第39話 大きものたち

 千色は、危険がほんの数メートル先にあるのに、動くことはおろか、声を上げることすらできなかった。


 一万匹のネズミが拷問ごうもんされているかのような音を立てながら、真っ白に発光している一軒家だいの流れ星が、美しい上回転を伴って落下しようとし、客席とコートをへだてる鉄製のフェンスをたんこぶ型に変形させている。


 流れ星が燃え、回る音の中に混ざる、ピキピキと金属がはじけるような音はフェンス――だけではなく、フェンスにかけられた防御魔法のたてが壊れていく音である。それが証拠に、今の今まで快適だった客席は、あと数秒で焦熱しょうねつ地獄じごくと化すに違いないほどの温度となっている。


 しかし、その巨大な流れ星は、千色を焼き殺すわずかに手前で、跡形あとかたもなく消失した。


 まだ流れ星の正体も、流れ星が消えたことも認識できないままに突っ立っている千色の視界のはしで、女子用簡易個室から覗いていた水川湖織の片目と片手が引っ込む。

 流れ星に熱せられて真っ赤になっていたフェンスの色と形が元に戻り、周囲の気温も徐々に下がって、千色の目に焼き付いた黒緑色こくりょくしょくの闇と、焼けかけた皮膚の痛みが消え、溶けかかった服の繊維や客席の椅子までもが元の状態に戻ると、今度は男子用簡易個室から覗いていた森野熊雄の靴のかかとが、朝の散歩を終えたかのようにのんびりと引っ込む。


 一瞬の静寂ののち、再開したざわめきは、千色にも少しだけ聞き取れた。


 A組だ。

 A組のリュウセイ――。

 リュウセイヨミル――。


 ――決勝に行けるのか、ではない。

 千色程度の人間が、こんな場所にいていいのか――。


「アチアチだったねぇ」

 のんびりした声に、んふふという笑い声が混ざる。

「客席に火球かきゅうをぶちこむなど危険きわまりない」

 あとから歩いてきた筋肉の塊は腕組みをして、網目の整ったフェンスを見上げる。

「魔法防衛部隊が人を殺してどうする」


 ――そうだ。

 人を傷付けることは、魔法防衛部隊においては第一にけねばならないことである。


 あの人の魔法の力量は、まだそれができない段階にあるということだ。

 別に、あの人は特別でも何でもない。

 千色と同じ、ひよっこの高校一年生なのだ。

 ――それが、事実なのだ――。

 ……ならば。

 ならば、あの人と戦いたい。

 憧れのあの人と、限りなく同じ高さに立てることがあるのだとすれば、千色は

「試合の行方ゆくえも気になるけどさぁ」

 観戦と思考に没頭ぼっとうしていた千色は、その呑気のんきな声に、現実に引き戻される。


 横を見ると、千色たちと一緒に立ったまま試合を眺めていたはずの乙盗は、A組とP組の生徒が飛び回るコートにそびつ崖の向こう、どこか遠くを見つめている。


「ぼくは、うんちをしにいかなくちゃ」

 そう言った乙盗は、片手でむちむちの尻を押さえ、もう片方の手でバランスを取りながら、隠す気のない内股で、ちょこちょこと客席の通路を歩いていく。


「報告はいいから、さっさと行ってこい」

 乙盗のマイペースぶりには慣れてきた千色が、しっしっと手を振るが。

 乙盗は、C組の席のエリアをもうすぐ出るという所で尻を押さえたまま停止し、じりじりとこちらを振り返る。


「この感じからして、あんな感じだと思う」

 乙盗は尻を押さえていない方の手をぷるぷる震わせながら伸ばし、A組とP組が戦っているコートを指差す。


「おしりの感じからして、今から出てくるうんちは、あの泥みたいにびちゃびちゃな感じだと思うのよ」

 乙盗が指差しているのは、コート中央の崖の上、二つの巨大なタンクの足元だ。そこには、泥水から分離させた砂と、運搬中にこぼれた水とコートの芝とが混ざった結果できた、粘度の高い泥が大量に積み重なっている。


