水連の池

マキノゆり

水連の花

 家への帰り路、いつも通っていたお気に入りの場所がある。

 緑深いこじんまりとした古びた公園で、その中に池が作られているのだが、石を組んだ遊歩道が池の周辺を囲んでいて、周囲を齢を経た大木が囲んで枝を下してとても静かな場所だ。その厚い木々の枝の間から日差しが舞い下り、池の水面をキラキラキラと弾けていて、私はいつもうっとり魅入られてしまう。

 そのままでいると、夕方になるまで居てしまいそうなので、いつもはなるべく急いで通り過ぎるようにしていた。


 季節の移り変わりもとても魅力的で、春は若い翠葉あおば、初夏は水連、秋は紅葉とまではいかなくとも、紅葉した葉が真っ赤な血潮のように青い秋空の下黒曜こくようの水面に広がる。冬になれば枯れて折れた枝が、寒空の下池の水面から呼び掛けるように突き出てる。白茶けた枝に積もる雪は柔らかな綿のようだ。

 私が一番好きな季節は初夏だ。

 水連が水面一面に葉を茂らせ、白いほんのり桃色を帯びた花が、ゆらゆらと揺らめいている。見つめすぎるせいだろうか、花がゆっくりと開き蕾む様子が微かに見える。若い人達の瑞々しい指のような、淡い血の色を纏う花だ。何と美しい。

 このような美しい場所に寄る時、私は大体一人で行くのだが、たまに他の友人を連れていくこともある。この前の5月には、友人になったばかりの若い女性を連れていった。水連の花をどうしても見せたかったからだ。可愛らしい花に似たあの人なら、きっと水連の花々を好いてくれるだろうとその時の私は思ったからだ。


 「可愛い花じゃないか? この花がとても好きなんだ」


 彼女はいつもと違い大人しかった。水面の花々を見ると、ふいと私の顔を見上げ、「そろそろ帰らなきゃ」と言う。私は驚いた。なぜ驚いたかは判らないけど、とてもがっかりした。とってもとってもがっかりしたんだ。だって、この場所はとても綺麗なのに! 今を逃したら、この景色は二度と見られない。

 今考えると、あそこまで彼女の為に必死にならずとも良かったんだろう。でもちらりと見上げた彼女の瞳は、午後の木漏れ日を吸い込むように暗かった。


 「だって、何か変なにおいがするもの」


 悲しかったね。彼女とはそれっきりだ。

 もうすぐ夏の盛りになる。今年はいつもより暑くて、水辺も蒸した水蒸気の匂いがこもる。明後日には夏の台風がこの辺りをさらっていくだろう。雨が降るとなおいい。落ちた水連の花を浸して溢れ出た池の水は、下の川へ合流し、そのうち海へ、あの空の下にたつ黒く大きな神の元へ捧げられるのだ。

 本当は彼女と見たかった。私はとても悲しくなったけど、白い水連の花が彼女の白い手のように揺れたから、このまま一緒に居ようと思ったんだ。

 ああ、もう夜だ。

 満天の星空、遠くに黒い神が海から立ち上がるのが見える。海の香りがしたような気がして、私はもう帰れないことを知った。私の友達、もし、貴方がここから帰れたのなら、明日の朝またここに来てくれ。私がまだ私であるのかどうか、見届ける為に。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水連の池 マキノゆり @gigingarm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