希望の光

あかりんりん

第1話

不育症で生まれることができなかった娘達へ


僕達夫婦には「のぞみちゃん」と「ひかりちゃん」いう子供達がいた。


ただ、彼女達はこの世に生まれることができなかった。


最後の彼女達の姿を、産婦人科のベテランの先生は


「見ない方が良い」


と仰ったが、僕達夫婦はこうなってしまう事を事前に相談していたので、先生にお願いし、彼女たちの最後の姿を見せてもらうことにした。


彼女たち、すなわち流産した子供達は妊娠8週程度で、わずか2cm程度であった。


彼女たちは人の形こそしていなかったものの、頭と手足のような形が見られた。


これから、もっとハッキリとした形となり、いつかは言葉を話すまで大きくなることが当たり前だと思っていた僕達夫婦は、大きなショックを受けた。


そして、妻は自分を責めた。


僕は妻を慰めることしか出来なかった。


それからしばらくして、お寺さんに水子供養をお願いした時に、


「亡くなったお子様達の名前はなんてお呼びしましょうか?」


と聞いてくれた。


子供達は妊娠初期で亡くなったこともあり、なんとなく考えていた名前であった「のぞみ」と「ひかり」という名前を伝えた。


お寺さんが供養して下さり、二人の名前を読み上げた時、僕達夫婦は泣いていた。


それを見たからか、お寺さんの奥さんも泣いてくれていた。


妻は「不育症」と呼ばれる症状を患っており、それが原因で子供達は流産してしまった可能性があった。


不育症について簡単に説明すると、血が固まりやすい体質のため、栄養や酸素がへその緒を通りづらくなってしまい、それが原因で胎児が亡くなってしまう症状だ。


現代では、10人に1人が患うと言われており、可能性は低くない。


それからネットや参考書を読みながら、夫婦で勉強を始めた。


ただ、妻の場合、第一子として生まれた長女の妊娠時には、何も問題なく出産までできたこともあり、産婦人科のベテランの先生も


「たまたま流産が続いただけだよ」


と仰ってくれたが、その言葉では妻の心痛は癒やされなかった。


だから僕たちは「不育症」について調べ、専門医がたまたま家から車で約1時間の新横浜にいることが分かった。


もし、昔のようにネットがあまり発達して無い時代であれば、僕達は第二子を産むことを諦めていただろう。


幸いな事に、子供ができにくい「不妊症」では無かった僕達は、次の妊娠までそれほど時間はかからず、妊娠が分かった時、すぐに新横浜の専門医に予約した。


さすが専門医というだけあって、妻の不安は今までに無く理解してくれたが、それから妻の闘病生活が始まった。


毎日2回、ヘパリンと呼ばれる注射を自分の腹部に打つ。


このヘパリンは血液をサラサラにし、へその緒を通じて赤ちゃんに栄養と酸素を届きやすくするのだ。


だが一方で、このヘパリン患者はケガをするなど出血すると、血が止まらなくなり、お産が早まった時には、出産時の危険性も増すデメリットもあることなどのデメリットがあることも、きちんと専門医から説明を受けた。


まさに「命がけ」である。


専門医から教わったことによると、それまではなくても1度目の出産を機に「不育症」の体質となってしまうケースもあるらしく、妻の場合もその可能性が高いということだった。