「説明はいいからさっさと行け!」

 C組ももうすぐ二回戦だというのに、変な想像をさせるんじゃない。まったく、こいつは。

 背後のクラスメイトからも、声が飛んでくる。ほら、言わんこっちゃない。

「千色、騒いでねえで座れ。見えねえ」

 俺⁉

 俺が悪いの⁉

 で龍郎は⁉ 一緒に立って見てたよな⁉

 ――と思って千色が周囲を見回すと、左側の下の方に、見慣れた硬い短髪の、アホみたいな先端が見えた。


 なに一人で座ってんだよ。座るなら声かけろよ。

 ――とは思ったが、千色が後ろのクラスメイトたちに迷惑をかけているのは事実なので、もぞもぞと謝りながら自分の席に座る。


「ねえ」

 千色が注意を受けている間に、何とか広い通路まで出ていた乙盗が、また停止して振り返り、千色を呼ぶ。


「人間はさ、なんで、うんちをするとき、おしっこも出ちゃうんだろうね」

「知らねえよ!」

 ――正直、気にならなくもないが、いつまでも尻を押さえた状態でその辺にいられるのは迷惑だ。


「いいからさっさと行け!」

 千色が怒鳴ると、乙盗は眼鏡の奥から千色をけながら、渋々、客席の出口の方へ向き直る。

 ――この場合は俺は悪くねえだろうが。お前がトイレ行きたいんだろ。


「ねえ!」

 ナメクジの速度でやっと客席出口の近くまで辿たどいた乙盗が、また振り返って千色を呼ぶ。――客席の出口は、C組の席から直線距離で三十メートルほど離れているうえ、周囲の観戦の声も騒がしいので、乙盗はかなりの大声で叫んでいる。

 ――だから早く行けよ。トイレ、そこからまだ距離あるぞ。

 あと、その明らかなうんこ我慢がまんしてます状態で、大声で俺を呼ぶな。こっちが恥ずかしい。


「ぼく、ぜったいに間に合わないと思うんだぁ!」

 ――お前がだらだらしてるからだよ。

「だからさぁ!」

 ――今から俺が手伝えることはねえぞ。


「りゅーりゅー、ぼくをだっこして、おトイレまで走って連れてってぇ!」

 何かを諦めて椅子に足を上げた千色の前を、龍郎が「任せておけ」と言いながら、陸上部で鍛えた脚で風のように駆け抜けていった。

 ――龍がいいならいいけども。


 ものの三秒で要救助者の元に辿り着いた龍郎と、要救助者乙盗をやれやれと眺めていた千色の背後から――笑顔で喋っていると分かる声がする。

「乙盗君、『腰を曲げると出ちゃうから、立ったままでよろしくぅ』だって」

 千色が慌てて振り返ると、龍郎の後ろの席に座っていた言ノ葉解が、客席出口付近の乙盗と龍郎を注視しながら、「龍郎君、『任せておけ』だって」と言う。


 騒がしい試合の最中に乙盗と龍郎の声は聞こえないが、言ノ葉は言語解読魔法を使って、二人の動きや視線から会話を読み取っているらしい。――彼女の表情は、すっかり楽しそうである。

 千色が客席出口付近の二人に目を戻すと、会話の通りに、龍郎は乙盗の脇の下を持ち、今や両手で尻を押さえている乙盗を、立った姿勢のままで運搬うんぱんしていく。


「乙盗君、『個室がいっぱいだったら、りゅーりゅー、そのこぶしでしっかりノックしちゃっていいからねぇ』だって」

 ――お前は扉が粉々になったトイレで大便をしてもいいんだな。

 でも、入ってた人は良くねえと思うぞ。そもそも、扉を壊したからといって、入ってた人の用が早く済むとは限らねえぞ。何ならより遅くなると思うぞ。あと、ここ、レンタルしてる会場だぞ。


「龍郎君、『任せておけ』だって」

 任せておかれるな。


「乙盗君、『うんちうんちうんちぃ~』だって」

「それは別に通訳しなくていいけど⁉」

 目が離せない二人の会話を届けてくれるのは有難ありがたいが、流石さすがに『うんち』を三回も言わせるのはしのびない。


「龍郎君、『なぜ“大便”をわざわざ幼児語にして三回も言ったんだ。それと、“大便”を指す一般的な幼児語の中で“うんこ”ではなく“うんち”を選んだのには何か理由があるのか』だって」

 ごめん言ノ葉さん、と謝りかけた千色だったが。


 乙盗と龍郎が客席の出口に消える直前、揃って振り返り、揃って千色の背後に向かって手を挙げる。

 ――分かってて喋ってたのかよ。じゃあお前らが謝れよ。

 ――と思った千色だったが。


 千色が振り返ると、言ノ葉は笑顔で両手の親指を立て、二人の背中を見送っている。

 ……言ノ葉さんがいいならいいけども。


 まったく、このクラスは。

 千色は、溜息を吐きつつ、トイレが空いていることを祈りつつ、場違いなほどに熱いA組とP組の試合の観戦に戻る――。

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