、少なくとも硯徳たちが店に入る前から打ち合わせがされていたことになる。だとしたら、一体何のために?硯徳のその疑問は、この後すぐに解消されることとなる。
当の纐纈はというと、諸月の説明の後はしばらく何も言えずに固まっていたが、やがて諸月のすぐ前に歩み寄ると、まるで騎士が王の前でするように跪いた。そして厳かな口調で言う。
「先生、どうか、僕に恋の技をご指南下さい」
その姿を見て、薫ママが手を叩いた。
「お見事!いやあ、まさにコウメイ先生、
薫ママの喜びように、カウンターの他の三人は顔を見合わせて首を傾げる。大悟が聞いた。
「え、さんこのれい、て何すか?」
「あら、知らない?三国志で、諸葛孔明が劉備玄徳の蜀の軍に下野するクダリよぉ。ほら、諸月さんの名前、
薫ママは三人の顔を見ながら楽しそうに説明する。そして硯徳の顔を見て、あっと声を上げた。
「スズちゃんの名前、音読みするとゲントクって読めるじゃない?すごおい、きっと二人、何か縁があるのよお。ゲントクとコウメイ、二人で力を合わせて、明日の婚活パーティーで何とかおもちゃ屋ケンちゃんに彼女を作ってやって?あたしからもお願いします」
おもちゃ屋ケンちゃんとは、おもちゃ屋ミヤワキの
思わぬ人とバディを組まされるような流れになり、硯徳は諸月に気恥ずかしげな視線を向けた。諸月は跪いていた纐纈を立たせ、握手を交わしている。そして硯徳の視線に気づき、柔らかな笑顔を向けてきた。相変わらず胡散臭い印象は拭えなかったが、男でも見惚れそうになるその美顔に、硯徳もよろしくの意味を込めて頭を下げて返していた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今話の場面イラストです。文章とイメージが違うかもしれませんが、それでもよければ見て下さい。
https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/jx5rtA3u
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます