普通の状態じゃないんだ

 「スズもさあ、そろそろ妹離れしなくっちゃ。お前ら兄妹きょうだいは昔っから仲の良さが度を越してたけど、もういい加減二人とも成人してんだしさ、適度な距離感を保たないと。いつまでも二人暮らしってわけにもいかないだろ?」


 大悟だいごが慌てて沈黙を埋めるように、硯徳すずのりが何かを言う前に口を開く。親分肌の大悟らしく、諭すように語りかけるその内容は、彼から幾度となく聞いてきたものだった。大悟の言うことは分かるのだが……


杏夏きょうかはさ、普通の状態じゃないんだ。心の傷が治るまでは寄り添ってやらないといけないんだよ」


 苦虫を噛み潰したような顔で絞り出した硯徳の言葉は、そのまま店の空気に沈殿していった。


 

「よく考えてみろよ。キョウちゃんがシャチョウなんかになびくわけねえだろ?いいから座れって」


 大悟の言葉を聞き、纐纈こうけつは眉をピクつかせる。


「なんかって何だよ!なんかって」


 言って纐纈は立ち上がりかけるが、そこにガウッと硯徳が睨みをきかせ、ヒィっと喉を鳴らせてカウンターに手をついた。


「座れって!」


 見かねた大悟の一喝が飛ぶ。前髪をふんわりとバックに流した柔らかい印象と違い、元々は猿上町さるかみちょうで番を張っていた大悟の怒声は重い。一瞬空気がピリッとし、硯徳は冷や水を浴びせられたように我に返っておずおずと自分の席に着いた。大悟もそれに合わせて着席し、宥めるように硯徳の肩を撫でた。






 硯徳が杏夏のことを考えるとき、いつも彼女の泣き顔がまず頭に過る───。





 若い頃サッカー選手だった硯徳の父親は、猿上小学校の事務員でありながら、放課後はサッカークラブの顧問を受け持っていた。小学生のサッカー大会では地域のサッカークラブが上位の成績を占めるのだが、公立小学生の父のチームはその中で光っていた。さすがに優勝まではなかなか届かないまでも、地区予選では八強にまでは必ず残った。そんな父と、同じ猿上小学校の教師だった母は恋に落ち、やがて職場結婚した。普通同じ職場の教師同士が結婚する場合は通例どちらかが転勤する。だが、硯徳の父母の場合は一方が事務員だったし、父のサッカーチームは猿上町には欠かせない存在で、加えて母が顧問をしていた吹奏楽部もサッカー部と並んで猿上小学校の顔であり、父母は校長の尽力もあってそのまま職場を共にした。



 公立の教員には残業代など出ない。なので教頭などが率先して教員たちに早く帰宅するよう促すのだが、活躍しているクラブの顧問などになると教材研究に費やす時間もなかなか確保できず、ついつい遅くまで職員室に残りがちになる。硯徳の母が顧問をやっていた吹奏楽部もよく大会などに出場し、サッカー部と並んで朝礼などで表彰される常連だった。昭和時代の小学校では学習発表会で披露する劇などの準備で教師が学校に泊まり込むなんてこともよくあったらしいが、猿上町は比較的地域の結びつきが強く、平成になっても教師がいつまでも学校で残業することに寛容な風土があった。硯徳の母もその風土に染まり、よく学校で日付変更線を超えていた。



 やがて硯徳が生まれると、夫婦は話し合って猿上町の隣りの犬川町いぬかわちょうに一軒家を買った。教師が校区に住むとその子どもは何かと注目されやすく、自分たちの子どもに息苦しい思いをさせたくなかった父母は校区から外れ、しかも通勤にも便利だった犬川町を選んだのだ。とはいえ公立の教師は約十年で転勤するのだが、二人とも犬川町だけは転勤先として避けるよう要請していた。



 硯徳が生まれてからはさすがに学校で日付変更線を越えることは無くなったが、父も母も、すでにその背に多くのものを背負っていた。父母ともに相変わらず帰りが遅くなりがちで、硯徳は3歳になった時から水醐堂の経営する保育園に父か母のどちらかが帰るまで預けられた。当時の水醐堂は地域の小学生たちを集めて習字やそろばん、そして剣道を教えていて、そのうちの座学の方がやがて学習塾となるのだったが、それらとは別に境内横の敷地に保育園も構え、共働きの家庭のサポートをしていた。そこで大悟や、寺社の娘なのになぜかよく遊びに来ていた冬星とうせと出会った。硯徳はその出会いを宝物だと思っている。幼馴染たちに混じっていると、父母との時間の少なさから来る寂しさを紛らわすことができた。



 だが五年後に生まれた妹は少し硯徳と状況が違った。杏夏は赤ん坊の頃から疳の虫が強く、よく母の手を煩わした。もちろん、父方の祖父母も母方の祖父もそんな状況を黙って見ていたわけではない(母方の祖母はすでに他界していた)。硯徳や杏夏がまだ3歳に満たない頃には必ず父母のどちらかの親が家に来て面倒をみてくれた。硯徳はまだ扱いやすかったので3歳になると祖父母の手からも完全に離れたが、杏夏はそうはいかなかった。杏夏は祖父母たちには懐かず、父母か兄の誰かがいないと泣き叫んだ。父母もなかなか手が離れない娘に悩んだらしいが、結局自分たちの仕事を優先した。祖父母たちも自分たちにいつまで経っても懐かない杏夏から遠ざかってしまい、父母は水醐堂の住職と相談した上、3歳になった杏夏の保育園入園を強行した。