初診から約8ヶ月、妻は毎日2回の注射を続け、通院頻度については妊娠初期は隔週に1回、安定期になってからも1ヶ月に1回であった。


僕は通院の都度、会社の休みを取った。


会社の上司達にも付け焼き刃で学んだ「不育症」について説明し、休みを申請し、上司達はこの言葉を聞いたことが無く、頭では分かってはいるが、良い顔はしなかった。


それでも、なんにせよ休みを取らせてくれた事はありがたいことだと思い、感謝した。


注射について、糖尿病患者の方も同じ事を言っていたが、注射を毎日同じ箇所に打つと、皮膚が固くなり注射できなくなる。


だから、少し位置をズラして打つ。

そうするとまた痛みが大きくなるそうだ。


妻は命を失うかもしれない不安だけでなく、この痛みにもずっと耐えていた。


安定期が終わる頃には、注射の総回数は480回にもなっていた。


注射を忘れる事は1~2回あったが、妻は投げ出したり、もう辞めたい。などとは一度も言わなかった。


妻は強かった。


注射を代わる事の出来ない僕は、せめて家事や長女の世話をしようと、妻に教えてもらって出来る事が増えた。


恥ずかしい話だが、僕はこれまでずっと、無駄な「男としてのプライド」を持っていて、「亭主関白」が当たり前だと、勘違いしていた。


「先進国で未だに男尊女卑が強い国は日本ぐらい」


とはよく聞くが、僕はまだ20代後半で考え方を改めることができて良かったと思っている。


それまでの「行動派で、自意識過剰で、自分大好き」な僕もキライではないが、今の僕の方が、今は好きだ。


7才になる長女が僕に懐いているのも、この時があったからかもしれない。


妻の診察中はよく長女と新横浜駅近くのショッピングモールで過ごした。


それは娘との「デート」だったが、娘は今でも僕と「デート」したがってくれる。


長女はカラフルで見るからに甘ったるいドーナツが大好きだった。

いつも満面の笑みでお口いっぱいに頬張っていた。

僕はそんな長女の笑顔を見るのが好きになっていた。


その笑顔を見ていると、少しだけ不安を忘れられた。


出産予定日が近くなると、新横浜の病院から紹介状を頂き、住んでいる家の近くの病院で出産することが決まった。


そして、僕の母親を山口県の地元から呼んで、準備をしていた。


幸いなことに、岩国錦帯橋空港という呼ばれる地方の空港が数年前に出来ていたことから、関東への移動も少しは楽だった。


新幹線と電車だと、片道4時間30分かかるが、飛行機だと1時間40分のフライトで、途中でサービスドリンクも有る。


さらに、子供を連れているとオモチャもプレゼントしてくれる。


この時のフライト時にいただいたトランプと飛行機形の風船は何セットもあるが、未だに大事に遊んでいる。これを見る度に当時のことを思い出せる。

良い思い出も、そして辛い思い出も。


何度も僕達を助けてくれた母親も、だんだん飛行機での移動にも慣れて、都会の生活も楽しめるようになっていた。


後半は空いた時間に一人で買い物を楽しんでいた。


都会は合わない人には合わないし、ずっと田舎暮らしだった母親が心配だったが、少しは慣れてくれたようで安心した。


父親も数回は来てくれたが、移動だけでかなり疲労していた。だが、当たり前だが責めることはできなかった。


心配してくれるだけでもありがたかった。


さて、妻は安定期と呼ばれる妊娠後期となり、前述したヘパリン注射は出産時の危険性が高いので止めることになったものの、妻の不安や緊張は続いていた。


そして、出産予定日の2週間前の深夜0時を過ぎた頃、妻の陣痛が始まった。


陣痛が始まった事を母親に伝え、妻を車で約5分の病院まで送った。眠っている長女と一緒に、母親は家で待っていた。


病院に着いてすぐに、「おしるし」が有ることが分かり、分娩室へ案内された。


事前にも夫婦で相談していたことだが、妻は長女に「出産」を見せたかったらしく、僕はすぐに母親へ電話した。


「分かった。すぐに長女を起こして行く!」


母親も寝ぼけながらでもすぐに協力してくれた。


それから妻の人生2度目の「命がけ」の奮闘が始まった。


2度目の出産ということもあり「かなり早く産まれそう」だということを助産士さんが教えてくれた。


僕は「このまま産むことを我慢して、妻が死んでしまうのではないか」という不安があったので、すぐにでも産んで欲しかったが、妻はどうしても「長女に出産を見せたい」らしく、ずっと痛みに耐え続けていた。


それから10分くらい経った時、痛みが大きくなっていることから


「お義母さんまだ!?早く!」


と妻が言うので僕はまた母親に電話しつつ、


「もう産んで良いよ!」


とも言ったが、痛みのためかその声は妻には届いていなかった。


電話先の向こうで母親が


「タクシーがいなくて!でももう病院の前だから!」


と息を切らせながら話した。


どうやら長女をおんぶしながら病院まで走ってくれたようだ。


間もなくして、母親と長女が到着した。


僕は何も出来ず、ただただ不安でいっぱいだった。


でも、それは杞憂だった。


私のそんな不安をよそに、それからすぐに妻は第二子を無事に産んだ。


人生2度目の出産に立ち会った僕は、気が付かない間に泣いていた。


興奮して疲れは感じなかったが、嬉しかったし、安心したし、妻へ感謝の気持ちでいっぱいだった。


第二子は男の子だった。


少し年上の陽気な助産士さんが教えてくれたが、へその緒は通常30cm程度の長さであるが、産まれた子は2m近くあった。


これだけ長いと、出産時に首に巻き付いて死んでしまうケースもあるようで、この子はよほど「生」に対する執着心が大きかったのかもしれない。


その後も、同じ助産士さんから、見た目がグロテスクな胎盤を両手でブヨブヨと触りながら見せてもらい、


「ほら!すごいキレイな胎盤よ!」


と興奮下に説明してくれた。


僕達夫婦は興奮と疲れと眠気と安心など、様々な感情が入り混じっていて、胎盤については感想の記憶があまり無い。


子供の名前の候補はずっと考えてあった。


僕達にとって子供は「希望の光」である。


そこで、「ひかりちゃん」の名前である「光」という字を残したくて、「晃」という字を使った。僕の勝手なエゴだが、この子はひかりちゃんの分まで生きなくてはいけない。


「命は重い」ということをいつか教えてあげたい。


僕達にはのぞみ(希望)ちゃんとひかり(光)ちゃんという子供達がいる。


現世には存在していないが、僕達夫婦の心の中に。


そして、長男の中に、ひっそりと生き続けている。




読んでいただきどうもありがとうございました。


ちなみに登場人物の長男は明日で7歳の誕生日です。

ふと、過去に書いたこの作品を思い出し、ほぼ改変せずに投稿することにしました。


当時の思い出や自分自身の事など、恥ずかしくもありますが懐かしく思えます。

もちろんフィクションですが、小説は良いですね。

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希望の光 あかりんりん @akarin9080

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