第30話 知らないことだらけ

 千色が我に返ると――。

 千色はシャワーを手に、龍郎は洗面器を手に、洗い場の通路でにらっているのであった。


 千色の持つシャワーからたばとなって出続ける湯は、龍郎が身体の前に構えた洗面器の裏に当たり、そこらじゅうに飛び散って他の生徒たちに迷惑をかけている。

「なっ、何すんだ龍!」

「千色こそ何をする」

 二人の息は、全力疾走をした後のように上がっている――。


「二人とも、ケンカ?」

 その声に千色が振り返ると、そこには、デリケートな部分だけを残して顔まで全身泡塗あわまみれになった乙盗が立っており、真っ白もこもこの顔をわくわくさせている。――そこだけ残すな。

「殴り合い? 魔法の撃ち合い? それとも両方? ねえ、デスマッチだよね?」

 乙盗が喋る度に、口の周りに付いた泡が細かくちぎれて、ばふばふと宙に舞う。


 千色は乙盗のために乱闘ショーをする気はさらさらないし、そもそも龍郎と喧嘩けんかをしたいわけでもないので、さっさと引き下がって風呂椅子に戻る。

 ――冷静に考えてみれば、さっきは、龍郎が洗面器を使って頭から浴びた冷水が飛び散り、偶々たまたま千色にかかっただけなのだろう。


 しかし、それにしても、この人混みの中で思い切り冷水を被るなど。まったく、龍郎は大人しくしていると思っていたのに――。

「……お前、人に冷水びせんじゃねえよ。シャワー使え」

 そう言って千色が横を見ると、龍郎はカランで洗面器に冷水を溜めている。

「言ったそばから⁉」

 千色がつい突っ込むと、龍郎は何がおかしいのかとでも言いたげに、ちょこんと首を傾げる。

 ――いや、「え?」じゃねえよ。千色はそう思ったが、龍郎は何故か不服そうに口を開く。


「お前こそ、人に熱湯を浴びせるんじゃない」

 

「……四十度より低いくらいだけど」

 今日は暑いし、千色は元々もともと熱すぎる湯が好きではないので、シャワーの温度はぬるめにしている。

 ドラゴン状態の龍郎は全身に炎をまとっているくせに、これのどこが『熱湯』なのだ。


 しかし、龍郎の目の奥には、音がしそうな勢いで暗黒が渦巻うずまき始めている。

「前から思っていたが」

 その低い声に、千色は返事をすることもできず、龍郎の顔に釘付けにされる。

 千色の後ろからはまだ泡塗れの乙盗も顔を出して、龍郎の顔を覗き込む。――早く流せ。


「寒い日なら温かい湯が気持ちいいものだが、何故みんな、この暑い日に、わざわざ熱い湯で身体を洗うんだ」

「寒いからだけど⁉」

 ここは水温が調節されているプールではないし、日の落ちた夕方なのだから、給湯器を通さなかった水道水の温度はかなり低い。


「汗を流すために身体を洗っているのに、湯を使ったら、また汗をかくだろう」

 龍郎の顔は、大真面目である。

「いや、まあ、そうだけど……」

 本当に、龍郎という奴は。

「湯でも汗はかくけどさ、かいた汗を毎日蓄積ちくせきさせていくよりはましだろ」

 しかし、龍郎はぴしゃりと言い放つ。


「非効率だ。徒労とろうだ」

 気持ちは分からないでもないのだが……。

 龍郎の主張は止まらない。

「それに、水をわざわざ細く分割ぶんかつして出すこの蛇口は何だ。何故、水を溜められるあそこで身体を洗ってはいけない。何故一度いちど身体を洗ったのに、そのヌルヌルで一旦いったん身体を汚して、また身体を洗うんだ」

 ……あれ?

 千色は以前から、龍郎は風呂で洗面器ばかり使っているとは思っていたが――。


「……龍、お前、実家ではどうやって風呂に入ってた……?」

 龍郎は一瞬だまって頭から冷水を被り、洗面器を床に叩き付けると、短髪を両手でげて、きっと千色を見る。

「ドラゴンでみずうみにダイブだ」


 やっぱり!

 やっぱりそうだったよ!

 ドラゴンという名の超野生児だったよ!


「あのなあ、龍……。俺たち、ドラゴンじゃなくて人間だから……」

 しかし龍郎は、ひたいを押さえる千色の横で、喋り続ける。

「それに、入浴と釜茹かまゆ訓練くんれんの順番もおかしい。何故、あの大汗をかく訓練の前に身体を洗うんだ。逆だろう」

 ――こりゃダメだ。

 龍郎に一般的な風呂の文化を理解してもらうには、長い時間がかかりそうである。

 しかし、ひとまずは――。


「りゅーりゅー、ちょっとだけ、水の温度上げようよ」

 乙盗の、まだ泡塗れの腕が伸びてきて、水栓に二つあるハンドルのうち、赤い印が付いている方を少しだけ緩める。――だから早く流せ。

 龍郎は不服そうにその腕を見ているが――。


「ほら、ちい君はさ、あんまり冷たいのは好きじゃないんだって。だから、ちい君に冷たいのがかかっちゃったら、かわいそうでしょ」

 乙盗は、手の泡を龍郎の膝になすけながら説得する。千色も――。

「俺は、龍が風邪かぜ引かないかが心配だよ。あと、冷たい水びた直後に、熱い湯に浸かるのも、身体に悪そうだし」

 そんな二人の話を聞くと、龍郎はやっと頷いて、少しだけ温度の高くなった水で彼なりの入浴を再開する。

 千色と乙盗も龍郎への歩み寄りということで、それぞれ湯の温度を少しだけ下げて、自分たちなりの入浴を再開する。


 ――俺たち、まだまだお互いに知らないことだらけだな。

 恐らく、というより確実に、平均的な高校一年生一学期の友人同士よりも――。


「そうだ、千色、乙盗」

 なんやかんやがありつつも身体を洗い終え、三人で湯船に浸かっていると、一人釜茹かまゆ訓練くんれんをしている龍郎が、何かを思い出したかのように口を開く。

「この間、父さんと母さんから、友達に伝言しておけと言われたんだが」

 ――千色にはもう、何を言われても驚かない自信がある。さあ、何でも言ってくれ。


「『息子は今まで、ドラゴンで過ごす時間が長かったので、一般的な人間生活の経験は少ないです。なので、勘違かんちがいや失敗をすることも多いかもしれませんが、よろしくお願いします』だそうだ」


 今の今、たった今、その問題が発生していたんですけど⁉

 一体どうして龍郎君は他人事ひとごとのような顔をしておられるんでしょうか⁉


 千色の内心では大浴槽の湯を全て押し流すほどのパワーで突っ込みを入れているが、だらだら汗をかきながら釜茹で訓練に耐える龍郎の両親からの伝言となるとどうしようもなく、乙盗と二人で顔を見合わせて、ああだのうんだのと返事をすることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る