 杏夏はなかなか周りの子たちと馴染めず、寂しいと言って泣いては保育園の先生の手を煩わせた。すでに小学生になっていた硯徳は学校が終わるとすぐに妹の元へ向かった。杏夏は硯徳が側にいると、機嫌を直した。そして硯徳が近くにいないとまた泣き叫ぶ。なので硯徳は学校にいる時も気が気でなく、学校が終わってからは常に杏夏と共に過ごした。さすがに保育園にずっと居座ることはできなかったが、杏夏の方が硯徳の後を付いて回った。杏夏はまだ就学していないうちから塾の教室や剣道場に兄と一緒に出入りしていた。硯徳も父母にもう少し家に居ることはできないのかと苦情を言ったこともあるが、それは大人の事情という理由で流された。



 そんな杏夏もやがて小学生になり、学年を重ねるうちに少しずつ彼女の世界を広げていった。そして中学に上がる頃にはさすがに硯徳が側にべったりいなくても平気になった。だが杏夏が中三になった年の冬、父母は帰らぬ人となった。ちょうど思春期に差し掛かっていた杏夏はショックのあまり幼児返りしてしまい、また硯徳が側にいないと泣き叫ぶようになった。一年、そんな状態が続いた。当時大学生だった硯徳は大学を辞め、彼女に寄り添った。今住んでいる狭小住宅もその時に買い、最悪杏夏の精神が回復しない場合は硯徳が彼女とずっと共に暮らしていく覚悟を決めた。父母の遺産だけでは食べていくことができなかったので、水醐堂の住職に相談した。住職は硯徳たちの親代わりになると言ってくれ、そろばんや習字を教えていた教室を学習塾にすると、硯徳をそこの塾長に据えた。そうして硯徳が仕事の時間帯は杏夏も生徒として一緒に教室に入り、杏夏にも勉強を教えた。しかし彼女が高校へ進学できるまで精神を回復させることはなかった。



 そんな状態でさらに一年経ち、商店街の人脈を伝って精神科の先生を紹介してもらった。その先生の元に通い出してから、杏夏は何とか少しずつ明るさを取り戻した。だが兄がどれだけ説得しても進学は望まず、そのまま商店街の中で働くことになり、今に至っている。父母が亡くなってから五年経ち、幼児返りこそ回復させたが、硯徳には杏夏が正常な状態に戻ったとは思えていない。まだ父母の死を引きずっているであろう杏夏のことを思うと、硯徳はいつも胸にズキッとした痛みが走るのだった。






「そうだよスズくん、妹離れしなくちゃ、妹離れ」


 大悟の言葉を受けて、纐纈がそんな言葉を横から投げかけ、硯徳は思いに沈んでいた心を現実に戻した。そして、そんな無責任なことを平然と言ってのける纐纈をまた睨んでガウッと吠える。纐纈はヒィっと喉を鳴らして手元にあった面を付けたが、その面が上目を向いている猿のような赤ら顔だったので、どう見てもふざけているようにしか見えなかった。



「とにかくさ、シャチョウは別にキョウちゃんを狙ってるわけじゃないんだからもうその話はいいじゃん。それよりさ、今は明日の作戦会議だろ?で、結局シャチョウは誰狙いなん?」


 硯徳がまた纐纈に突っかかりそうなのを察して大悟が話を元に戻す。


「ええ?僕?そりゃやっぱり、今回はアキホちゃん一択かなあ」


 赤い面を頭上にずらし、まだ会ったこともない女性にちゃん付け呼びする纐纈を、隣りから沙織さおりが冷ややかな視線を投げる。


「今回はって、だから他の線はもうないんだって」


 また蒸し返すようなことを言う沙織を纐纈が睨み、沙織はペロッと舌を出して残りのビールを煽る。大悟がニタッと口角を上げ、纐纈の手元のスマホを奪い返すと、アプリをスライドさせて一人のアイコンを硯徳たちに見せた。そこにはデフォルメされた小太りの男のアイコンが笑っていた。ハンドルネームは放蕩息子となっている。


「この人がどうかした?僕は男には興味ないんだよ」


 纐纈が自分もスタッフの一員だということを失念したように、完全に参加者目線で言う。


「よく見て下さいよ。この名前、何か心当たりないっすか?」


 大悟がこういう勿体ぶった言い方をする時は何か裏がある時だ。硯徳は自分のスマホで放蕩息子と名乗る人のアイコンを探す。そして、大悟のよく見ろという言葉の意味に気づく。


「あれ?この人、女性の欄に入ってるよ?」


 硯徳がそう言うと、纐纈と沙織、そして道久みちひさが大悟の持つスマホに顔を寄せてそのアイコンを覗き込む。沙織があっと声を漏らす。


「放蕩息子ってさ、犬川町から有名になったあの作家さんじゃない!?えーと、何てったっけ?ほら、アニメになった…転生した奴隷がどうのこうのって……」

「転生したチート能力者を狩っていく悪役令嬢は魔王の恋奴隷っすよ。略して、テンドレ」


 大悟に言われ、沙織がそうそうと頷く。


「よくそんな長い題名覚えられるわね。もう〜最近のアニメのタイトルって長いの多いから、おばちゃんにはついていけないわ」

「いや沙織さんはまだまだ若いっすよ」

「あら、大ちゃん、なら今度デートしちゃう?」

「こらこらこらこら!」


 変なノリになりかけた沙織と大悟に、道久が慌てて手を振る。纐纈と硯徳の頭にはまだクエスチョンマークが灯っている。


「え?そのなんちゃらってアニメ作った作家が何?何で女性として参加してんの?」


 纐纈の質問に、大悟がまたニイっと笑う。そしてスマホを操り、一枚の写真を画面に出した。それは何かの表彰式らしく、金屏風の前で可憐な女性が花束を抱えてスピーチしている図だった。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今話の場面イラストです。文章とイメージが違うかもしれませんが、それでもよければ見て下さい。


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